第3話 侑子

 大好きな友人がこの世を去ったことを知ったのは一年生の春。部屋に飛び込んできた母が震える声で放った一言を、侑子は今でも信じられずにいた。


 今年で中学三年生になった侑子は、迫りくる受験のプレッシャーに悶える同級生たちが必死にペンを走らせる教室で一人、窓の外を眺めていた。隣の席の女子生徒が小声で侑子を呼んだ。



「侑子ちゃん。先生が見てるよ。怒りそう」



 案の定、先生は教壇の上から声を張り上げた。



「おい!何をこそこそしている。今は理科の時間だ。おしゃべりの時間じゃない。それともなんだ、もうノートを書き終えたということか。よし見せてみろ」



 隣の席の女子生徒は小声で、「私は違うでしょ」と不満気に言った。そうはいったものの綺麗にノートをまとめていたようで、先生は少し満足そうな顔をした。対する侑子のノートは真っ白だった。先生は何か言いたそうな顔でしばらく机の横に立っていたが、「ふん」と鼻を鳴らし、教壇に戻った。


 圧倒的な学力を誇る侑子の勉強方法に口出しをする先生はいなかった。医者である父の意向により、県内トップの高校への進学を希望した―させられたといった方が正しいが―侑子の合格はほぼ間違いないものとされていて、教師陣は頭が上がらない様子だった。何か特別な指導を学校外で受けているに違いない。何も言わないのは暗黙の了解だった。


 侑子は何もしていなかった。勉強に限ったことではない。部活、遊び、恋。学生という時間を彩る全てをもってしても、彼女の心を動かすことができない。桜子がいなくなったあの日からずっと、時間は止まったままだ。







 「侑子、おい!侑子!」



 父の大声で我に返る。今は父、母と夕食の時間。箸が止まっていた侑子を、向かいに座る父が呼んでいた。



「最近ぼんやりしている時間が長いように見えるが、勉強の方は大丈夫なんだろうな。今のところ第一志望校への合格は安泰とのことだが、合格などあたりまえだ。入学後も上位で居続けなければならない。一度でも低い点数なんて取ってしまっては洒落にならないからな。気を引き締め続けるようにな」



 父はほとんど家にいることがなく、家族との会話もほとんどない。このように家族揃って食卓を囲むなど稀だ。今回は、万が一にもテストの点数が悪くならないように釘を刺しに来ただけだろう。そんな愛のかけらも持ち合わせていないであろう父が、侑子が日々どんな勉強をしているのか、ましてや、ぼんやりしている時間の長さなど知るはずがない。ただ思い立って、父親っぽいことを言ってみただけなのだ。


 侑子は特別な教育を受けているわけではない。学校の授業を聞き流すだけで大抵のことは理解できてしまうのだ。この誰もが羨む能力こそが、侑子が生まれながらに持った呪いだった。過度な期待、失敗が許されない重圧を日々受け続けなければならない。


 そんな鬱屈した日々を生きる侑子にとって、桜子との時間は唯一心の休まる大切な時間だった。頭は良くなかったし、特別何か優れているとか、そういったものもなかったけれど、桜子はいつでも笑顔の絶えない人だった。毎日楽しそうで、傍にいるだけで自然と笑みがこぼれてきて、悩みも不安も全部消し飛ばしてくれるような人だった。侑子はそんな桜子が好きだった。そして、憧れでもあった。


 いかなる重圧がのしかかろうとも、侑子の思い描く未来は明るかった。なるたけたくさんの色で彩った。その中心にはいつも、自分と桜子の姿があった。ある日突然、その中心にぽっかりと穴が開いて、たくさんの色は一瞬にして流れ落ちた。そこには何も残っていなかった。





 五限目が終わって学校を出ると、侑子は携帯に一件のメッセージが入っていることに気が付いた。送り主は母からだった。そこには、『今日も父さんが家にいるから、早く帰っておいで。みんなでご飯を食べましょう』と書いてあった。それを見た瞬間、侑子の足は無意識のうちに帰路から外れていた。


 母はおっとりしていて、何をするのも丁寧で優しい。愚痴や悪口の類を言っているのも聞いたことがない。口から出てくる言葉はいつも綺麗だ。そして時折、父を愛していると大きな声で言う。父は、侑子はもちろん母に対する態度も冷たい。他人が見れば、夫婦だと気付かないかもしれない。それでも母は、呪文のように「父さんはすごい、天才だ」と褒めちぎるのだ。


 父は確かに凄い。医者という仕事であるし、お金も持っている。見るからに高級な車に乗っていて、家も市内で知らない人はいないというほど大きい。将来は安泰だ。だが侑子にとって、彼は親ではない。話をしようとしない。何も教えようとしない。姿を視界に入れようとすらしない。ちょっぴり不器用な、実はかわいらしい性格のお父さんでは断じてない。明らかに子供に興味がないのだ。彼を誰よりも傍で見ている母は、そのことに気付いているはずだ。にもかかわらず、侑子には「父さんのようになれ、なれ、なれ」と、これまた呪文のように繰り返すのだ。


 母の言葉はいつでも綺麗で優しい。それは家族を大切に思っているからではなく、完璧な父に嫌われたくない、見捨てられたくないという思いから生まれた演技だ。あれは愛ではない。侑子は気付いていた。





 携帯の画面に目をやると、とっくに門限を過ぎていたが、侑子は家に帰ろうとはしなかった。とはいえ、夜道をやみくもに歩き回る勇気もなく、学校から少し離れた人気のない公園のベンチに腰を下ろしたまま動けないでいた。どうせ家を出るならもっと遠くへ、絶対に見つからない場所へ行きたいのに、どうにも足が動かない。こんなことで自分の弱さを知ることになって、侑子は少し落ち込んだ。両親は今頃どんな会話をしているのだろう。自分たちの体裁が悪くなることを恐れて焦っているだろうか。侑子はどんなに想像しても、心から自分を心配する両親を思い浮かべることができなかった。


 日に日に実感する居場所の無さ。まさか自分の家より、暗くて、人ひとりいない公園のほうが落ち着けるなんて、侑子は思ってもみなかった。



「こんなところに座りっぱなしじゃ風邪ひいちゃうよ」



 突然隣から聞こえてきたその声に、侑子の心臓は跳ね上がった。快活で、心地良い声。何度も聞いた。何度もその声を思い出して泣いた。聞き間違えるはずがない。



「桜子?」



 右隣に目をやると、そこには白い猫が座っていた。辺りは暗いのに、はっきりとその姿を視認することができる。その姿を見れば見るほど侑子は理解に苦しんだが、恐る恐る話しかけてみる。



「……あなたが喋ってるの?」



「そうだよ。侑子ちゃん。まさかまたこんな風に話せる日が来るなんて。怖かったよね。逃げ出さないでいてくれてありがとう」



 侑子はしばらく黙った後、大きな声で泣いた。何度聞きたいと願ったかわからない、心地良い声。今確かに隣にいる。桜子がいる。


 ひとしきり泣いた後、侑子はまじまじと猫を見た。あたりまえのことだが、不思議で仕方がなかった。家に帰らず彷徨っているうちに、ワンダーランドに迷い込んでしまったのだろうか。



「桜子は、猫に生まれ変わったの?」



 猫は「ふふっ」とかわいらしく笑った。



「生まれ変わったわけではないの。この子の体を借りているだけよ」



 侑子は呆気にとられた。



「借りているだけって……」



 ツッコミを入れたかったが、目の前で起こっている出来事が現実離れしすぎていて何も言えなかった。侑子は代わりに質問した。



「桜子はさ、やっぱり……死んじゃったんだよね?」



 猫は、大きな声で笑った。



「うん!私はもう死んでるよ。今はこっちに用があって来ているの」



 悲しくてたまらなくなるようなセリフをこともなげに言うものだから、侑子は一瞬元気が戻った気がした。



「それはそうと侑子ちゃん。最近元気がないみたいだけど、大丈夫?」



 その言葉を聞いた瞬間、侑子はまた、ぽろぽろと涙を流し始めた。



「桜子がいなくなって、もうどうしたらいいのかわからなくなった。ずっと一緒にいられると思ってたから。ある日突然いなくなっちゃって、もう二度と会えないってわかった途端に身体中の力が全部抜け落ちた。何をやっても、何も感じないの。桜子がいてくれないと私は……」



 大粒の涙を流しながら話す侑子の手に、猫はそっと前足を置いた。



「侑子ちゃん、私、侑子ちゃんが描いた絵が見たいな」



 侑子ははっとして猫を見たが、すぐに萎れるように下を向いた。


 猫は話を続けた。



「すっごくかわいい絵を描いてたでしょ?私と侑子ちゃんが並んで立っていて、周りに綺麗でカラフルなお花がたくさんあって!もう少しで完成するって言ってたよね!あの絵、もう出来上がってるんじゃない?」



 侑子は下唇を噛み、また溢れ出しそうな涙をもうこぼすまいとしながらゆっくりと口を開いた。



「あの絵は……黒く塗りつぶしちゃったの」



 猫は大きな声で驚いた。



「え!どうしてよ!あんなにきれいな絵だったのに!」



 侑子はその言葉にかぶせるように、怒りが混じったような口調で言った。



「あの絵は!私と桜子の未来を想像して書いた絵だったの。二人で素敵な未来を歩めますようにって。でも桜子は死んじゃった。もう戻ってこない。胸に大きな穴が開いたような感覚だった。だから黒く塗っておしまいにしたの」



 猫はしばらく黙った。少し落ち込んだように見えたが、ハキハキとした声で話し始めた。



「ごめんね、侑子ちゃん。そしてありがとう。私のことをこんなに想ってくれて。本当に侑子ちゃんが友達でよかった。小学校の入学式の日、教室に案内された後、私一番最初に侑子ちゃんに話しかけたの。あの時の自分を褒めてあげたい!よくぞ話しかけた!って」



 猫は深呼吸して続ける。



「でもね侑子ちゃん。これからは、もっと自分のことを想って生きてほしい。侑子ちゃんの人生は長く、長く続くよ。私のことを忘れてなんて言わない。ずっと覚えててほしい!でも、私以外にもたくさんの友達と出会ってほしい。侑子ちゃんかわいいし、優しいし、きっとみんな仲良くなりたいと思ってるよ!それに、好きなことも全力でやってほしい。将来絵描きさんになるって言ってたじゃん!目指してみなよ!絶対なれる!私が保証するよ!」



 猫の声は震えていた。泣いているようにも聞こえた。



「ぽっかり穴なんて空いてないよ。今もこれからもずっと綺麗だよ。だからもう一度書いてみてほしい。自分の未来の絵。きっと素敵な絵になるから。完成したら絶対見にいく!約束するよ」



 侑子は声が出ないほど泣いていた。だがそこに悲しさはなかった。涙と一緒に不安や苛立ち、後悔といった負の感情が流れ出ていったような気がした。


 涙でずぶ濡れになった頬を手の甲で拭いながら、侑子は力強く言った。



「私、絵、描くよ。自分のために。今でも大好きだもん。ぽっかり穴の空いた未来を見るのが怖くて嫌いになったふりをしてたんだ。ありがとう桜子。これからもずっと、私の親友よ」



 そう言われた猫は、まだ涙で濡れている侑子の手に前足を置いた。得意げな顔で胸を張っているように見えた。



「ところで桜子。こっちに用があるって言ってたけど、どんな用なの?」



 猫はしばらく黙った後、細々と話し出した。今までになく元気のない声だ。



「うん……実は、歩のことが気になってて……」



 その瞬間、侑子は顔を輝かせて言った。



「会ってあげればいいじゃない!今こうして私と話しているみたいに!きっと喜ぶわ!ちょっとびっくりするだろうけど。私もついて行ってあげるから!」



 猫は考える間もなく、すぐさま首を大きく横に振った。



「それはできないの。会いに行けるのは家族の中で一人だけって決まっているみたい。でもその最後の一人はもう譲っちゃったから。」



 どういうことかさっぱりわからない侑子はその意味を聞こうとしたが、猫は何かひらめいたように話を続けた。



「そうだ侑子ちゃん。お願いしたいことがあるの。生きているとき、いっぱい侑子ちゃんにお願いしたよね。一生のお願い!とか言っちゃって。いっぱい聞いてくれてありがとう。でも、これが本当に最後のお願い。今までで一番聞いてほしいお願いよ」



 侑子は焦って早口になった。



「待って桜子、最後ってなに。もっとお話ししようよ。明日も明後日も、この猫ちゃんの体を借りてここへおいでよ。私も毎日来るからさ」



 猫は侑子の言葉に答えることなく、話を続けた。



「歩に話しかけてあげてほしいの。なんでもいい、一緒にご飯食べるとか、帰り道一緒に歩くとか、そういうことだともっといい!あ、でもそれだと、歩と付き合ってるとか思われたら嫌だよね……とにかくなんでもいいの!話してあげてほしい!あの子本当はすごく寂しがりやなの!とってもいい子で」



 猫がなんだか焦っているように見えて、侑子は自分の寂しさを伝えることは我慢して、一生懸命話を聞いた。


 瞬きした次の瞬間、猫は消えた。風に揺すられ、カサカサと音を立てる草木の音だけが侑子の耳に届いていた。

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