第2話 猫?

 「西郷先生、あまりご無理をなさらないように」



 養護教諭の雪村先生は心配そうに西郷を覗き込んで言った。物静かな性格のせいか、あるいは深くかかわると有田の嫌味のとばっちりを食らうからか、他の教師たちはあまり西郷に話しかけようとはしない。常に誰かの発した陰口が小さく聞こえてくる。雪村先生もそういった雰囲気には気付いているのだろうが、お構いなしといった態度を敢えてとっているような気がする。歳こそ若いが、どの教師よりも大人びていて周りをよく見ている。西郷が校内で気を許せる唯一の人だ。



「ありがとうございます。表には出さないように努めているのですが、やはり出てしまっているでしょうか」



 雪村先生は、心配と呆れが入り混じったような薄い笑みを浮かべてた。



「残念ながら出てますね。無理もありません。飼鳥君もそうですが、教師陣にも問題児がたくさんいますもの。唯一まともなあなたがその被害をすべて被っているようなものですし。今日はもうお帰りになられてはどうですか。たまにはご自身の身体を労わってあげてください」



 西郷はこの環境に身を置いているせいか、本当は自分が常に間違っているのではないかという不安に駆られることがあった。そんな彼にとって「唯一まともなあなた」という言葉は救いであった。


 雪村先生の後押しもあって、西郷は早めに帰宅することにした。デスクで帰り支度をしていると、ねっとりと纏わりつくドロドロした視線を感じた。それが有田から向けられたものであることは明らかで、呼応するように、職員室内の空気が重く澱んでいくのが分かった。ゆっくりと澱みの根源が近づいてくるのを背中で感じたが、振り返ることなく職員室から出た。廊下を歩いていると、有田の濁声が微かに聞こえる。西郷が帰ったことに憤慨しているようだった。人は歳を重ねるだけでは成長などしないのだと改めて感じた。西郷は大きくため息をついた。


 辞めるつもりであったし、今でもその気持ちに変化はない。当てがあるわけではないが、この環境にとどまり続けるよりはずっとましだと考えていた。だが、今から約一年前の入学式。期待に胸を躍らせる初々しい新入生たちの中に一人、悲しい目をした少年、飼鳥歩を見つけた。全てに絶望したかのような脱力感は、子供の発しうる雰囲気ではなかった。その頃より教職員たちも彼の異様さを察知し、口々に憶測を立てては不気味がっていた。その時西郷は咄嗟に目頭を押さえ、溢れそうな感情を抑えるのに必死だった。まるで過去に戻って自分自身を見ているような感覚に襲われた。当時の記憶が鮮明に甦り、耐え切れず体育館の外へ出た。直接何があったのか聞いたわけでもない。本当は快活な学生かもしれない。西郷はその日、飼鳥歩を遠目に見ただけであって何も知らなかった。それでもなぜか確信に近いものがあった。あの日の自分と同じだと。


 辞められなかった。西郷は子供のころ、どこかの見知らぬ誰かが土足で領域に踏み込んできて、やたらめったらに荒らして人生をひっくり返してくれるのを待っていた。力のない自分に変わって全てを破壊しうる存在の登場を強く望んだ。日に日にその思いは大きく邪悪になっていった。今にも破裂しそうなほどに大きくなり、自分の心までも食い荒らされようとしていた時、突然それは現れた。それが何だったのか、今でもわからない。小さくてか弱い力の無さそうなそれは、幼い西郷の手をゆっくりと牽いてスルッと領域を脱し、遠くまで運んでくれた。遠い地の空気はとてもおいしくて、体中に染み渡った。


 飼鳥は今、領域にとらわれている。飲み込まれてしまう前に脱しなければ。だがどうすればいいか西郷には分らなかった。何せあの時、遠くの地で顔を上げるまでずっと下を向いていたから。下を向いていなさいと言われていたのだ。







 歩は自身の起こした暴力沙汰以降、学校へ行かなくなっていた。夜以外家には誰もいないが、それでも空気が重く息苦しい。とても安らげるような空間ではなかった。昼間は近所の誰もいないゲームセンターに入り浸った。ゲームはあまりプレイできない。不自然に金が減ると叔父に怪しまれるし、そもそもそれほど興味がなかった。アーケードゲームの前に置いてあるスツールに腰かけ、時間が過ぎるのを待った。あまりにもやることがなく、一度だけレースゲームに百円玉を二枚入れた時、歩は腹立たしさに襲われた。今入れた二枚の百円玉は叔父のものである。近頃はもはや怒り以外の感情で会話をすることはなくなったが、金の供給だけは止めなかった。朝起きると、台所の机に乱雑に金だけが置かれているのだ。


 生かされているという惨めさに悶えた。どうして邪魔なはずの自分を生かす必要があるのか。いっそ何も与えず捨ててくれた方が楽なように思えた。


 レースゲームを途中で放棄し外に出ると、辺りは夕焼けの光で橙色に染まっていた。公園のブランコにゆっくりと腰を下ろした。これまでにないほど大きなため息が出て、身体が萎んでいくような脱力感に襲われた。もう金を受け取るのはやめよう。受け取らなければ生きてはいけない。それでいい。いや、それが正解なのかもしれない。家にも学校にも、もう戻らないでおこう。歩はゆっくりと目を閉じた。できることなら、このまま二度と目覚めないでほしいと願いながら。




 あまりにも自然に死という一文字が歩の脳裏を過ぎったとき、隣のブランコに何かがいる気配がした。夕方のこの公園に人がいることなどまずない。もしかすると、似たような境遇の者かもしれない。それなら一目見ておこうと歩は思った。似ているなら今の自分と同じような顔をしているだろう。どんなに酷い面をしているか最後に見たくなったのだった。


 上げたくない瞼をゆっくりと持ち上げ、視線を右隣のブランコに向けた。次の瞬間、歩は大いにがっかりした。ブランコの上に乗っていたのは人などではなく、小ぶりな白い猫だった。すぐさま瞼を閉じ、下を向いた。


 同じ境遇の人だと期待して目を開けたら、そこには人ではなく猫がいた。なんとつまらない出来事だろう。本来であれば次に瞬きした瞬間には忘れてしまうような、まるで中身のない出来事だ。だが今の歩にとって、こんなに小さな期待すら許されないということは致命の一撃だった。


 歩の身体中からあらゆる力が抜けきったとき、耳元で誰かが言った。



「そろそろ帰らないと。また怒られるんじゃないのかい」



 この声の主を歩は知っていた。担任の西郷で間違いない。こんなところまで追いかけてくるとは。それほど情熱的な教師には見えないし、また誰かが学校に苦情でも言いに行ったのだろう。もうどうでもいい。ここは安息の地ではなくなった。歩は目を閉じたまま立ち上がり、そのまま早足で歩き出した。何度も通ったルートを目を閉じながら歩くなど容易かった。しばらく歩くと、後ろから大きな声がした。



「危ないよ!」



 歩は驚きのあまり大きく目を見開いた。無理もない。それは明らかに西郷ではなかった。幼い少年のようなかわいらしい声だったのだ。勢いよく振り返ると、そこにはさっきまでブランコに乗っていた小ぶりな白い猫が一匹、こちらを向いて座っているだけだった。気味が悪くなり、全身に鳥肌がぽつぽつと広がっていくのを感じた。仮に幼い少年の声が幻聴だったとしても、西郷はどこに行った?声を聴いてからほとんど時間は経っていないし、何より、一声かけただけで帰るような教師はいないだろう。普段なら視界の端に入れることすらしない教師の姿を今回ばかりは懸命に探した。きょろきょろと辺りを見回し続けていたが、西郷を見つけ出すどころか、次第に周りの音まで聞こえなくなっていることに気が付いた。風に吹かれて擦れる葉、遠くで聞こえる自動車の走行音。全ての音が小さく曖昧になっていく。


 そして何も聞こえなくなった。耳が悪くなっているわけではない。音が消えている。公園を囲うように生えている木々の枝葉は風で大きく揺れているのに、一切の音を発さなかった。


 恐怖のあまり立ちすくんでいると、座っていた白猫がゆっくりと歩き出したことに気が付いた。こちらに近づいてくる。先程から、不自然なほど歩をじっと見ている。まったく目を離そうとしない。猫など飼ったこともないし、興味もないため生態については全く無知の歩だったが、あれほどまでに人間を凝視する生き物がいるだろうかと気味が悪くなっていた。


 気が付いた時には、猫はすぐそばで腰を下ろしていた。そうして、猫は口を開いた。



「なかなか似ていたと思わない?先生の真似。昔から得意なんだよね、ものまね」



 歩の思考は完全に停止していた。その声は、幼い少年のようなかわいらしい声だった。目を閉じたまま歩いて公園から立ち去ろうとしたときに聞こえた、「危ないよ」の声の主はこの猫だった。


 徐々に思考は動き出したが、動けば動くほど理解ができず混乱した。ありえない。思考が生きることから逃げ続けて、変なところに行きついてしまったのだろうか。それとも、実はあのブランコの上で既にこと切れていて、今見ている映像はこの世のものではないのかも。歩の頭の中を様々な可能性が目まぐるしい速度で駆け巡っていたが、猫の一声ですべてが消え去った。



「信じられないかもしれないけど、僕は喋っているよ。よろしく。名前は……適当に呼んでくれていいよ」



 気が付くと辺りはすっかり暗くなっていてほとんど何も見えなかったが、木々の枝葉が擦れあう音がして、音が戻ってきたことに気が付いた。夢を見ていたに違いないと足元を見ると、やはり白い猫がこちらをじっと見ていて歩の表情は引きつった。暗闇の中に、この猫の姿だけは何故かはっきりと視認することができた。ぼんやり光っているようにも見えた。


 不気味で仕方がなかったが、猫が自分が口を開くのを待っている気がして、震える声で話しかけた。



「お前はなんだ。なんで話せる。なんで俺に話しかけた」



 猫は呆れた様子で笑いながら言った。



「早口で何個も質問を投げかけないでよ。一つ目の質問の答え。僕は猫。二つ目の質問の答えだけど、歩は、どうして自分が言葉を話せるのかと聞かれて答えられる?頭のいい人たちがそういう謎は解き明かしているのかもしれないけど、僕にはわからない。歩もわからないでしょ?そんなに賢くないし……」



 いきなり茶化すように言われ、本来ならばイライラする歩だが、今回ばかりは怒りのいの字もなかった。相手は得体のしれない生き物であるというのもそうだが、まるで自分のことを知っているような話し方に違和感を覚えたからだ。



「どうして俺のことを……」



 歩の言葉を遮るように猫は言った。



「三つ目の質問の答えは、君が死にそうだったから」



 歩は言葉を失った。人間の言葉を発している時点で超常的な何かなのだろうが、さっき知り合ったばかりの、この人ですらない生き物に自分の闇を一瞬で見透かされたことに酷く困惑した。猫は続けて言った。



「家に帰ろう。送ってあげるよ。すっかり暗くなっちゃったし」



 猫は歩の返事を聞くことなく歩き始めた。歩は何言い返さず、黙って猫の後をついて行った。


 玄関の扉には案の定鍵がかかっていたが、猫が前足で扉を撫でるとゆっくりと開いた。歩はもはや驚かなかった。今後この猫がどんな魔法を使ったとしても不思議に思うことはないだろう。猫は大きな声で言った。



「さあ、入った入った。毎日菓子パンじゃ身体に良くないだろうからたまには違うものも食べなよ」



 歩は猫の甲高い大きな声に慌てた。



「起きたらどうするんだ!静かにしてくれ!それになんだ。まるで自分の家みたいに」



「大丈夫。叔父さんは起きてこないよ。明日の朝までぐっすりさ。ただ、お風呂に入ったらさすがに起きるかもしれないから……」



 猫はそう言うと、歩の足元まで駆け寄ってきて脛のあたりを前足で撫でた。すると歩の身体は次第にポカポカと温かくなった。ボサボサだった髪は綺麗にまとまり、石鹸のようないい香りが微かに漂った。まるでお風呂に入った後のような感覚だった。



「サッパリしたでしょ。やっぱりお風呂はちゃんと入った方がいいよ。僕は嫌いだったけど。ご飯食べて歯を磨いたらすぐに寝るんだよ」



 猫はそう言うと、歩を扉の内側まで強引に誘導し、自分は外側へ出た。



「おやすみ」



 まるでその言葉が合図であるかのように、扉はゆっくりとしまった。


 歩は静まり返った玄関で立ち尽くしていたが、我に返りドアノブに手をかけた。聞きたいことがありすぎて頭がこんがらがっていたが、今引き留めなければもう会うことはないような気がして焦った。そして、会えなくなるということに何故か悲しみを覚えた。


 扉の向こうにもう猫の姿はなかった。冷たくなった風に頬を撫でられて顔を上げると、目が痛くなるほど明るい月が夜空を照らしていた。徐々に冷えていく身体に反して、胸の内にはほんのり温かい何かが確かにあった。

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