月が鳴るまで

@noxi_pp

第1話

 賞賛の言葉ならいくらでも湧いてくる。

 それほどの表現力、計算し尽くされた立ち振る舞い。どれ一つ取っても規格外としか言いようが無い。それでもあの日、あの瞬間に思い浮かんだ単語はたった一つ。

 綺麗、だった。



「——貴方の言っていることが何一つ理解できない。同じ言語のはずなのに、異国の人と話すようだ」

「そうか、それは結構。君のような存在にも漸く理解できたか」

 淀みなく並べられる言葉が不意に途切れ、男は視線を下に下ろす。ほんの数秒、緩やかに口角を上げ、歯を剥き出しに目を見開く。

「我々が本来、決して交わる筈のないことを」

 その表情を見た瞬間、息が止まった。左手にある台本も、黒を基調にした私服も見慣れたものだ。それなのに、まるで別人がいるかのように錯覚した。

「……うん、大丈夫じゃない」

 先ほどより高い声が耳を撫でて、ようやく息を吐き出した。

「あ、ありがとうございました。大分イメージ掴めたと思います」

 夕焼けがヒビの入った窓から差し込む会議室は、波國大学演劇部の練習場所の一つである。普段賑やかな空間には、今は二人分の声しか響いていない。

「すいません鳴山さん、休みの日に付き合ってもらって」

「いやいや、俺もやりたいって言ったじゃん。実際自分で覚えてる時だとなんかイメージ掴めないからさ、月河君が声かけてくれてちょうど良かった」

 緩やかに首筋まで伸ばされた黒髪に、細い縁の丸眼鏡。ちょうど同じ高さの顔が朗らかに緩められているのを見て、ほっと息を吐く。

 鳴山俊平。演劇部の一学年上の先輩であり、次の役柄における準主役。とはいえ今回はダブル主演がコンセプトらしく、月河と鳴山の出番はほぼ同等だった。

「ちょっと難しいですよね、鳴山さんの役」

「難しいっていうか、まあ難しいんだけど俺元々一人で役作りするタイプじゃないんだよね。一緒にやる相手とか、その時の雰囲気によって合わせなきゃならないじゃん」

「ああ、確かに」

 脚本の内容自体はシンプルな構造だ。遠い異国から来たと話す男に話しかけられた主人公は、その日から記憶を無くしていく。崩れゆく日常、そこに立ち替わるように入り込む謎の旅行者。異常性に気がついた主人公が問い掛ければ、あっさりとその正体を表す。

 人智を超えた異形、悪魔であると。

「月河君は基本感情演技じゃん? だから今回のしんどいでしょ」

 溢れていく記憶に怯える主人公と、それに寄り添いながら心無い言葉をかける悪魔を基本に物語は進行する。焦燥、恐怖、怒り、どれを取っても舞台では大袈裟に表すべき感情表現だ。

「そうですね。だから俺公演終わったら暫くバイト休もうかとしてるくらいです」

 はは、と頭をかいて笑う。

「……俺まだ演劇始めて一年経ってませんし、大声出すぐらいしか出来なくて。鳴山さんみたいな演技が出来るの本当に凄いなって思います」

「いや、君の場合それが才能じゃん。声量があるのは大事でしょ。それに表現も十分出来てるし、あと」

 にやり、と彼は得意げに。

「俺がいるんだから、全部全力でぶつけてきなよ」

「! はい、勿論、鳴山さんがいるの、凄く安心感が強くて。俺がどんなはちゃめちゃやっても鳴山さんがそれを超えてくれるので、いつももっと頑張ろうって気持ちになるんです」

「……うん、もっと言っていいよ。月河君はすぐ俺を甘やかしてくれる」

「いや、本心ですって」

 鳴山は高校から演劇を続けていて、その実力は部内でもトップクラスだ。明瞭な発声、役ごとに全く違う表現力、そして何より合わせるのが上手い。浮きもしない沈みもしない、絶妙でなお印象に残る演技。

 とぼけた様子で話す鳴山と、舞台上の彼はまるで別人だ。今の月河では遠く及ばない鍛錬による役作りに、毎度驚かされるばかりである。

「そういえば、月河君からみたこの役の印象ってどんな感じなの」

「役の印象、ですか。……小心者の八方美人?」

「ほう、理由は?」

「なんか、自分をよく見せようとしている感じがするというか。記憶が無いのに元カノのことを恋人だと思って接したり、かといって悪魔のことをすぐに切り捨てられなかったりっていうのが。まあ人間らしいと言えばそうですけど」

 主人公は無くなる記憶を取り繕うとするものの、そうは上手くいかないまま友人たちは離れて行き、最後に残るのは悪魔だけ。徐々に記憶を失う主人公をずっと傍で見てきた悪魔は、ある二択を問いかける。

 失った記憶を取り戻すか、悪魔と過ごした記憶を失うか。

「面白い表現するね。……俺は理屈つけてこの役はこうだからこう考えてこう動くだろうなってやるんだけど、月河君は自分の全力を出す感じで演技するからさ。試しに考えてみて欲しいんだけど」

 白い指がす、と月河の目の前に伸ばされる。

「君の信頼のおける人のことを考えて。誰でも良い。近しい人のが想像しやすいだろうね」

 夕日に照らされて、眼鏡の奥の瞳が透き通って見える。

「長い時間でも短い時間でも、月河君はその人と過ごしてた。それは嘘じゃない、本当のことだ。でも君には当然、他にも大事な友達も家族もいる、それも勿論偽りの記憶じゃない。……ここで質問だ」

 す、と目が細まる。唇が吊り上がり、声は低く。

「その人と過ごした本当の記憶は、それら全てを失ってでも欲しいのかな」

「——それは」

 ごくり、と唾を飲みこんだ。過去も、それを奪った悪魔との日々も、どちらも等しく自分の記憶。悪魔が笑っている。美しく、愉快そうに歪ませる口元と、温度のない瞳。

 徐に腕が動いて、伸ばされた指を掌で包み込んだ。

「たとえそれがどんなものであっても、俺は鳴山さんのことを忘れません」

 堂々とした姿に憧れて入った演劇は、楽しいことばかりではなかった。それを時に揶揄い、時に励ましながら、鳴山は月河のことを見守ってくれた。それが楽しくて、彼と演じるときはいつでも気持ちが沸き立った。

見開かれる目を真っ直ぐに見つめる。

 その思いを、無かったことにはしたくない。

「……いや月河君、俺じゃないから。例えばの話だって言ったでしょ」

「え、あ、でも俺鳴山さんのことすごい信頼してるんで」

「ああうん、まあそれだけ具体的に想像できるなら大丈夫。元々心配してなかったけどね、君優秀だから」

「いや、まだまだです。本番までにもっと仕上げていかないと」

「そうだね。月河君」

 はい、と答えると、鳴山は目線を横にずらして口を開いた。

「そろそろ、離してもらってもいい?」

「? ……あっ、すみません」

 慌てて外して距離を取ると、軽やかな笑い声が響いた。釣られて少し笑いながら、頰が上気していくのを感じる。完全に無意識だった。

「や、本当すみません」

「いや全然良いけど。面白いよね、君」

 一頻り笑った後、鳴山が一歩近づく。その表情は穏やかで、目は真剣だった。

「ただ一個だけ。練習から全部出そうとするのはやめた方がいい。月河君の姿勢は立派だし、俺もなるべくそうしたいと思ってるけど、君の場合は体が保たない。役者の資本は体だからね。本番で全力を出す為に、セーブしながら試行錯誤して行こう」

「……はい、気をつけます」

 神妙に頷くと、鳴山は満足そうに笑った。

「よし、じゃあもう一回やろうか。月河君の中でイメージ固まっただろうし」

「そうですね、よろしくお願いします!」

 この脚本の主人公は、最後には悪魔を忘れて日常を選んだ。それも無論正しいのだろう。

 それでも月河はあの日、あの鮮烈な姿を見てこの部活を選んだことに、一片たりとも後悔はない。悪魔のように美しい、彼のことを。

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