第5話

「お前、これどうするんだよ」

 暇で仕方がなかった店長と田中さんはオーダーが入る度すぐに作り始めてしまっていて、カウンターに戻るころには望まれぬ翡翠色のグラスが三つ並んでいた。


「まあ、いいや。どうせ客来ねえし。お前、これ持ってあの娘と一緒にいろよ」

「え、いいんですか」

「タダじゃねえぞ。きっちり三杯分、あの娘の奢りにしてこい」

「同級生にたかれってのかよ」


 エプロンを脱いで、代わりにグラス三つを持って、久米川の座る席へと向かう。

 彼女は既にドリンクバーからホットの紅茶を入れていたようで、香りの薄い湯気がティーカップから昇っている。


「なにそれ、高宮君の奢り? 私、二杯も飲めないよ?」

「あー、まあ、うん」


 まさか、ドリンクバーのオーダーは通していないから、その紅茶は無銭飲食みたいなもので、このクリームソーダこそが請求されるとは伝えられなかった。気づきませんように。


「ここでバイトしてたんだ。て、今もう二時だけど違法じゃない?」

 早速痛いところを突いてくる。まったくもってその通りなので、久米川が労働局なり、青少年育成委員会なり、なんだかよくわからないけど僕たちぐらいの学生を真面目にしたがっているところに報告されるとマズい。

「これがその口止め料ってわけか」

 久米川はクリームソーダのアイスを沈めて、メロンソーダが零れるか零れないかを弄ぶ。

「そんなところ……」


 なるほどね、と楽しそうに口角を上げながら、形を失ったアイスからスプーンで掬って口に運び、「バニラアイスの味だ―」と言ってる。一杯三百八十円。三杯で千百四十円。時給一時間の味である。

 彼女とは普段から話をする仲でもないが、かといって努力して話題を見つけなければいけぬ関係性でもない。


「高宮君も、最近部活行ってないの?」

「うん、バイトが忙しくて」

 部活が一緒なのだ。

 僕たちの学校は真面目な公立校として通っているので、その実績のために全校生徒入部が定められている。

 願書を出す時点でこの校則は知っていたが、家から自転車で通えて、学費も安い公立校は我が母校しかなかった。高校生活をバイト漬けにしようとは決めていたので、幽霊部員になることは入学前から決めていた。

 問題は活動頻度が少なく、サボっても咎められない部活があるかどうかだったが。


「料理部はサボっても怒られないしね」

「ありがたいことで……」

 その名の通り、家庭科室に集まっては部費で食材を買って調理し、飲み食いするだけの部活だ。強い参加義務はなく、フラッと顔を出せば迎え入れてくれるから、僕みたいな幽霊気質には大変居心地がいい。

「久米川は最近顔出してるの?」

「実は私も幽霊。高宮君ほどじゃないけどバイト多めに入れてるし」

「なるほど」

 そこで、僕もようやくクリームソーダに口を付ける。甘ったるい思い込みのメロン味にアイスは溶け出していた。


「じゃあ、今、料理部の常連は部長と副部長、それと加茂先生だけ?」

「さあ、私もたまにしか行かないし。一年生たちはどうなんだろ。私たちが言えた義理じゃないけど、後輩がサボり気味になっちゃうのは寂しいなー」

「本当に僕たちが言えたことじゃないね……」

 週一回の活動でさえ、月に二回も行けば良い方なのだ。後輩の練習(?)態度にどうこう口を出せたもんじゃない。


「ていうか、僕たち担任が顧問なのにサボるとかヤバくない? 毎日顔合わせてるんだよ?」

「別に加茂先生だから良いかな。詰めてくることないし、面倒なくて」

「先生のこと舐めてる?」

「ん? ううん、好きだよ? 加茂先生」


 話がズレているような……。それまで明快だった久米川が急にお茶を濁してきたような。「冷たいの飲んだら温かいの欲しくなっちゃった」と、ティーカップを持ってドリンクバーへ向かった彼女の背中はどこか、大人びて見えた。

 制服を着ていないからだろうか。

 肩が剥き出しのトップスに、ホットパンツ。同じクラスの女子の私服が少し露出の激しいものだと思わず顔を背けたくなる。見てはいけないものを見ているような気がして。


 職業:お水(店長予想)の常連客を見る。あの人の今日の服装は、偶然にも久米川と同じ系統だった。ただ、お客さんがあの格好をしていても、心から見ることを拒絶しない。


 ただのファッション。不自然さや危うさ。世の中の常識からはみ出して、いつか咎められるのではないかという心配がない。

 久米川の服装にはそれがあった。やっぱり若いからだろうか。


 スマホを弄っていたはずのお客さんと目が合って、手を振られたので軽く返す。

外はすっかり真っ暗。窓の外を走る車のヘッドライトが音を残して去っていく。


「クーラー効いたところで温かいの飲むのは最高の贅沢だよねー」

「クリームソーダがまだ残ってるけど」

「これ以上飲んだら身体冷やしちゃう」

 どうやら彼女はこれ以上、上辺が白くなった飲み物に手を付けてくれなさそうなので、僕が仕方なく二杯目のクリームソーダを受け取ることにした。ここで、三杯のクリームソーダを同級生の女の子に奢らせることは不可能となった。

 それから、二つほどの話題を回している間に、朝の五時になり、勤務が終了となる時間となった。


「五時、閉店?」

「いや、二十四時間営業。僕は帰るけど。久米川は?」

「私は、まだいるかな。せっかくだし」

「そっか。帰るときは気を付けて」

「ありがとう」


 荷物を取るためにバックへ行き、煙草を吹かしている店長に「お疲れさまでした」と軽く挨拶をして、店を出る。この人、いつ帰っていつ寝てるんだろ。僕が出勤したときはたいてい居る。

 自転車に跨って四十五分。2DKの我が家に着くと、妹はまだ眠っていた。起こさぬためにもこのまま寝ようかと布団に身を転がしたところで、今日一日のいくつかを思い出す。


 石井と話した駅前のファミレスについて。授業を思いっきり寝ていて加茂先生に指摘を受けたこと。久米川がバイト先にやってきたこと。彼女の服装に、なぜか危うさを覚えたこと。彼女より先に店を出たこと。

 大したことのない一つ一つが、時系列順に頭を巡る。もしかしたら走馬灯もこんな感じで見るのかも。

 死ぬとしたら、いつ死ぬだろう。加茂先生にも言われた、自分の健康は大事にしろ。自分でもよくわかっている。学校とバイトでかなりハードワーク気味になっている。だけど、自分の身に起こっている不調と言える不調は毎日眠たいことだけ。


 一つ、先のことを思い出す。

 妹の──椿の水着を出さなくちゃいけない。

 来週から水泳の授業が始まるから出してくれと頼まれていた。

 もう小学五年生になるのだから自分で出せよと言いたいが、僕だって同じぐらいのときは母さんに頼んでいたのだから、大きくは出られない。


「やるか」

 次のシフトは十七時から。

 それまでに妹の晩飯を作って、と考えると十五時までは寝られる。

 押入れを開けて、【水着】と手書きのラベルを貼った引き出しを開ける。

 学校指定の水着しか持ってないから、目当てのブツはすぐに見つかった。

「書き直さないといけないな」

 胸元のゼッケンは四年生のままだ。そういえば、今年は何組になったのか教えてもらってない。五月の家庭訪問も母さんがいないことを理由に断っている。


「ついでに整理するか」

 押入れの中には服だけじゃなく、昔の教科書なんかも仕舞ってある。広い家じゃないから、定期的に整理しておかないとすぐに物で溢れる。

 一学期中は全学年で使っていた教科書やら問題集やらが必要になるかもしれないと、保管しておいたが、蝉も鳴き始めるこの時期になっても、どうやらその気配はないので、処分しても大丈夫だろう。


 何冊も分厚い教科書類を押入れから出しては積み上げていると、一冊と一冊の間に挟まっていたのか、異質の一冊が硬い音を立てて零れた。

「なんだこれ?」

 淡い色付けの多い、学校から配られる教科書たちとは違う。バンドで留められた真っ黒な装丁。厚さは、数学の問題集ぐらい。大きさは大学ノートと同じだ。

 もちろん、その本に僕は覚えがない。


「椿のか?」

 こんなの持っていたか? まさか、妹の持ち物を全て把握しているわけでもないから、僕が知らなくても、別に不思議がることでもない。

「でも、なんでこんなところに」

 ここ、押入れがあるのは僕の部屋だ。襖で仕切られていて、鍵なんて上等なもの付いていないから、椿が入っていたとしても、どうしてこんなところに?

 思考が、【椿が隠したからここにある】に寄って行っている。

 別に、どっちでもいいだろ。

 もう小学校五年生だ。兄に知られたくないことだったあるだろうし。わざわざ全てを報告する約束もない。


「で、これは?」

 日記、だろうか。

 一瞬、椿と同じぐらいの齢の時、同級生の女の子が持っていたプロフィール帳が頭を過るが、アレはもっとはゴテゴテとしてポップでキュートの表現見本みたいな色をしていた。

「なんというかオッサンくさいな……」

 無地のノート。表面が真っ黒なせいで、タイトルも用途も書けない。発色の強いマジックペンで書いたとしたら、それこそデザインが台無しだ。

「……」


 好奇心が湧く。

 椿ももう五年生だ。家族にも言えぬ秘密の一つや二つ、抱えていることだろう。

 手の中にある真っ黒な本が日記だとしたら。しかも、こんなところに隠すものだとしたら。

「ま、まあ、ちょっとだけ」

 バンドを外して、表紙を捲る。

 ざらついた紙に輪郭が少し滲んだ文字が並んでいる。



 夜、夕食を食べて部屋で寛いでいたら、アイツがまた女を連れてきた。甲高い声と家の広さを自慢気に語る声が頭にくる。せっかく静かな夜が朝まで続くと思っていたのに、これだ。次の日は休み。女も朝までいる気だろうか。私が、今、お前が目の前を通った部屋の中に居ることに気づいていたのか。気づいていたなら、その図太さを称賛する。けれど、腹が立つ。

 シャワーの流れる音がドア越しに響く。このまま、始める気だった。二人の声が甘ったるくて吐き気を催すセックスが至高と叫ぶためだけの獣みたいな声になる前に、私は家を出た。

 時間を潰せる場所を見つけて、思わぬ出会いをして、ふと、アイツが作れと命じたくせに結局手を付けなかった夕食を思い出して、また腹が立った。空が明るくなっているから、アイツらは発散するだけ発散して眠っているのだろう。私はこうして、眠る場所も見つけられず彷徨っていたというのに。

 帰ってもまだ居たから、殺した。なぜ、私が我慢しなくちゃいけない。次アイツが女を連れてきたら殺して、我慢するのをやめにしたかった。殺して、死体を隠して、自由になろう。



「これ、椿が書いたのか……?」

 まさか、この怪文書を?

 小学五年生だ。創作的意欲が芽生えてくる時期かもしれない。僕も似たようなことを友達とやった覚えがある。当時ハマッていた漫画に影響されまくったキャラクターばかりが登場する、思い出すのも恥ずかしい物語だ。


 それに比べたらこれは、なんというか妙に生々しいというか、黒々しいというか。

 セックスなんて、小学生の女の子が使うだろうか。そりゃあ、椿は僕の目を盗んで夜九時から放送のドラマを観ている節があるから、知識としてあってもおかしくないけど。


「でも、なんだかなあ」

 何かが引っかかる。

 椿は漢字テストの補修でよく居残りさせられている。本人は上手く隠しているつもりかもしれないが、ごみ捨ての日には満点を取れるまで回数を重ねたテスト用紙が出てくるので、兄は知っている。


 そんな彼女が、こんなに多くの漢字を使えるだろうか。

 そして【時間を潰せる場所を見つけて】の一文。

 家庭に居場所を見つけられない人は夜が苦痛らしい。嫌いな人が集まって、居心地が悪いか、もしくは誰もいなくて寂しくて、暗い部屋に耐え切れず明るい光を求めて。いつか見たネット記事の一節だ。後者は他人事じゃないな、と読んだとき椿の顔が過ったのを覚えている。


 今は、前者の一節がフラッシュバックしている。記憶の泉から湧き上がって、表面に現れた湧き水に色がついて、輪郭が見え始める。


 気が付けば、僕は家を出て自転車を漕ぎ出していた。

 朝日に焼けていた空もすっかり落ち着いて、夏の気配が風に交じっている。


「久米川!」


 僕が【ニューヨーク】前に着いた時、ちょうど久米川も店を出たところだった。

「あ、あれ? 高宮君? どうしたの? 忘れ物?」

「そういう、わけじゃ、ないんだけど……」


 必死にここまで自転車を走らせてきたわけだけど、僕自身、はっきりと目的があったわけじゃない。


 でも、気が付けば、なんて夢遊病みたいにここへ辿り着いたわけでもない。

 椿の日記か、創作物か。このどれでもない何かを読んだせいで、【ニューヨーク】へ戻ってこなくちゃいけない気になった。


「でもよかった、帰る前に来てくれて。……席には何もなかったよ」

 微笑む久米川の笑顔が彼女の肩越しに広がる、明けたばかりでまだ淀みの知らない空に消えてしまいそうだと気が付いたとき。僕がここへ走った理由もわかった。

 すごく心配になったのだ。さっきまで話した同級生のことが。

 不思議そうな顔で彼女が首を傾げる。


 上手く言葉にできなくて、僕はずっと黙ったままだ。何か言わないと。

「あのさ、」

 自転車から降りたらいいのにそれすらせず。


「人殺しなんてやめとけよ。絶対にバレるから」


 言うに事欠いて、とはこの事である。

 だけどもし、これを読んでくれている誰かがいるとしたら、既にお気づきだろう。

 彼女は人を殺そうとしていた。もう、どうしようもないくらいに。昨日今日のストレスの噴火によってではなく、僕たちの人生にとっては長い年月の間放り込まれ、生きるために彼女が身に着けた忍耐力と寛容さで爆発を防がれていた手榴弾や弾頭によって。

 この日、私が殺さず済んだのはアナタのおかげ、とは言ってくれるけど。まさか、僕の寝ぼけた一言が、永遠に続く魔法の呪文だったと己惚れるつもりはない。

 本当にたった一瞬だけ。久米川を思い留まらせるのに成功しただけだ。

 この日から、僕と彼女の周りで奇妙な事件が起こり始めた。

 せめて、忘れないよう。これを書いているときは、もう過去のことだけど。思い出は蝋燭みたいなものだと彼女が言っていたから。儚く揺らぐ灯を眺めている間に融けきってしまわないうちに、書き記しておこうと思う。

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