第3話

「ああ、駅前に新しいファミレスが出来たから、皆そっちの方に行ってるよ」

 昼飯を一緒に食っている石井が教えてくれた。


 石井は誰かとのラインのやり取りに区切りがついたのか、スマホを机の上に置き、紙パックを開けて、ストローを咥える。悔しいことに、それだけの動作がまるでコマーシャルの一コマみたいに決まっている。


「駅前?」

「高宮は自転車通学だからそっちの方行かないか。網田橋の」

 網田橋はこの辺で一番栄えている繁華街で、学校終わって遊びに行くとなれば、だいたいそっちの方面へ繰り出すことになる。僕は高校を入学してから、アルバイト漬けなので数えるほどしか足を運んだことはないが、それでも知っていることはある。


 まずはアクセスの良さ。

 網田橋駅はJR、市営地下鉄、その他私鉄二線が集合している迷路みたいな駅だ。どこから来る人も、ひとまず網田橋にさえ行けば最寄り駅まで乗り換えができる。 

 それと、繁華街が近い。この繁華街はいくつかの街を跨いでいるが取り纏めて【網田橋】と呼ばれている。


「二本橋に目的の店があっても、待ち合わせは網田橋駅にするんだよ。そうしたら、道中別の店も見れたりするから。デートの時とか、ぶらつくのに便利だから覚えとけ?」

「ああ、うん。機会があればね」

「お前、彼女作る気ないだろ」

「ないよ。そんな余裕もないし」

「ま、それもそうか。お前みたいな童顔なら貢ぎたいってお姉さま方もいそうなもんだけど」

「はいはい」

 石井には僕の事情をいくらか教えている。そのうえで、同情を表に出さず接してくれるから、こっちとしても楽だ。

「で、駅前に新しく店が出来たからって、どうしてうちの店の常連まで持っていかれるんだよ」

「帰る前の一休みにちょうどいいんだろ。だってさ、お前考えてみろ」

「ん?」

「わざわざ流行りモノが集まる二本橋まで行ってファミレスは選ばないだろ」

「ちょっと前まで来てくれてたじゃん」

「諦めたんだよ。なんかあるかなーと思ったけどアンテナに引っかかる代物はなかった。じゃあ、諦めて無難なところへ行こう。そこがファミレスなんだよ」

「本宮寺店の前では諦めてくれなくなったと」

「あそこ、厳密にいえば網田橋じゃないし。メインストリートとは少し離れるじゃん。だったら、わざわざそこまで足を伸ばさなくても」

「帰り道にある駅近くのファミレスを選ぶ、か」

「そう」


 石井の言う通りだとすれば、若い客が少なくなったことも合点がいく。あの辺で唯一のファミレスという存在感がうちの強みだった。


 しかし、だとしたら仕事終わりのサラリーマンたちは? あのスマホか新聞か文庫本が友達のくたびれかけた彼らが流行りモノを探して網田橋を闊歩する姿が想像できない。せいぜい、クリスマス前かホワイトデーの直前だろう。偏見なのはわかっているが、今の石井の説だけでは納得がいかない。


「網田橋のほうが制服が可愛い。カワイイ娘も多い。あと、店長らしき人がめちゃくちゃ美人」

「悪かったなうちの店の制服はダサくて、どちらかと言えば男が多くて、店長はムサいオッサンで」

「おう。店長さんに言っといて。もうちょっと面接は見た目重視にしたほうがいいって」


 実を言うと、僕も少し気になっていた。なんで男性ばかりを採るのかと。ただの飲食店だとしても華やかさは大切なはずだ。清潔感とは違う、居心地の良さをもう少し目指してもいいのではないか。

「店の心配もいいけど、五限目の課題やってきた? 太田名物の日本史設問作り」

「あ……」

 すっかり忘れていた。

「この一週間、シフトが多めで」

「お前、いつもそうじゃん。少ないときなんてテスト前ぐらいで」

「お願い! 見せて! うまいことやるから!」

「今回ばかりはダメだ! 前回、俺の丸パクリしたせいで睨まれてるんだから!」


 昼休み終了の予鈴が鳴り始めて、慌てて教科書と提出用のプリントを引っ張り出す。虚しく真っ白な空欄に向けて、適当な問題を書き出す。


1.江戸時代は()年に設立された。

2.生類憐みの令を発したのは()。

3.江戸時代は()年に滅亡した。


 これぐらいでいいだろ。大事なのは中身よりも出すこと。

 授業が始まり、白髪がお生い茂る太田先生が集まったプリントをざっと捲って、深いため息を吐いた。


「皆さんが生類憐みの令と江戸時代の滅亡についてとてもよく勉強していることがわかりました。次のテストでは絶対に出しません」

 えーっ、と嘆きの声が教室に広がる。右斜め前に座る石井もオーバーな態度で叫んでいた。お前も書いてたのかよ。見せても見せなくても一緒じゃん。


 僕たちの嘆きが止む前に太田先生が「でも、」と呟く。

「この問題はいいですね。『幕府の法度が天皇の勅許に優先されることを示した事件の名前と、その内容を答えなさい』。うん、いいね。でも、答えられないと意味がありません。プリントにも答えが書いてくれていますが、作成者の──久米川さん。この問題を答えてくれるかな?」


「はい」と立ち上がったのはグラウンド側の窓際──僕の左前に座る久米川佳代。餡蜜を溶かしたような黒髪をボブカットにして、勉強なんてそっちのけで友達と遊んでいそうな女だ。まともに課題をやってこない僕が言えた義理じゃないが、知的さみたいなものから二歩か三歩離れた位置に立っていそうな顔をしている。よく言えばいつも笑顔で元気いっぱい。


 久米川は少し恥ずかしそうにはにかみながら、

「事件の名前は紫衣事件です。内容は、禁中並公家諸法度に起因します。朝廷を幕府が支配するための法律ですが、これには僧侶の最高位を示す紫衣の着用を天皇が許可することに干渉する内容も含まれていました。しかし、後水尾天皇が政府の許可を得ずに大徳寺などの僧侶に紫衣を与えてしまい──」


 この辺りで僕は彼女の声に耳を傾けることを諦めていた。代わりに入ってくるのはグラウンドからの掛け声。ラジオ体操のカウントが、意識を沈めていく。満腹と午後のそよ風がまどろみを誘って、久米川の声が遠くなっていく。


 チャイムの音が目覚ましだった。

「あー、」

 寝ていた。体感にして、かなりガッツリ。たぶん、十分とか二十分とか、そんなレベルじゃなく。たぶん、授業も終盤に差し掛かっているぐらいじゃなかろうか、と黒板の上に掲げられた時計を見れば十六時十分。一日の終わり。僕を目覚ましてくれたのは六限目の終了を知らせるチャイムだった。


 五限目から一時間どころか、さらにその次の授業まで丸々眠ってしまっていた。

 今日の最後の授業は確か、

「高宮君、結局一回も起きてくれませんでしたね!」

机の前に栗毛の若い教師が立っている。

「加茂先生……」


 ああ、そうだ。今日の六限目は地学だった。あろうことか、担任の授業を眠りこけていたのだから救いようがない。

「毎日遅くまで何をしているか知りませんけど、高宮君、職員室でも有名になっているんですよ?」

「授業は寝てばかりいるくせにテストは赤点回避する優秀な生徒として?」

「授業は寝てばかりいるくせに赤点は回避する。カンニングの疑いがある生徒です」

「それって冤罪じゃ……」

 先生たちからそんな風に思われていたの? 確かにテストの時、やたらと僕の周りを巡回しているけれど。少しショック。


「先生もそう思いますが、疑う気持ちもわかります」

「半信半疑なんですね……」

「一夜漬けばかりじゃいつか身体を壊しますよ」

「一夜漬けは一夜だけですよ」

「何日も続けば話は別です」


 ここで加茂先生の優しそうな顔が少しだけ硬く歪んだ。

「高宮君が大変なのは知っていますが、それでもやっぱり大切なのは高宮君の健康です。あまり、無理しないでください」


 授業では聞いたこともないくらい真剣な声。こんな時の大人には大人しく頷いておくべきだ。自分にとって必要でも不必要でも、少なくともそれは確かに僕のために手向けられた気持ちなのだから。受け取らなくては、いつか大切な時に思い出せない。そんな経験を何度もしてきた。大人の話を真面目に聞いていたからこそ、こうして生活が出来ている。


「あ、今、先生が今まで一番真面目な声を出したと思っているでしょ」 

 バレていた。

「高宮君は一度も先生の授業を聴いたことがないから知らないでしょうけど、先生だって真面目に話すときは話します。高宮君は寝てばっかりで一度も授業を聴いてくれたことないですけど」


 二度も言ったよ。そんなに寝てばかりの印象が強いのか。仕方ないか、今も広げている地学のノートは新品当然だし。

「さ、もう学校を出なくちゃいけない時間なんでしょ? 先生の話は終わりましたから、気を付けていってらっしゃい」

「え、あ、ああ、ありがとうございます」


 確かに、シフトまで時間がない。加茂先生にいつも何時から働いているなんて喋ったことないけれど、気を使ってくれたのなら甘んじて受け取る。

「ノート、誰かに見せてもらってね」

 そうします、と言って、纏めた荷物を持って教室を出る。

 黒板には学祭のクラス展示についての案が並んで、その下にはいくつかの不揃いな【正】の字が並んでいた。

 ちゃんと授業してたんだよね?

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