5-7
「世界五分前仮説」に関する言及の載っているラッセルの著書「心の分析」を家の本棚から取り出し、該当箇所を探す。
これを読み込んだところで美菜子の素性が明らかになるわけではないが、少なくとも、美菜子の言わんとしていることを理解できるのではないかと思った。
該当部分を見つけ、その前後数ページに目を通す。難解な内容であるため、すんなりとは理解できない。もう一度読む。わかるようなわからないような気分になる。再度読む。頭がぼんやりとして、なぜ自分がこの本を読んでいるのかわからなくなる。
と、そこでスマホが鳴った。
芽衣子からの着信だった。
「助かったよ」
頭から一気にガスが抜けたような気分になり、ついそんなことを言ってしまった。意味がわからないはずだが、芽衣子は得意げだった。
「そうでしょ? もっと感謝してほしいわ」
「今ちょっと、難しい本を読んでたんだ」
「ねぇ神市、あなたたまに難しい本を読むけど、頭悪いんじゃない?」
「なんでよ」
「頭がいい人は、自分に理解できる本しか読まないものよ。あなた、前も変なの読んでたじゃない。ネチャネチャとかニチャニチャとかいう気持ち悪いやつ」
「ニーチェ」
「そうそれ。そんなのばっかり読んでるから、気が滅入るのよ。たまには友達と会ったり外に出かけたりしないと」
「さっきまで友達と会ってたんだよ」
「あら」
芽衣子が意外そうに言う。
「神市に友達がいたの?」
「いるよ。学生時代の友達」
「学生時代の友達? なんだ、てっきり神市は、孤独な学生時代を過ごしていたのだと思ってた」
「まぁ、学生時代の友達といったら、そいつくらいしかいないんだけどね。本田明弘って奴で、あきちゃんっていうんだ」
「あきちゃん。どうせ変人でしょ?」
あまりの言いように僕は思わず吹き出した。
「あきちゃんはまともだよ。陽気なJR職員」
「へぇ、そのあきちゃんがどうしたの?」
「ああ、うん。結婚するっていうから、その報告も兼ねて久しぶりに会おうってなって」
「結婚するの?」
「そうらしいよ。学生時代から付き合ってる恋人と」
芽衣子は「ふぅん」とどうでもよさそうに言った。確かに、友達の友達が結婚するらしいという話ほど、どうでもいい話題はない。
「ところで、どうしたの? 急に電話してきて」
「あ、そうそう。用事があって電話したのよ。明日なんだけど」
「まさか、また仕事が入ったの?」
「違うわよ。先週と同じ店を予約しようと思ったんだけど、予約いっぱいで入れないって言うの。だから、新宿の姉妹店のほうにしようと思ってんだけど、それでいい?」
「ああ、どこだって構わないよ」
僕が言うと、芽衣子が得意げに「ふふん」と笑った。
「そりゃ、私と一緒にご飯が食べられるんだったら、それだけで幸せよね」
「あ、明日、芽衣子も来るの?」
「黙らないと出会い頭にビンタしてやるから。……」
それからしばらく芽衣子と話し、電話を切った。
僕はふぅと息を吐き、ラッセルの「心の分析」を本棚に戻した。
この本は、少々難しすぎる。
伸びをしてから肩周りのストレッチをし、久しぶりに湯船にでも浸かろうと、僕は浴室へ向かった。
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