5-8
僕は下北沢で、カメラを回していた。カメラの前には目つきの悪い男がいて、なにやら楽しそうにしゃべっている。僕の友達であるらしい。
すこぶる自由で、心が軽かった。こんな生活がいつまでも続けばいいと心から思った。
が、スマホのアラームがけたたましく鳴り、理想的な世界は一瞬で意識の果てに吹き飛ばされてしまった。
窓を見た。夜は明けていたが、雨が降っているのか、外は沼のようにどんよりと濁っていた。
夢の中にいた目つきの悪い男が誰だったか、歯を磨きながら考えた。しかし、一切の心当たりがなかった。
あんな夢を見たのは、僕が無意識的に、現在の生活から抜け出したいと思っている証だろう。いや、無意識的にではない。僕は意識的に、目の前の現実を嫌悪している。
僕は白シャツを着て、グレイのスラックスを穿き、マンションを出た。
雨が降っていた。
ビニール傘を差して、水たまりを避けながらゆっくり歩く。コンクリートに足がそのままのめり込むのではないかと思えるほど、心も体も重い。
途中コンビニに寄って、朝食用のおにぎりを買い、店の前で食べた。空気が重たくのしかかってくる。
仙川駅から電車に乗る。
ラッシュ時の京王線は大混雑で、酸素が薄い。特に今日は雨が降っているからか、蒸れた空気が悪臭となって鼻先にまとわりつく。
明大前駅で乗り換え、井の頭線に乗り換える。ちょうどよいタイミングで来た急行は寿司詰め状態で、見るだけでうんざりして見送ることにした。
それでも混んでいる各駅停車に乗る。誰かの肘が脇腹に当たっている。どけてくれと頼むことはできない。言ったところで仕方がない。その人だって腕を動かせない。
途中の下北沢駅で、小田急線に乗り換える人間が大勢降り、また大勢が乗り込む。
誰かが僕の頭に空手チョップをしていった。吊革を握っていた手を、勢いよく真下に下ろしたらしい。
舌打ちしそうになるのをぐっとこらえる。
電車が終点の渋谷駅に到着する。
減速しだした途端に、目の前に座っていた中年の男が、降車するために立ち上がる。座っていた人間は立っている人間が降りきるまで待っていろと言いたくなるが、言っても仕方がないので口をつぐむ。
「降ります! 降ります!」
ドアが開いた瞬間に、小さなおばさんが人をかき分けながら叫ぶ。当たり前だ。ここは終点だ。皆降りる。
ホームに降りて、人の波に押し流されて改札へ向かう。
前を歩いていた男が改札に引っかかる。何度も何度も、財布をセンサーにかざす。そのたびにピン、ピンとブザーが鳴る。
男が舌打ちをした。
僕は男の背中を蹴飛ばしそうになり、慌てて深呼吸をした。
改札を抜けて、人の流れから外れてため息をつく。ついしゃがみ込みそうになる。
渋谷まで来るだけで、一日分の気力体力を使い切ってしまった気分だ。これから仕事をするなんて、正気の沙汰とは思えない。
しかし、職場へ行かなくてはいけない。そういうルールになっている。仕事が僕を、待っている。
僕を?
いや、厳密には、僕のことなど待っていない。仕事をする誰かを待っている。その誰かが、偶然僕であるだけだ。
職場に入ると、すでに数人の社員が出勤していた。
「おはようございます」
「おあおうおあいあう」
挨拶をしても、誰ひとり僕を見ず、ただ口を開けて空気を出すだけの返事をする。
自分の席に座り、パソコンの電源を入れた。
その日の業務内容を確認する。五件の記事執筆。内容は不動産投資に関するものと、転職のノウハウに関するもの。
早速、原稿を書き始める。
心を無にして文字を打ち込んでいく。できるだけ文体に個性が出ないように、平易で平坦な文章を心がける。
「あの、神市さん」
突然話しかけられて我に返る。
プランナーの女性社員が立っていて、虚ろな目で僕を見ていた。
「はい?」
「アキレスの三月分の記事なんですけど、先方から修正依頼があって」
「修正依頼ですか」
「はい、三月分の二記事目、履歴書の自己PRの書き方に関する記事です。メールで送っといたんで、内容確認して修正お願いします」
「はい。承知しました……ほかには、なにか言われませんでした?」
「いえ、ほかの記事は問題ないらしくて、承認されました」
「そうですか」
「修正原稿、今日中にお願いします」
「はい」
執筆中の記事をいったん脇に置き、修正依頼されている原稿のファイルを開く。
先月提出した原稿に、先方からの赤が大量に入っている。
読者にとっての読みやすさを最優先した記事を書いたつもりだが、先方はそれが気に入らなかったらしい。もっとクライアントファーストの記事を書けという主旨の修正依頼だった。
「
僕はライターチームのリーダーに、修正内容を説明した。
「……この依頼通りに修正すると、読者にとって読みにくいものになるんです。というよりも、有益な情報じゃなくなるというか、誰のための記事なのかわからなくなるというか」
「でもまぁ、クライアントがそうしてくれって言ってるんだから、それでいいんじゃない?」
「そうですか……」
いくらこちらが気を使って仕事をしても、クライアントが無頓着では意味がない。いったい誰のために、僕は仕事をしているのだろう。
金をくれるクライアントか? 記事を読む読者か?
読者の声は僕のもとへは届かない。クライアントからは機械的な「承認」が伝えられるだけで、記事に対する喜び、お褒めの言葉は送られてこない。送られてくるのはいつも、修正依頼という名の「文句」ばかり。
「神市くん、ちょっと煙草吸おう」
金本が席を立って言った。
喫煙所へ行くと、金本が煙草に火をつけながらぼやく。
「昨日、神市くんが帰った後、急遽リーダー会議があって、残業だった」
「そうなんですか? 議題は?」
「あの塩谷の馬鹿がさ、また適当ぶっこいてクソみたいなクライアント引っ張ってきたんだよ」
「どんなクライアントですか?」
「企業コンサル系の会社なんだけど、会社の節税に関するコラムを書いてほしいんだって。税制に関することは難しいって、いつも言ってんのにさ。営業は数字のことしか考えてない馬鹿だから、こっちの話なんて聞いてないんだよ。しかも、税理士監修のもと記事を書くって先方に伝えたらしい」
うちの会社に記事の監修を行う専門家はいない。
「そんなことできるんですか?」
「できるわけないじゃん。でも仕方ないから、会社の顧問税理士に頼もうってことになった」
「毎回読んでもらうんですか?」
「そんなことできないから、名前を借りるだけ。しかも、このクライアント、うちの班で担当することになった。面倒なクライアントは全部うちだよ。クソしかいねぇよ」
金本は、その後も延々と、煙草三本分の愚痴をはき続けた。
「……このクライアントの記事、来月からなんだけど、神市くんに頼んでいいかな?」
「やらなくちゃいけないなら、やりますけど」
「まぁ、適当でいいから」
僕は席に戻り、仕事を再開した。
結局、二件の急遽案件を追加した計七件の原稿を書き上げ、その日の業務を終えた。
「お先に失礼します」
「おうあえああえう」
渋谷駅へ向かう道すがら、僕はコンビニに寄っておにぎりを二つ購入した。袋を提げたまま歩く。
僕はこの仕事を、ただ金のためだけにやっている。金が貰えないなら、こんな仕事、誰が好きこのんでやるものか。
妙な話ではあった。なぜなら、僕は金など欲しいと思っていないのだ。
ただ、金がないと社会で生きていけない。言ってみれば、社会システムのために、僕は自分の人生を切り売りして、金を稼いでいる。
自分のためにというのなら、このような仕事は、今すぐにでも辞めてしまいたかった。
自然とため息をつきそうになる。こらえると、涙が出そうになる。
金などいらないから、もっと、人のためになることをしたかった。
嫌なら辞めればいいだけの話だが、そのような勇気はなかった。
駅のホームに立つたびに、ふと思う。誰か僕の背中をトンと突いてくれないだろうか。
僕はひとりで生きることも、死ぬこともできない。いつだって誰かが背中を押してくれないと、前へ進めない。
しかし、僕には、どちらの意味でも、そのようにしてくれる友人がひとりもいなかった。
自宅で牛乳を飲んでいると、スマホが鳴る。見ると、知らない女性からの着信だった。
電話口で、女性は僕に軽口を叩いて笑っている。僕も笑う。女性が僕に、誰かを紹介すると言う。僕は喜んでその人と会うと言う。
と、そこで目が覚めた。
やけにリアリティのある夢だった。女性の声も、耳なじみのあるものだった。ただ、やはり、その女性が誰なのか、思い出すことはできなかった。
だいたい僕には、気軽に電話をして話をするような女性、どころか友人がいない。
孤独が高まり、ついにこんな夢を見るようになったかと自分が情けなくなった。
土曜日の朝である。
土曜日はいつも、特に趣味のない僕にとって、大して心躍る曜日ではない。高校時代に始めたギターも、ここのところ触れられることはなく、ほこりをかぶって部屋の隅に置かれているだけだ。
しかし、今日は少し、いつもの土曜日とは違う。
小山八雲の怪談ライブへ行くのだ。
僕は昔から、怖い話だとか、奇妙な話だとかの類いが好きだった。
得体の知れない恐怖の前には、貧乏人も富豪も、天才も凡才も、男も女も、ブスも美人も、人気者も嫌われ者もなにもない。あるのはただ、不安と焦燥感。そのような感情を共有することで、つかの間、僕は孤独を完全に忘れることができるのだ。
小山八雲のライブは二十一時に、下北沢の小さなライブハウスを貸し切って行われる。
それまでの時間は特にすることがない。
僕はひとり、ネットで小山八雲の過去の怪談ライブ映像を観ることにした。
怪談ライブへ一緒に行ってくれるような友人がいれば、開演まで一緒に過ごして気分を盛り上げたりなんなりすることができるが……。
そんなことを考えながらぼんやり画面を眺めていると、いつの間にかまどろみ、眠ってしまった。
夢の中で、僕は友人と小山八雲のライブに参加していた。その友人は、実在しない人物だったが、やけに輪郭がはっきりとしており、存在に説得力があった。
目が覚めると十五時を回っていた。
早めのシャワーを浴び、時間までライブ映像の続きを観た。
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