5-6

 約束の時刻に下北沢のファミレスに行くと、六人がけのボックス席に岩島がいて、僕を見つけて手を上げた。岩島の正面に男女が二人座っており、男がこちらを振り返った。

「あ、あきちゃん」

「よぉ神市っちゃん! 久しぶり!」

 本田が立ち上がり、ハイタッチを求めた。僕はそれに応じた。

「神市っちゃん、いつぶりだ? 全然会ってないよな!」

「最後に会って以来じゃないかな」

「もうそんなになるか! 最後に会って以来……あたりまえじゃねぇか! はははは! ところで神市っちゃん、今なにしてんの?」

「なぁに、ヤクザな商売だよ」

「なになに?」

「フリーランスのライター」

「っぽいわぁ!」

 どうして僕がフリーライターっぽいと思うのかはわからないが、なにごとも適当なノリで突破するそのスタンスは、学生時代の本田と変わらない。懐かしくてついつい笑ってしまった。

「神市、とりあえず座れ」

 岩島に言われて、僕は岩島の隣に腰掛けた。本田が僕の正面に座る。

「神市のぶんのドリンクバーも頼んであるから」

「あ、ありがとう」

「取ってくるか?」

「いや、まぁ、とりあえず、ねぇ?」

 僕は言いながら、本田の隣にいた女性に会釈をした。

 痩せ型で、目の大きな女性である。腰の辺りまである長い髪の毛のわりに、前髪だけは額の上のほうで短く切り揃えられていて、一見すると落ち武者のようだ。

 服装は春らしいブルーのワンピースに黄色いカーディガン。異様に短い前髪を除けばどこにでもいそうな女子大生というような雰囲気だった。短い前髪だって、オシャレだと言われればそう見えなくもない。

「この人が、例の……」

 本田が浮かない顔で言う。その言葉をバトンのように受け取り、女性がぺこりと頭を下げた。

「私は明弘さんの、彼女です」

 場の空気が一気に凍り付いた。それだけ聞けば決して変なことを言っているわけではないのに、時代錯誤な差別発言を平気で口走る人を目の当たりにしたときのような気まずさが、僕らの間をすかしっぺのように漂った。

「あ、僕は神市辰明といいます。あきちゃんとは学生時代の友人で」

「存じ上げております」

「あの、お名前は、なんと言うんですか?」

「どうしますか?」

 女性が本田に訊ねる。本田が困ったように僕を見る。女性はなおも本田に訊ねる。

「お名前、どうしましょうか?」

 名乗ってはいけない理由があるのだろうか。僕は本田に目で訊ねたが、本田もわけがわからないらしい。小さく首を傾げた。

「俺が知るわけないだろ」

「でも、私、あなたの彼女なのだから、あなたに決めていただかないと」

「なんでだよ」

「どのような名前がよろしいですか?」

「知るか!」

 顔をしかめる本田をなだめ、とりあえずこの女性と出会った経緯を聞かせてくれと頼んだ。本田はため息をつき、重たそうに口を開いた。

「四日前に突然現れたんだよ。仕事が終わって帰宅したら、俺の家に、どういうわけか、この女がいたんだ」

「面識は?」

「ないよ。そのときが初対面」

「どうやって入ったの?」

 僕が女性を見ると、彼女は目元に冷たい笑みを浮かべ、

「私は明弘さんの彼女ですから、部屋に入れるのは当たり前です」

「彼女じゃねぇし、当たり前でもねぇ!」

 本田が怒鳴る。

「こいつ、突然部屋に現れたときも、驚いてる俺に対して同じことを言ったんだ。『私はあなたの彼女です』って」

「本当に面識ないの? 例えば、過去に酔った勢いで……」

「そりゃそういう女のひとりや二人、俺も独身だからあるけどな。でも、そういう相手は顔も名前も覚えてるよ。俺は酔っても記憶なくすことはないんだ」

「仮にそういう相手だったとしても、勝手に部屋に入り込んで、『私はあなたの彼女です』なんて言うのは異常だろ」

 岩島が僕に耳打ちする。

 確かにそうだ。肉体関係を結んだことで付き合っていると錯覚するという話はあるかもしれないが、だとしても、付き合いたての恋人の家へ無断で忍び込むのは常軌を逸している。

「名前は、どんなものにしましょうか?」

 女性は相変わらずとんちんかんな質問を本田に投げかけている。この女性が以前、本田となにかしらの場面で出会っていたという仮説が正しかったとしても、この妙な質問を投げかける疑問の解決にはならない。

 やはりこの女性は、どこかおかしい。

「名前を決めてください」

「なんで俺が決めるんだよ、おまえの名前だろ」

「名前は、明弘さんに決めていただいたほうがいいのです。私は、あなたの理想の彼女であるべきなのですから」

「だからなんで俺がおまえの名前を決めなくちゃいけないんだ」

「だって、私はあなたの彼女ですから」

「とりあえず、なにか名前を決めてあげなよ。これじゃ話が前に進まないから」

 僕が進言すると、本田は面倒くさそうに女性を見て、舌打ちした。

「明弘さんにとって、理想の彼女のお名前は?」

「彼女の名前に理想なんてねぇよ!」

「どのようなお名前が、魅力的ですか? 明弘さんが、かわいいと思う、女の子のお名前をお教えください」

「かわいいと思う、名前? ……うん、みなこ、美しいに菜っ葉の子で、美菜子」

「では、私の名前は、美菜子です」

「本名を言えよ!」

 いきり立つ本田に、僕は「警察とかは?」と訊ねた。

「突然部屋に現れたときに、不法侵入で警察は呼ばなかったの?」

「呼ぼうかとも思ったけど、そのときはすぐに出て行ったから、そのままにしといた」

「それからは?」

「それからは、家には来ないけど、出かける先々にいるんだよ。飲み屋とか、スーパーとか、職場に来たこともあった。それで我慢できなくなって、神市っちゃんに相談したんだよ」

「ふぅん……」

 僕は腕を組み、美菜子に目をやった。

「あの、美菜子さん、あなた本当に、あきちゃんの彼女なんですか?」

「ええ」

「いつからお付き合いしているんですか?」

「過去、現在、未来、すべての時間で、私は彼の彼女として存在しています」

「いや、まぁ、そうだとしても、出会いってのはあるでしょう? こう、付き合い始めたきっかけみたいな」

「付き合い始めたきっかけは、どうしましょうか?」

 美菜子が再び本田に訊ねた。本田は眉間に皺を寄せ、「はぁ?」と声を上げた。

「おまえが勝手に俺の家に来たんだろ」

「いえ、決してそうではありません。付き合い始めたきっかけがあったからこそ、私は明弘さんのおうちを訪ねたのです」

「わけわかんねぇ、なに言ってんだ」

「お付き合いを始める理想的なきっかけはどのようなものですか?」

「お付き合いを始める理想のきっかけってなんだよ」

「どういう経緯で、運命の女性と出会いたいとお考えですか? 理想の出会いです」

「理想の出会い……うん、大学のサークルで知り合って、徐々に仲良くなっていく、とかかな、もう手遅れだけど」

「では、私たちの出会いもそれにしましょう」

「は?」

「神市さん」

「はい?」

「私たちは、大学のサークルで知り合いました。はじめはお互いに意識していませんでしたが、徐々に仲良く……」

「なってねぇだろ! おまえ誰だよ!」

「出会っていなくたって問題ありません。出会ったことにしてしまえば、それでいいのです」

 さすがに意味がわからないので反論した。

「いやいや、大学時代のあきちゃんを僕も知っていて、誰と付き合っていたか、恋人遍歴もひととおり覚えていますが、あなたはいませんでしたよ?」

「いえいえ、それはまだ、私と明弘さんの思い出を作っていないからです。学生時代の思い出は今から作ります」

「もう学生じゃねぇよ!」

「関係ありません。過去なんてものは、思い出す以外に具現化しようのないものです。つまり、思い出さえ後から組み替えてしまえば、過去は自分の思い通りになります」

「いや、たとえ自分の思い出を勝手に作り直しても、過去を作り直すことはできないでしょう? 仮に美菜子さんが学生時代にあきちゃんと付き合っていた思い出を勝手に作ったとしても、当時の学生名簿に美菜子さんの名前は記録されていないでしょうし、当時の写真もない。それじゃ、誰もあなたの話を信じませんよ」

 美菜子は僕を見て、嘲笑するように口元に笑みを浮かべた。物を知らない子どもを見るような目をしている。

「そういったものも、思い出を作り直すに伴って、変化するものです。すべての記憶を書き直したとき、そういった記録の品々も、そうであったかのような形で生まれ変わるのです」

 僕は本田と目を合わせた。互いに意味が理解できていないことを確認し、頷き合う。

 美菜子は僕らのその様子を見て、悟り澄ましたように「ふふ」と鼻で笑った。

「そういうことは、すでに何度も起こっています。生まれ変わった物は、何食わぬ顔で、その場所に現れ、あたかもそれが当然であるかのように振る舞うのです。過去など、時間の残像に過ぎません。風が吹けばすぐに形を変えてしまいます。事実、たった今だって、そうでなかったものが、あたかもそうであったかのように私たちの前にあるじゃないですか」

 僕と本田は周囲に目をやった。テーブルの上には僕ら三人分のアイスコーヒー、あとは伝票とメニューが置いてあるだけだった。店内は先ほどよりも人が増えていたが、それは新たに客が入ってきただけで、不自然なものではない。

「ねぇ、明弘さん。初デートはどのようなものにしましょうか?」

 美菜子は困惑する僕らを無視して、質問し続けた。

 結局、美菜子が何者なのかという謎は解き明かせなかった。

 わかったのは、美菜子が学生時代に本田と出会い、徐々に仲良くなった結果大学二年の秋から交際を始めた。初デートは池袋の水族館、初キスはその帰り、そして初めてベッドを共にしたのはその三ヶ月後、三回目のデートで江ノ島を訪れた際であると、美菜子が思い込んでいるということだけだった。

「なぁ、神市っちゃん、なんとかこの女の素性を暴いてくれないかな」

 帰り際、本田が疲れ切った顔で僕に耳打ちをした。

「もう俺、わけがわかんないんだよ」

「ああ、うん。かなり妙なことを言っているし、友達の頼みは可能な限り聞くってのが俺の主義だから」

「サンキューな」

「でも、もしヤバいことになりそうだったら、警察に相談したほうがいいよ」

「うん……」

「明弘さん、行きましょう。それでは神市さん、また」

「ええ、また……」

 美菜子に引っ張られて改札を抜けていく本田を見送り、僕は天を仰いだ。

 かなり不安であることには違いなかった。ただ、同時にわくわくもしていた。

 美菜子の過去に対する考え方は、最近僕が傾倒しているラッセルの考え方と似通っている部分がある。

 僕は「世界五分前仮説」を思い出した。

 もしかしたら美菜子も、ラッセルのこの例え話を知っているのかもしれない。

 とりあえずラッセルについて今一度調べ直してみようと思い、僕は自転車にまたがって家路についた。

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