5-5

 十五時半頃、経堂の古木デンタルクリニックへ行き、受付に顔を出した。

「先ほど電話で予約した神市辰明ですが……」

「神市さん。あ、はい、お待ちしておりました」

 事務員に問診票を書くよう促され、僕は待合室でそれに記入した。

 待合室はそれほど広くないが、汚れひとつないソファや、張り替えたばかりのように白い壁紙が全体に清潔感を与えている。不安そうにしている子どもの姿はあったが、騒ぐ人はおらず、周囲の雰囲気は穏やかだった。

 やがて名前を呼ばれ、僕は診察室に入った。

 診察室は広く、イスが二脚、部屋の向こう側と入口側とにそれぞれ置かれている。手前のものに座るよう言われた。

 口をゆすいで待っていると、手術衣のようなものを着た四十代くらいの男がやって来て、「やぁやぁ」と呑気な挨拶をした。

「お待たせしました。神市さんですね」

「はい。よろしくお願いします」

「初めてですか?」

「ええ」

「うちのことはどこでお知りに?」

「あ、友達に紹介してもらったんです。氷山芽衣子っていう」

「あ、氷山さんね。よく喋りますよね、あの方は。診察中も喋り続けるので参りましたよ」

「お喋りですよね……」

「今日はどうなさいました?」

「ちょっと歯がしみ……」

「まぁ、とにかくみてみましょう」

 診察が始まった。

 歯医者の治療はドリルで歯を削るものだという先入観があった。しかしそれは、虫歯治療など、そうすることが必要なときに行うだけで、なにも彼らは歯と見ればドリルで削ってやろうと虎視眈々目論んでいるわけではない。

 今回は口の中を観察するだけだ。痛みなど一切伴わない。

 診察は五分ほどで終わってしまった。

 助手をしていた歯科衛生士の女性も交えて、診断結果の説明をされる。

「虫歯はありません。歯周病もおそらく大丈夫だと思いますが、多少、歯の表面のエナメル質が剥がれている部分があります。歯を磨くときに力をかけすぎている可能性がありますので、もう少し優しく、ハミガキをするようにしてください」

 それから歯科衛生士に、正しいハミガキの仕方や、ハミガキ粉の選び方などを教えてもらい、診察は終わった。

 特になにか治療をしてもらったわけではないが、歯医者に診てもらったというだけで、歯の健康が著しく改善されたような気になった。古木先生は人の話を聞かない部分があったものの悪い人ではなさそうだし、歯科衛生士の女性は気立てが良く、話をすると安心できる。

 これからは定期的に歯医者に通おうと思った。

 帰りにドラッグストアで新しい歯ブラシと、おすすめされたフッ素配合のハミガキ粉を買って帰宅した。

 その晩、晩飯を食べていると、スマホが鳴った。

 岩島からだった。

「どうした?」

「あ、神市、本田ほんだって覚えてるだろ」

「本田?」

「本田だよ、史学科で一緒だった。本田明弘あきひろ

「ああ、あきちゃんか。西洋史専攻だった」

「そう、その、本田」

 本田明弘は、僕と岩島の大学時代の同級生で、一年生の頃はよく三人で飲みに行くこともあった。日本史を専攻した岩島は、学年が上がるに伴い本田とは疎遠になっていったが、西洋思想史を専攻していた僕は授業が被ることもあり、卒業するまで頻繁に顔を合わせていた。

 とはいえ、大学卒業後は一度も会っていない。

「あきちゃんがどうしたの? 岩島、あきちゃんと交友があったの?」

「いや、久しぶりに連絡をもらったんだ」

「あきちゃん、なにしてんだっけ?」

「今はJRで働いているらしいんだけど、そんなことはどうだっていいんだ」

「なにかあったの?」

 少し不安になる。そのことを察したのか、岩島が訂正するように言い方を改めた。

「いや、別に大変なことが起こったわけじゃない。本田、最近、俺がユーチューブに動画出していることを知ったらしくて、それで動画のネタになる話があるって言ってきたんだ」

「ネタ? なんか都市伝説を知ってるのかな? 鉄道に関すること?」

「いや、どうもそうじゃないらしい。奇妙な女につきまとわれて困ってるんだそうだ」

「ストーカーってこと?」

「そうかもしれないけど、どうも、その女がわけのわからないことを言い続けるらしいんだ」

「どんなこと?」

「初対面なのに、いきなり『私はあなたの彼女です』と言い張って、きかないらしい」

「どういうことだよ」

 僕は思わず笑ってしまった。岩島も笑っている。

「一目惚れしちゃったってことかな? あきちゃん、モテたから」

「いや、どうもそういう感じじゃないらしいんだ。その女は『私はあなたの彼女になるために生まれてきた女で、過去、現在、未来、すべての時間にわたって、あなたの彼女として存在している』とかなんとかわけのわからないことを言っているって」

「その人、大丈夫なのかな?」

「それで、すぐにでも話を聞いてほしいって本田がお願いしてくるから、明日、ちょっと会って話を聞くことになったんだ。それで、カメラも回そうと思ってるから、可能なら神市にも来てもらって、手伝ってほしいんだ」

「そりゃいいけどね。あきちゃんとも久しぶりに会いたいし、ちょっと詳しく聞いてみたい気もするし……」

 翌日の午後三時に、下北沢のファミレスに集合することになった。

 本田と会えるのは楽しみだが、例の女性のことは気がかりだった。ただ本田の興味をひくために冗談を言っているだけならいいが、もし本気で言っているのなら、なにをしでかすかわからない。

 何事もなければいいと思いながら、僕はベッドに入った。

 その晩も、夢を見た。

 僕は電車に乗っていた。ほかに乗客はほとんどいない。隣にはスタイルの良い女性が立っている。僕は彼女と友達であるらしく、仲良くおしゃべりをしている。彼女曰く、その電車は両桜線であるらしかった。

 目が覚めると朝だった。彼女に対する強い親近感が徐々に薄れていく。やはり、その人が誰なのか思い出せなかった。

「両桜線なんて乗ったことないのにな……」

 僕は苦笑して、朝食の準備に取りかかった。

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