エントロピーと決定論的な世界

 前回はエントロピーと時間の関係について示しました。エントロピーの増加と時間の経過には何か関係があるのではないかという考え方です。実際のところ、何とも言い難い内容ではあります。ですが、この話ではリンクしているものとします。


 そうすることにより、エントロピーと時間には単純に関係があるだけでなく、新しい視点が隠れていることに気付きます。それが今回のタイトルにもなっている決定論的な世界との関係です。


 決定論的な世界とは、過去から未来までの全ての事象が既に決定された事項として存在している世界を意味します。つまり、時間というレールに乗っている我々は決められた世界を通過しているだけに過ぎないのだという考え方です。これは古典的な物理学における考え方で、ボールの投げ上げ運動が放物線を描くなど古典物理が未来の現象を記述できることから発展したものになります。この世の全てが古典物理に従っているならば、現在もしくは過去の変数から未来は自ずと計算可能であると考えられるわけです。


 つまり、今の人類には不可能ですが、仮に世界を構築している全ての変数と力学的な数式を知っており、なおかつ解析する能力があるならば未来を正確に知ることができることになります。


 これはラプラスの悪魔として知られた考え方です。ただし、現在では量子論の発展によって否定されています。量子力学では物体の位置と運動量を一義的に決定することができず、その結果、未来を知るための計算に必要な変数が得られないと分かったからです。これは不確定性原理と呼ばれ、原子や電子のようなミクロな世界で説明されることが多いですが、物体の大きさに関係はなく、我々の目に見えるマクロな物体であってもその正確な位置と運動量を同時に決定することはできません。


 まとめると、我々は未来を知るための計算ができないので、この世界は決定論的な世界ではないと言えてしまいそうです。この世界を構成する変数が未知である限り、考えられる未来のパターンは無限にまで膨れ上がるように思われるからです。


 しかし、ここで諦めてはいけません。なぜならば、ラプラスの悪魔は量子論によって否定されましたが、決定論的な世界の正誤とは無関係だからです。位置と運動量が一義的に決定できないことから、我々はどんな計算機を用いても世界の全てを知ることができないと分かりました。しかし、それがこの世界が決定論的かどうかの判定と繋がらないと考えます。


 ではどうすればそのことを物理学的に説明できるでしょうか。何も根拠がない中であくまでも世界が決定論的だと主張することは簡単です。しかし、やはり時間を取り扱う小説を構築するならば意味付けが必要となります。ここで話をエントロピーに戻しましょう。


 もう一度言及しておきますが、この場で取り扱うエントロピーという概念は物理学において利用される数式によって説明されるものとは少し異なります。意味合いは一緒ですが、ここでのエントロピーは意味付けのエントロピーであって細部で実際の物理学に則しません。この点は前回も話したことです。


 エントロピーはこの世界で常に増大しているという話をしました。これは事実で熱力学の法則としても知られています。そこで次に考えるべきことは、世界はエントロピーをどのように増大させているのかということです。増大していればそれでいいのか。それとも、最も効率よく単位時間当たりにその世界が可能な分だけ増大しているのか。


 結論から先に述べると、世界は最速でエントロピーを増大させていると考えます。そうすることで決定論的な世界との繋がりが見えてきます。


 この議論について具体例で説明しましょう。前回でも例として挙げたコーヒーミルクを取り上げます。コーヒーにミルクを垂らす操作を考えてみてください。その時、ミルクはコーヒーの中をどのように拡散していくでしょうか。


 ミルクが自発的に拡散していくとき、全体として遠回りすることなく混ざっていく。そう考えると納得しやすいと思います。同じ量のミルクを同じようにコーヒーに垂らすと、当然同じ速度で拡散していきます。そして、何度も試行してその速度が一定であるならば、それはつまり最速であることを意味します。


 ここで反論する人の意見を予想してみます。例えば、同じ垂らし方をしても10のマイナス何十乗秒という世界で違っているのではないかという反論。確かにそういったことは観測されるでしょう。ただ、それは同時刻に行われなかったことによる世界の違いに由来すると説明できます。二回目の実験を行う時の方がよりエントロピーが増大した世界なので、当然その違いを受けるわけです。場所を変えて同時に行っても同じです。その場合には、例えばほんのわずかな重力の違いが拡散に影響を与える可能性があります。エラーバーを含んだ上で有意な結果と捉えましょう。


 別の意見としては、最速ならばミルクは一瞬で拡散されるはずだというもの。実際にはミルクが拡散して均一になるまでに観測可能な程度で時間がかかります。それに対する回答としては、この最速というのはあくまでもその世界(系)に依存しているということです。世界はエントロピーを出来るだけ早く増大させようとしますが、決して物理法則を捻じ曲げることはできません。コーヒーを構成する粒子とミルクを構成する粒子が衝突すれば、場合によってはすり抜けることもありますが、基本はぶつかってそれが時間を費やす原因となります。コーヒーではなく紅茶にミルクを垂らした場合もきっと異なる結果が得られ、それは実験を行う世界の違いとなります。それを織り込んだうえで世界はエントロピーを最も速く増大させようとしているわけです。


 もう一つ意見を上げると、水と油は拡散することなく相分離します。これでは世界はエントロピーを増大させていることにならず、最速という結果と齟齬を生むのではないかというもの。これも二つ目の意見と似たようなものですが、世界が違うのだというしかありません。相分離はエントロピーだけでなくエンタルピー項まで考えたギブズエネルギーによって考えられる概念なので、その世界から見れば一瞬の間はエントロピーを増大させない方が、結果的に世界のエントロピー増大に寄与すると考えます。宇宙が熱的死に至るまでには水と油の構成粒子も均一になるので気長に待ちましょう。


 といった感じで、世界はもっとも最速でエントロピーを増大させていると考えると良さそうです。ここでさらに踏み込んで考えてみます。世界が最速でエントロピーを増大させるルートは複数存在できるでしょうか。


 たった一つしかないと考えるべきでしょう。山の頂上からボールを転がすことを考えます。どんなに山肌が複雑な形をしていたとしても、全く同じ条件で同じ落とし方をすればボールは必ず一つのルートを辿って落ちていくことでしょう。ボールはそのコースしか選べない以上、それが山から落ちていく上で最速となるわけです。この考えから、世界は決定論的な世界であるという結論に持っていきます。


 また例を出します。あなたが昼食にそばを食べるかうどんを食べるかで迷っているとします。結局、あなたはそばを食べましたが、きっと満足していることでしょう。なぜならば、あなたは自分の食べたい方を選択できたと考えているからです。しかし、この世界が決定論的であるならばそれは大きな間違いです。あなたにそばを食べさせたのはあなたではなく、この世界ということになるからです。


 あなたがそばを食べるのとうどんを食べるのでは世界に与える影響がほんのわずかだけ変わってきます。その詳細は示しませんが、当然と言っていいでしょう。すると、食べ終えた世界においてエントロピーの増大量も当然異なってきます。仮にあなたがうどんを食べていた場合、この世界は最短でエントロピーを増大させることに失敗していました。しかし、世界はそんなことを決して許さないのです。


 決定論的な世界とはつまり、自由意志のない世界ともいえます。あなたは毎日何かを自分で決めたように錯覚していますが、実は世界がそうさせているだけなのです。そうしなければ世界は最速でエントロピーを増大させられません。


 不確定性原理によって物体の位置と運動量が同時に決定できなくとも問題ありません。我々がそれを観測できる必要もありません。確率でしか表現できないのであればそれでもいいでしょう。エントロピーを最速で増大させるという条件を守るのであれば、電子などの粒子がいかなる確率で存在していても構わないのです。


 従って、この考え方はあくまでもこの世界が決定論的な世界であることを意味するだけで、未来を予想できるわけではないことを伝えておきます。我々が先のことを知る術はありません。それはラプラスの悪魔が打倒されたことからも分かります。ですが、未来を変えることもできません。未来は観測できない一方、エントロピーを最速で増大させるという条件の下で一義的に決まっているのです。


 ここで、今回の話をまとめます。この世界はエントロピーを増大させています。ここでは条件を加えて最速で増大しているとしました。日常生活で観測可能な中ではそのように見えます。そうすると、この世界で何がどのように動くべきなのかが全て決定され、最終的に決定論的な世界であることが導き出せます。そして都合の良いことに、その過程や事実関係を評価することは我々にはできません。


 我々は分岐のないレール上を走る電車にただ乗っているだけです。車窓から真横の世界を見ることはできても、世界に対して首を横に振ることは許されていないのです。

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