[2-10]波紋のように


 気まずい沈黙が二人と一人の間を流れる――などという暇はなかった。真っ先にレイシェルが「あっ」と声を上げて飛び降りようとし、ヴェルクに押さえられて暴れる。


「ヴェルク、そいつ捕まえてーっ!」

「え、は? そいつってどいつだ!?」

路上浮浪児ストリートキッズだよ! もういい降ろして、逃げられちゃうっ」


 混乱するヴェルクと声を張りあげるレイシェルを茫然ぼうぜんと見ていたミスティアは、釣られるように彼女の視線を追ってはっとした。放りだされた荷物を拾って抱え逃げようとしているのは、色せたシャツとズボンを着た子供。ちらりと尻尾が見えたので獣人族ナーウェアだろうか。

 ようやく意味を察したヴェルクが少女を地面に降ろした時には、子供の姿は雑踏に消えて見えなくなっていた。レイシェルがスカートの裾を握って悔しがる。


「あぁっ、もう少しだったのにぃ! ヴェルクも警備の人ならちゃんと捕まえてよね?」

「どういうことだよ。おまえが追われてたんじゃねえのかよ。あと俺は領主の賓客ひんきゃくであって警備兵じゃねえし」


 呆れ声で指摘されたレイシェルは、大きな目をますます見開いてヴェルクを見つめ、それからミスティアを見た。しばらく交互に見比べたあとで、あーっと声を上げ頭を抱える。


「そうだった……警備の人は赤色だよ! そっか、青色は賓客なんだね、覚えとく。てことは、本当にデートだったの?」


 答えようとして言葉を止めたヴェルクが、こちらを見る。その態度が機嫌をうかがっているように見えて、ミスティアは何だかむかむかした。意味もなくスカートを叩いて整え、くるりと方向転換して二人に背を向ける。


「ヴェルクの大事なひとなんでしょう? ぼくは一人でも大丈夫だから、その子についていてあげて。せっかく再会したのだもの」

「なに言って……一人にさせられるわけねぇだろ」

「大丈夫。ぼく、空間転移ウィングリープで帰れるから」


 別に、ねているわけではない。徹夜するほど気にかける相手と無事に再会できて、ヴェルクは本当に嬉しいだろう。思わぬ身体接触スキンシップに浮ついていただけで、彼がミスティアを気にかけてくれるのは、同じ経験を経てきたゆえの同情心だと理解しているから。

 自分にとってヴェルクが特別な存在になりつつあるように、彼も自分を特別視してくれているのでは――などと、自惚うぬぼれていただけなのだから。


「ミスティア、俺が悪かった」

「……ヴェルクは、悪くないもん」

「なら、何で怒ってるんだよ」

「怒って……ないもん」


 拗ねてるわけではない。怒っているのでもない。心の狭い自分が嫌になっているのだ、と言葉にするのもむなしくて、ミスティアはうつむいたまま歩きだそうとした。その目の前にするりと、水色の姿が入り込む。


「お姉さん、ミスティアっていうんだね。ボクはレイシェル、よろしくねっ」


 鱗族シェルクらしい透明感ある白肌と、光でわずかに色合いが変わる水珠玉アクアマリンの大きな目。頬を縁取り肩に流れてゆくまっすぐな水色の髪は、繊細な絹のようだ。レイシェルはどこを見ても申し分ない美少女で、胸の奥が悲しげにきゅんと鳴いた気がした。

 可愛らしいフリルに包まれた細い首筋、華奢きゃしゃな肩はフェリアを思わせる。胸元は――まだミスティアのほうに分がありそうだけれども。

 直視するのがつらくなり、失礼だと思いつつも目を逸らす。しかも同じく「ぼく」遣いなんて、ヴェルクはこの子を想いながら親切にしてくれたのだろうか。疑い始めたらきりがないし、不毛なだけなのに。


「よろしくね、レイシェル。……それじゃ、ぼくは先に」

「待って! あのねぇ、ヴェルクはよくわかってないみたいだし、ミスティアは勘違いしてるみたいだけど!」

「勘違いって……レイシェルはヴェルクの大事なひとなんでしょ?」

「大事っていってもいろんなニュアンスがあるよね?」


 押し問答をしたいわけではないのだが。真正面から真剣に見つめる少女の瞳に気圧けおされて、ミスティアは口をつぐむ。立ち往生しているうちにヴェルクも側までやって来た。太い腕が背中――翼の付け根の下らへん――にそっと添えられる。


「ミスティア、確かにレイシェルは俺の大事な恩人だが、なんていうか……そういうんじゃねぇから」

「そうだよ。ヴェルクはいい奴だけど、ボクは女の子のほうが好きだし?」

「……その格好で、よく言うよな」


 聞き返すまでもなく、二人が言わんとしているニュアンスを理解した。しかし、目の前にある現実との齟齬そごにミスティアは混乱し、言葉を見つけられず目をしばたかせる。

 ヴェルクはため息をつき、長い指で前髪をかき回し、それでも足りぬというふうに頭を振ってから――低い声で言った。


「こいつ、レイシェルは……女性名だし、こんな格好をしているけどな。心も体もまごうことなき、男、だ」

「だからレイって読んでって、いつも言ってるのにさぁ。くふふ、ボクの好みとしてはミスティアいい感じなんだけど、ヴェルクが手間取ってるなら貰っちゃおうかなー!」


 うんとも、ええとも、返事が出ないミスティアに、レイシェルは勢いよく抱きつく。ヴェルクが変な声を上げてうろたえる。確かに服越しに触れた胸は真っ平らで、細く見えた腕は存外と力強かった。けれどやはりどこから見ても彼は美少女で、情報超過キャパオーバーの脳が沸騰しかけたのか、目の前がぐらぐらと回り始めた。

 ヴェルクがレイシェルの首根っこを掴んで力任せに引き剥がすが、それが意味するところなど、今はもう考えられそうにない。


 少女にしか見えない少年の細腕は、ヴェルクやフェリアと違ってひんやりしていた。鱗族シェルクは体温が低いというが、本当なのだなと。

 熱暴走ヒートアップを起こしかけているせいか、冷感が気持ちいいなと、混乱する頭でミスティアは取り留めもないことを考え続けたのだった。



 † † †



「……びっくりした」

「俺も、だ」


 美少女姿の少年は用事が差し迫っているらしく、風のように去っていった――鱗族シェルクなのに。彼らは二本足でも行動できるが、身体特性が水中特化であるため陸上では動きが鈍くなると言われる。しかし、レイシェルに限ってはそうでもなさそうだ。

 ヴェルクは相当動転したのだろう、会えた機会チャンスに通信珠を渡せば良かったものを、すっかり頭から抜けていたらしい。気がついた時にはもう声も届かぬ場所だったので、鱗族シェルクたちの居住区へは改めて行くことになりそうだ。

 今は二人、疲れきった身体を休めるために手近な喫茶店へ入り、ヴェルクはコーヒー、ミスティアはミルクティーで、乾ききった喉を潤している。


「ヴェルクの大切なひと、なんだよね?」

「恩人だ。でも、誓って言うが、あいつともあいつの姉貴とも、恋仲になったことねぇよ」


 力を込めた声で否定される。ヴェルクの態度が自分への好意を示している――というのは考えすぎだろうが、ミスティアの中にひしめいていた嫉妬心は、レイシェルの熱い(ひんやりとした)抱擁ハグによってどこかへ吹き飛んでいった。

 自分にとってのフェリアのように、レイシェルはヴェルクにとって弟のようなもので、振り回されたとしても無下にはできないのだろう。


「恩人って、島から出た時の?」

「そう。島で実力者だった母親が、病気でっちまって、父と俺を殺そうとした奴らの襲撃から、父親を犠牲にして逃げた俺が、行き着いたのは断崖だった。眼下は絶壁と海、後ろからは暴徒、迷う時間なんてなく、俺は崖から飛び降りて……なぜか監獄島海域に入り込んでたレイシェルに、拾われたんだ」


 遠い目をしてぽつぽつと語る彼は、まだ自分を責めているのかもしれない。犠牲に、という表現が正しいのかミスティアにはわからないが、理解はできる気がした。彼女自身いまでも、身代わりになった二人への罪悪感に病み続けているから。

 ヴェルクの想いを、罪悪感を、否定することはできない。それでも、他人のことであればやはり、思うのだ。


「ぼくは、ヴェルクが生きていてくれて嬉しい。ヴェルクを助けようとしたお父さんも、レイシェルも、きっと……そう思っているんじゃないかな」

「……おまえが、そう言ってくれるんなら、救われる気がする」


 黒く長い前髪の間で、紫色の双眸そうぼうがやわらかく笑む。意味深に思える台詞の意味を聞き返す勇気まではなく、彼の視線に捕まらないようにとつい、目を逸らす。

 気まずい空気は吹き飛んだものの、レイシェルの言動が残した波紋はしばらく収まりそうになかった。ミスティアは揺れる心を落ち着かせようと、セットで出されたシフォンケーキをフォークの先で崩すことに集中した。




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