[2-10]波紋のように
気まずい沈黙が二人と一人の間を流れる――などという暇はなかった。真っ先にレイシェルが「あっ」と声を上げて飛び降りようとし、ヴェルクに押さえられて暴れる。
「ヴェルク、そいつ捕まえてーっ!」
「え、は? そいつってどいつだ!?」
「
混乱するヴェルクと声を張りあげるレイシェルを
ようやく意味を察したヴェルクが少女を地面に降ろした時には、子供の姿は雑踏に消えて見えなくなっていた。レイシェルがスカートの裾を握って悔しがる。
「あぁっ、もう少しだったのにぃ! ヴェルクも警備の人ならちゃんと捕まえてよね?」
「どういうことだよ。おまえが追われてたんじゃねえのかよ。あと俺は領主の
呆れ声で指摘されたレイシェルは、大きな目をますます見開いてヴェルクを見つめ、それからミスティアを見た。しばらく交互に見比べたあとで、あーっと声を上げ頭を抱える。
「そうだった……警備の人は赤色だよ! そっか、青色は賓客なんだね、覚えとく。てことは、本当にデートだったの?」
答えようとして言葉を止めたヴェルクが、こちらを見る。その態度が機嫌をうかがっているように見えて、ミスティアは何だかむかむかした。意味もなくスカートを叩いて整え、くるりと方向転換して二人に背を向ける。
「ヴェルクの大事なひとなんでしょう? ぼくは一人でも大丈夫だから、その子についていてあげて。せっかく再会したのだもの」
「なに言って……一人にさせられるわけねぇだろ」
「大丈夫。ぼく、
別に、
自分にとってヴェルクが特別な存在になりつつあるように、彼も自分を特別視してくれているのでは――などと、
「ミスティア、俺が悪かった」
「……ヴェルクは、悪くないもん」
「なら、何で怒ってるんだよ」
「怒って……ないもん」
拗ねてるわけではない。怒っているのでもない。心の狭い自分が嫌になっているのだ、と言葉にするのも
「お姉さん、ミスティアっていうんだね。ボクはレイシェル、よろしくねっ」
可愛らしいフリルに包まれた細い首筋、
直視するのがつらくなり、失礼だと思いつつも目を逸らす。しかも同じく「ぼく」遣いなんて、ヴェルクはこの子を想いながら親切にしてくれたのだろうか。疑い始めたらきりがないし、不毛なだけなのに。
「よろしくね、レイシェル。……それじゃ、ぼくは先に」
「待って! あのねぇ、ヴェルクはよくわかってないみたいだし、ミスティアは勘違いしてるみたいだけど!」
「勘違いって……レイシェルはヴェルクの大事なひとなんでしょ?」
「大事っていってもいろんなニュアンスがあるよね?」
押し問答をしたいわけではないのだが。真正面から真剣に見つめる少女の瞳に
「ミスティア、確かにレイシェルは俺の大事な恩人だが、なんていうか……そういうんじゃねぇから」
「そうだよ。ヴェルクはいい奴だけど、ボクは女の子のほうが好きだし?」
「……その格好で、よく言うよな」
聞き返すまでもなく、二人が言わんとしているニュアンスを理解した。しかし、目の前にある現実との
ヴェルクはため息をつき、長い指で前髪をかき回し、それでも足りぬというふうに頭を振ってから――低い声で言った。
「こいつ、レイシェルは……女性名だし、こんな格好をしているけどな。心も体もまごうことなき、男、だ」
「だからレイって読んでって、いつも言ってるのにさぁ。くふふ、ボクの好みとしてはミスティアいい感じなんだけど、ヴェルクが手間取ってるなら貰っちゃおうかなー!」
うんとも、ええとも、返事が出ないミスティアに、レイシェルは勢いよく抱きつく。ヴェルクが変な声を上げてうろたえる。確かに服越しに触れた胸は真っ平らで、細く見えた腕は存外と力強かった。けれどやはりどこから見ても彼は美少女で、
ヴェルクがレイシェルの首根っこを掴んで力任せに引き剥がすが、それが意味するところなど、今はもう考えられそうにない。
少女にしか見えない少年の細腕は、ヴェルクやフェリアと違ってひんやりしていた。
† † †
「……びっくりした」
「俺も、だ」
美少女姿の少年は用事が差し迫っているらしく、風のように去っていった――
ヴェルクは相当動転したのだろう、会えた
今は二人、疲れきった身体を休めるために手近な喫茶店へ入り、ヴェルクはコーヒー、ミスティアはミルクティーで、乾ききった喉を潤している。
「ヴェルクの大切なひと、なんだよね?」
「恩人だ。でも、誓って言うが、あいつともあいつの姉貴とも、恋仲になったことねぇよ」
力を込めた声で否定される。ヴェルクの態度が自分への好意を示している――というのは考えすぎだろうが、ミスティアの中にひしめいていた嫉妬心は、レイシェルの熱い(ひんやりとした)
自分にとってのフェリアのように、レイシェルはヴェルクにとって弟のようなもので、振り回されたとしても無下にはできないのだろう。
「恩人って、島から出た時の?」
「そう。島で実力者だった母親が、病気で
遠い目をしてぽつぽつと語る彼は、まだ自分を責めているのかもしれない。犠牲に、という表現が正しいのかミスティアにはわからないが、理解はできる気がした。彼女自身いまでも、身代わりになった二人への罪悪感に病み続けているから。
ヴェルクの想いを、罪悪感を、否定することはできない。それでも、他人のことであればやはり、思うのだ。
「ぼくは、ヴェルクが生きていてくれて嬉しい。ヴェルクを助けようとしたお父さんも、レイシェルも、きっと……そう思っているんじゃないかな」
「……おまえが、そう言ってくれるんなら、救われる気がする」
黒く長い前髪の間で、紫色の
気まずい空気は吹き飛んだものの、レイシェルの言動が残した波紋はしばらく収まりそうになかった。ミスティアは揺れる心を落ち着かせようと、セットで出されたシフォンケーキをフォークの先で崩すことに集中した。
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