[2-8]海風を翼にうけて


 沿岸地域はのある時間に海風が吹く。兄のローウェルによると、海より陸地のほうが温まりやすく冷めやすいため、陸上と海上で温度差ができ、風精霊たちの動きが活発化するのだという。

 ルエル村もダグラ森も、ザグロス山地と密なる樹林に守られ、雨は多いが強風の少ない地域だ。それに比べ港湾都市は湿度も低く、朝夕のなぎ以外で風が絶えることはない。ほんのり磯臭い風を翼いっぱいに受ければどこまでも飛べる気がして、ミスティアはこの都市が好きだった。


「ヴェルク、まず通信珠つうしんじゅを見にいこう! こっちこっち!」


 ヴェルクとフェリアが都会に不慣れなのは、見ていればわかる。シャイルは土地勘があるようなので、義妹いもうとは彼に任せておけば大丈夫だろう。魔族ジェマで、吸血鬼ヴァンパイアだけれど、彼は優しく気遣いのできるひとだから。

 となれば、ミスティアの使命はヴェルクをエスコートすることだ。特に彼は今、父親のことで気落ちしている。だからこそ懸念けねん事項の一つ、鱗族シェルクたちとの通信手段を確保する任務は完璧にこなさなねば。そう思えば気合も入るというものだ。

 ミスティア自身も国軍の話を聞いて胸の奥が騒いだが、領主であるカーティスの言はもっともだったので、考えないようにしている。少なくとも今回は、他種族へ害なすため来ているのではないだろうし。


「待て待て、急がなくても日暮れまではまだ時間があるだろ」


 風精霊に前髪を掻き乱され、ヴェルクは目を細めていた。長い髪が目や口に入ってわずらわしいのだろう。

 兄ならはしゃぐ風乙女シルフたちをなだめてくれるのだが、残念ながらミスティアのは聞いてくれないようだ。ならば早く建物に入ったほうがいい。


「せっかく来たんだもん、魔法道具マジックツール屋だけでなく他の店も回ろうよ」

「わかった、早くいこうぜ。おまえ、スカートの裾がめくれあがっ……いや何でもねぇ」

「うん?」


 サテンの布地はしっとりした重みがあるが、今は海風に持ちあげられて貴婦人のように広がっていた。中に色つき肌着ズロースを履いているから心配ないのに、ヴェルクは気にかけてくれたらしい。兄や幼馴染みたちとは違う反応が新鮮で、胸の奥がくすぐったくなる。

 ミスティアは左手でスカートを押さえ、右手を伸ばしてヴェルクの手を掴んだ。普段より背の差を感じず、それで自分が浮いていることに気づく。途端、紫色の目に剣呑な色が浮かび、掴んだ手をぐいと引き寄せられた。驚く間もなく端正な顔が間近に迫る。


「え、え、待ってちょっと何をする!」

「ドレスで飛んだらどうなるか解ってんのかおまえっ。よし、大人しくしてろよ」


 抱きすくめるように捕まえられた。焦って翼を羽ばたかせていると、お尻の下に硬いものが当たって持ちあげられる。

 あっという間の出来事で気づけばミスティアは、ヴェルクの折り曲げた右上腕を椅子代わりに座らせられていた。つまり片腕抱きというやつだ。


「えぇー!? 自分で歩けるのにっ」

「駄目だ。ほら、手をバタバタさせてねぇで俺の襟か肩を掴んでろよ。で、案内してくれ」

「う……ん。わかった」


 言われた通りに左腕を彼の首へ回し、服の襟を掴む。見あげてばかりの黒い頭が目線の下にあるのは、不思議な感覚だった。

 自分の背中から腰に掛けてが、ヴェルクの腕と胸の間にすっぽり収まっている。厚着をしていても感じる体温と至近距離にある顔に、身体の芯がそわそわして落ち着かない。

 つい先走りがちなミスティアを止めるのはいつも兄の役目だったが、痩躯そうくで腕力もない彼がするのは精霊による足止めだ。物心つく前に父を亡くしていることもあり、抱きあげられた経験などほぼ皆無。なのに、ヴェルクはもうこれで二度も――。


「……ほら、案内、頼むぜ」

「はっ、そうだった! ええとね、まずは表通りに出てね――」


 空いている右手で指差しつつ案内を始める。ヴェルクの視線はさまよっていて、目を合わせようとしない。普段は前髪で隠しているし肌の色も濃いので見分けにくいが、彼は感情表現が素直だ。自分で抱えておきながら、今ものすごく照れているのだ。

 照れるひとを見ていると照れがうつる。彼が見る自分も顔が真っ赤かもしれない。もしかしたら馴染みの店主に仲を勘繰られ、揶揄からかわれるかもしれない。だがそれも、悪くないと思えてしまう。


 雑念と妄想が表情かおに表れないようにと唇を引き結び、ミスティアは道案内に意識を集中したが、うまく誤魔化せたかはわからなかった。



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 ※エレナーゼ大陸世界の地図を作りました! こちらの近況ノートに載せております。

 https://kakuyomu.jp/users/Hatori/news/16817139554625271130

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