〈幕間〉狂気の呪い


 最初に人をらった時のことを彼は覚えていない。この狂気は呪いのせいかもしれず、らう以前からずっと彼と共にあったもののようにも思える。

 前脚に力を込めれば、爪の下で獲物はわずかに身じろぎした。拘束された翼をせめてもの抵抗にと震わせる様子が愛らしい、そう心底から思う。


「おとなしい子は可愛いですが……いつまで我慢する気なんですかね?」


 柔らかな羽毛に包まれた耳に吐息を吹き込めば、小さなあえぎが漏れた。涼やかに鳴る鎖の音を彼も心地よく聞けばいい――と、加虐的な感情が胸に満ちてゆく。

 翼族ザナリールにしては日焼けしていない肌に牙を立て、ゆっくり沈めれば、ぷつりと皮膚が破れて甘い血液があふれ出した。その瞬間はさすがに呻き声を上げたようだが、牙を滑らせやわらかな肉を裂いても、彼はくぐもった声を漏らすだけだった。なぶるように傷口を舐め、血を飲み下す。自分の傷口から流れるそれは鉄臭くて不味いだけなのに、なぜ彼らの血をこれほど甘く感じるのだろうといつも不思議に思っている。


「僕としては、理性がぷっつんする前に、君に鳴いてほしいのですが」


 酔った時のように意識が浮きたっていた。世界は極彩色で、甘い香りに満ちていて、小鳥たちは可愛らしい。だからもっとさえずってくれれば、この長閑のどかな夜も楽しいものとなるだろうに。

 無心にかぶりつきたくなる衝動を抑えるため、本性トゥルースではなく人型へ姿を変えた。こうまでされても怯えの色なく見つめてくる瞳をじっくり鑑賞する。涙で潤んだ青の眼に淡い室内光がけて、生きた宝石のように美しい。湧きあがる獰猛どうもう嗜好しこうを満足させるべく、指先で翼の羽毛をつまみ、ゆっくり引き抜いた。

 囚われの青い鳥が苦痛に表情を歪ませ、喘ぐ。多くの獲物を味見してきたけれど、彼の声は殊更ことさら魅力的だ。致命を気にせず引き裂いてやればもっと鳴いてくれるだろうに、今はまだ許可を貰えていない。どの方法ならできるだけ命を削らず責め苦を与えられるだろう、と、妄想を広げながら、一枚一枚羽を引き抜いてゆく。

 

「ねぇ、いったいどこに隠したんですか。早く出してくれないと、僕、勢い余って君をべちゃうかもしれませんよ?」


 無言を貫く翼族ザナリールへの静かな拷問は夜更けにまで及ぶ。狂気に侵された思考では、目的を忘れ恍惚こうこつおぼれてしまっても、自覚するのは難しいのだ。



 † † †



 鳥たちが寝静まる深夜、狩猟用の弓を携えた少女はじっと静かに時を待つ。心は急いても、翼族ザナリールの目に闇を見通すことはできない。狩りの基本は機を見極めることだ。非力な彼女は力押しが向いていないと自覚している。勝機につながる隙を見いだすには、朝が来るまで絶対に気取られてはいけないのだ。

 魔族ジェマの脅威から逃れるため人間族フェルヴァーの国家シャラールに移住することを決めたのは、村長むらおさである兄だった。人間たちは条件をつきつけることもせず快諾してくれて、少し遠いとはいえ物事は順調だった。それなのに。


(悪い狼め、絶対にやっつけてやる)


 狩りで遭遇した、金髪青目の魔族ジェマ。山岳に連なる森は野生動物が多いけれど、資源になるものなどなかったのに。彼は何のため、何をしに、森をうろついていたのだろう。

 魔族ジェマは人をらった瞬間から、闇の王が科した呪いに囚われるのだという。魂に食い込む呪いは解呪の手段が存在せず、その魔族ジェマの寿命を半分奪い、死ぬ日を決定するのだ。そんな恐ろしい思いをしてまで人をいたいという思考は、彼女に理解できるものではないが。


 兄の話によると、呪いには狂気がともない、狂気は心と思考を歪め、その歪みは彼らの目に表れる。目を見ればわかる――常々言われていたことを本気で信じていたわけではなかったが、あの日あの魔族ジェマを見た途端、背筋から翼の先まで通り抜けた悪寒と一緒に理解した。

 あの時、おのれを過信せずに逃げていればよかったと、彼女は今でも後悔している。彼が過去に同胞をらったのだと認識した途端に、怒りと悔しさで頭がいっぱいになったのだ。狩りのため男たちも一緒に来ていて、こちらは他勢で向こうは一人。仇を討てると――魔族ジェマ一人くらい狩り殺せると思ったのだ。それが、こんなことを招いてしまうなんて。


(ぼくが、みんなを死なせてしまったから)


 飛び出すべきではなかったと、今なら思えるけれど。狙いを外したことがなく、十分な距離もあり、向こうがこちらに気づいている様子はなかった――と思ったのに。放った矢が狙いを外し、彼がこちらを見て口角を引きあげ、巨大な金狼に姿を変える。その全てが信じ難く、脚がすくんで動けなくなるなんて。

 逃げろ、と上がった声に身体が弾かれた。脚と翼を必死に動かし逃れようとした目の前で血飛沫と青い羽毛が散ったのを、一生涯忘れはしない。彼女を庇おうと前に出た友人を一撃で噛み裂き、迫りくる金色の獣が放った言葉も。


「おまえ、可愛い奴だな。気に入ったぜ」


 大きな獣の青い眼を染めていた、言葉では言い表せない色。あれがきっと兄の言っていた狂気の呪いなのだ。恐怖と悔しさに腰が砕けそうになったのを、同胞が腕を掴んで引きずり上げる。逃げろ、と繰り返される。

 金狼が迫り、自分は突き飛ばされ、彼が地面に引きずり倒された。あっという間の絶命は悲鳴も残さず静かなもので。

 二人の命を奪われたというのに、逃げる以外を選べなかった自分が嫌いだ。実力を顧みずに相手を挑発した迂闊うかつさが、相手を呼び寄せ友の命を奪ったのだ。金狼の狙いが自分だというのなら、逃げることすら悪手だったのかもしれない。現に今こうして村は制圧され、彼らは自分を捜し回っているのだから。


(兄さんは逃げろって言うけど、できるわけないじゃないか)


 彼女を庇って兄は囚われた。もうこれ以上、自分のために誰かが犠牲になるのは嫌だった。しかし大人しく投降したところで、兄や囚われた同胞たちが解放される見込みなどない。魔族ジェマが捕らえた翼族ザナリールを無傷で解放するなど考えられない。

 であれば、機を待つのだ。

 朝を待ち、集中力をぎ、隙を待って。


(今度こそ、あいつの心臓を射抜いてやる)



 

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