第9話 人形
長い黒髪の正体不明の生き物は、
悍(おぞ)ましい赤眼を薄暗闇の中で炯々と煌めかせながら、
鋭い動きで僕へと覆いかぶさってきた。
僕はとっさに身をよじりながら横転すると、
もう二度とできないであろう俊敏な動きで鞘からナイフを
抜き放ち、再度迫りくる脅威に対してその刀身を振るう。
だが、「ガギン」という鈍い音とともに僕の手が痺れ、
ナイフを地面へと落としてしまう。
その生き物の躰はまるで鉄のように固く、
刃を通さなかったのである。そしてなんという間抜けか。
唯一の得物であるナイフを失ってしまったのだ。
しかし、その後悔も長くは続かなかった。
目の前の脅威はそれをチャンスと見るや、
ついに僕の首へと手を掛けたのだ。
「くそ、なんてことだ」
怨嗟の声を上げるが、それで事態が好転するはずもない。
僕は押し倒され、万力の力で抑え込まれたのを感じると、
次に起こるであろう衝撃を予感し、
咄嗟に体を縮こまらせてその時を待った。
ああ、短いような長いような、
いや、やはりとてつもなく長い人生だった。
ろくでもない期間が長すぎて、まだ30歳の自分だが、
体感時間的には100年くらい生きていた気がする。
こんな人生でありながら自分はよく頑張ったものだ。
理解者は一人として得られなかったが、特に寂しくはなかったし、
一人のほうがむしろ気楽で楽しかったなと、
人間不信を極めすぎた自分に呆れた。
それにしても、こんなどうしようもない自分を、
ついにコントロールしきれたというのは誇るべきことだ。
他人からはきっと屑のような評価であろうが、
自分は間違いなくベストを尽くした、と胸を張って言える。
他人が僕の人生を経験すれば、きっと途中で投げ出してしまうことだろう。
悔いは沢山あるが、もう一度人生をやり直したからと言って、
僕が僕である以上、上手くやれることはないだろう。
だから、100点満点は言い過ぎだが、80点くらいの点数はあるはずだ。
ああ、だから、せめて一思いにやってくれ。
僕は恐がりなのだ。
そう思って長い事、走馬灯らしきものを浮かべながら
固く目を瞑っていたのだが、
10秒が過ぎ、20秒が過ぎ、1分が過ぎても、その時は訪れなかった。
さては、獲物を嬲っているのだろうか。
次の瞬間にも僕の命を刈り取るような一撃が加えられるのではないかと
戦々恐々とした心地を抱えながらも、
僕は勇気を振り絞って薄らとだけ目を開けた。
案の定、僕へと覆いかぶさった生き物は、
馬乗りになりながら、反応を窺うように僕の顔を見下ろしていた。
か黯(ぐろ)が近づく夕闇の中で、
切れ長の鋭い、朱い眼だけが爛々と踊っている。
だが、その瞳は獲物を前にした捕食者の喜悦でもなく、
ハンターとしての冷徹さもない、
何の感情も移さない硝子細工のようであった。
僕が鏡を見た時に眺める、自分の目とよく似ている、
と場違いな感想を浮かべる。
つまりろくでもない目ということだが、
一体こいつは何が狙いなのだろうか。
僕を拘束をしてから、要求らしい要求もしてこない。
もしも金貨が欲しいのであれば、当然命には代えられない。
好きに持って行ってもらって良いので、
なんとか命だけは助けてほしいのだが。
なかなか終わりが来ないことを良いことに、
命乞いの算段を付け始めていた僕であったが、
とうとう恐ろしい襲撃者が声を発した。
その言葉は丸で感情を乗せない、抑揚のないもので、
殺し屋だってもう少し温かみのある声音で話すであろう、
冷えて凍った鉄の如きであった。
「突然逃げ出されてどうかされたのでしょうか。
何かの脅威に怯えていらっしゃるのでしょうか。
それでしたらご心配には及びません。
グリモアモデル3型シリーズのわたし淡雪(アワユキ)が、
貴方様の安全と安心をお守りさせていただきます」
月明かりが窓から差し込み、
目の前で機械の如く抑揚のない冷えた声でそう宣(のたま)う
相手の姿を照らし出した。
炯々とした朱い目の煌めきは、なりを潜め、
一方で烏の濡れ羽色の如き美しい黒髪が艶々と輝いていた。
容顔は成人にはやや満たない整ったもので、
長い黒髪と相まって、丸で日本の少女にように見えた。
その上、肌は初雪のように白く、無表情であることとあいまって、
より一層儚げに見える。
いかにも和服が似合いそうな容貌である。
だが、それらを台無しにするように、顔から下は異様であった。
その少女は裸の状態であり、年齢に見合う染み一つない白皙や、
少し膨らんだ乳房を隠しもせず晒しており 一見すると婉美であったが、
胴体に続く四肢と首の付け根、そして腕や脚などの関節部が節くれだち、
明らかに継ぎ目があるのであった。
そして、馬乗りになられて感じるこの少女の肌の硬質さは
人間のそれとは明らかに違う。
美しい容貌にそぐわない、ある種グロテスクな身体が、
暗闇の中、月明かりの仄かに浮き上がるのは不気味で、
つまり、この感覚というのは、
「丸で人形みたいだ」
そう僕が感想をつぶやくと、少女こと淡雪は無表情に淡々と告げた。
「仰る通り、機械式の自動人形(オートマター)でございます。
このたびは、起動頂きまして誠にありがとうございました。
今後、末永くよろしくお願い致します」
そういって、僕の上から楚々として退くと、
両手を地面について深々とお辞儀をするのであった。
その左手には見覚えのある朱色の指輪がちらりと見えた。
・・・
・・
・
さて、目の前の和服が似合いそうな裸の人形について、
色々と聞かないといけないことがありそうだと一般的には理解していた。
だが、正直言って、今日の僕はこれ以上、
何かに頭を使うことが面倒である、
というのが偽らざる本音なのだった。
僕が人生において培った、マイペースさ、というは、
こういった状況であったとしても、
早々崩れ去るような甘いものではなかった。
何せ精神に何かしらの欠落を持つ僕という人間が、
なんとなんと、社会で生きていけるレベルにまで
自分をコントロールしてきた技能なのである。
甘い筈も、軽い筈もなかった。
そんなわけなので、僕はとりあえず一つだけ尋ねることとして、
今日はそれで、この案件は後回しにしてしまおうと決心する。
「一つだけ教えてほしいんだが、
淡雪は僕を襲撃しに来た訳じゃないわけか」
そう、この1点に尽きるのであった。
これ以外は、はっきり言って、
明日に回してしまっても差支えないと思うのだ。
きっと普通の人ならば、この人形の素性やら、
起動とは何のことなのかやら、オートマターとは何なのかやら、
なぜここに来たのかやら、この人形のために服を調達したやったりやら、
そういったことをするのであろうが、
僕はそれらをこなしたり考えたりするのが、
本当に、心の底から面倒であったのだ。
少なくとも、今日はもうよかった。仕事は終わりだった。
その日追加になった仕事は、その日に処理しない、
というのが僕のルールだ。
後は趣味というか独りを楽しむ時間なのである。
そうでなければ、直ぐに心労がたまって、動けなくなってしまう。
なので、この人形との関係において、安全さえ確保できるのであれば、
一旦、種々の問題は脇に置いておいて、
先ほどの余暇の続きに勤(いそ)しみたかったのである。
「勿論です。起動頂いた主であるところの貴方様を傷つけるなぞ
とんでもないことです。感情調整が甘く、先ほどは貴方様を
やっと見付けることができたので、
逃がさない様、つい拘束をしてしまいました。
はしたない態度を取ってしまい、大変申し訳ございません
しきい値を上げましたので、二度と同じことは起こしません」
そう言ってやはり、無表情のまま頭を深々と下げるのであった。
「はあ、まあ、なるほど、了解した。感情調整とは確かに機械っぽい。
けれど、人が苦手な僕としては機械のほうが助かる。
それで、えっと、君が何者なのか、まだ聞けていない。
だから本当はそういったことを聞くべきなんだとは思うんだが、
正直に言って、僕は今から金貨を数えたり、
メモ帳の整理に掛かりたいんだ。
だから、君のことは、丸丸先送りにしたいのだけれどもいいだろうか。
きっと、色々と聞いたり整理するべきなんだろうが、
今日はもう疲れ切って、気分じゃないんだ。
本当に申し訳ないのだけれども」
僕が遠慮気味にそう伝えると、淡雪は当然とばかりに頷いた。
「貴方様のされたいようにして頂ければと思います。私のサポートが
必要なときは御呼びください。いつでも、何であれ、お手伝い致します」
「そうか、それは助かる。なら、しばらく僕は一人で作業をしているから、
淡雪は暫く何もせずに待機しておいてもらいたい。
えっと、こんな風に僕が指示を出せる立場にあるってことで
はたして良かったんだろうか」
根本的な疑念が胸を掠めたので聞いてみる。
「その通りです。貴方様は私の管理者になられましたので、
淡雪は貴方様のどのようなご命令であれ従います」
さっぱりとその理由は分からないが、
とりあえず分かったように頷いておく。
「了解した。じゃあとりあえず待機しておいてくれ」
承知致しました、と黒髪を揺らして立ち上がった淡雪は、
部屋の脇まで移動すると端坐し、そのまま動かなくなった。
本当に微動だにしない。紛うことなき機械だ。
そのことに僕は胸を撫で下ろし、嘆息した。
ほっとした理由は明白だ。
これがもし人間であったりしたならば、
どうコミュニケーションを取ればいいのか分からず息が詰まり、
きっと早晩、追い出していたであろう。
だが、機械であれば大丈夫だ。
感情調整、という単語が出たくらいだから、
本当の意味での感情はないのだろう。
つまり人間ではない。まさに機械で、実に人形だ。
ただ、淡雪が何者であるかはまださっぱりと分らない。
実際、分からないのに傍に置いておくというのも、
防犯意識が足りていないと言わざるを得ないのだろう。
だが、少なくとも自分を害するつもりもないようだ。
あれば既に、僕はこうしていられない。
ならば、まあ、別にいい。
とりあえず今日がつつがなく過ごせるようならば、
全ての疑問や問題は、明日考えたり悩んだりすればいいのだ。
そんなことよりも、と僕は周囲を見回し、
さっき暴れたせいで散らばった金貨を集め直さねばならないなと、
うきうきしながら思った。
飛び散った金貨を拾い集めるなんて、酷く贅沢な仕事である。
しかも自分のお金なのだ。
勿論、僕は金の亡者というわけではない。
だが、お金が嫌いというわけでは決してない。
大金を目の前にすると、心が豊かになったような気がするのだ。
なぜなら、あればあっただけ心に余裕が出るのがお金というものだ。
他のものではそうはいかない。
不思議な性質を持った道具なのだ、お金というのは。
さて、そんなわけで、僕は金貨を拾い集めると、
10枚のグループごとに分けて、1時間程かけて枚数を数え始めた。
楽しかったので5回ほど数えたが、
何度数えても、金貨は612枚あった。612万マグラだ。
「これで明日からは個室に泊まることができるかな」
そうやって、ひと段落して肩の力を抜くと、
急に疲労感と睡魔がのしかかってきた。
それはそうだ、何しろ朝から緊張しっぱなしだった。
しかも今日、朝から何も口にしていない。
空腹はまだ我慢できる。だが、睡魔がともかくひどかった。
「こう眠くては、とてもメモ帳の整理などしていられないな」
そうぼやくと、僕は金貨の入った袋を胸元に抱き、
睡魔に誘われるがままに、壁を背に目を瞑った。
うつらうつらとする頭の中で、
傍らの機械人形が夜中豹変し、寝ている間の隙を突かれ、
無理やり金貨を奪われる可能性を考える。
だが、そうなったら、それはそれでしょうがないな、
とあっさりと了解する。
そんなややこしい事態への対応をいま考えるくらいならば、
金貨など別に手放しても良い、と素直に思った。
だが一方で、小心な僕としては、
金貨を奪われるのが嫌と言えば嫌、というのもまた本音だった。
奪われても仕方ないと諦めるが、できれば奪われたくない。
そんな風に思う僕は、胸元の金貨をもう一度しっかりと抱く。
すると少しは安心したのか、
僕の最後の緊張の糸が途切れ微睡みへと落ち入ると、
すぐに意識は薄れ、夢の世界へと旅立ったのであった。
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