第5話 左腕

子鬼との、文字通りの鬼ごっこは数百メートルに及んだ。

子鬼の体躯は僕よりも一回りは小さいはずなのに、

走る速さや体力は僕と同程度にはあるようだった。


引きはなさそうと一目散に逃走するも距離を離すことができず、

徐々に追いつかれ始めていた。僕の体力も限りがある。


「いや、どちらかといえばないほうだ」


向こうは野生の生き物。モンスターである。

こちらのほうが体力で優れているなどと

早合点していたのはなんの根拠があってのことだろうか。


だが、そんなことを冷静に考えている暇はもちろんないのである。

僕の体力は尽きようとしていて、子鬼はまだ元気だ。

現に奇声を発しながら鬼の形相で追ってくる。


「町の門はまったく見えない」


焦燥と疲労に心身が蝕まれているのが分かる。

全力疾走をしているのに流れるのは冷や汗だ。

冷静になれない。

訳も分からずに惰性で全力で足を動かすだけだ。

大声で助けを叫ぼうにも既に息切れを起こしていて、

その上、口は震えてうまく言葉を紡ぐこともできない。


そして呆気なく限界は訪れた。

果物を詰め込みすぎた袋が自然と破裂するような前触れのなさだ。


並走するかのように追いついた子鬼は、手に持った小刀で

僕を切りつけたのだ。


「うっ」


思わず声が出た。涙も反射的に少し出る。

僕の左腕が浅く切り裂かれており、間もなく血が滲み出た。


かっ、と頭に血が上った。

純粋な怒りだった。誰だって切られれば、かっとなる。


一瞬で人格が切り替わったかのような精神の変遷だった。

目の前のモンスターをできるだけ惨めにしてやりたい。


「殴りつけてやりたい」


という原始的な暴力への欲求だった。

子鬼は自分より体が小さい。なぜそんな相手に暴力を

振るわられねばならないのか。理不尽極まる。


ポケットには薬草採取用のナイフが入っていた。

そのことは走って逃げているときから太ももに当たる

ごつごつとした感触から理解していた。

だが、ひどく憤っていた僕は、ナイフを取り出して

戦ったほうが良い、などという合理的な結論を得られる

ような精神状態ではなかった。

凄まじい怒りの前に、ナイフを取り出す労がどうにも

煩わしかったのだ。


冷静で合理的な思考よりも前に、目の前の子鬼が

再度振り上げた小刀に腹が立って、子鬼顔負けの奇声を発し、

その刀を奪い取ろうと、素手で躍りかかったのである。


子鬼は突然の僕の行動に驚きながらも、咄嗟に刀を奪われまいと、

振り払うように体を半身にして仰け反った。

僕は「ぜいぜい」と息を切らせながらも、

躱した子鬼自身を逃がさないとばかりに、肩からぶつかっていく。


中途半端な姿勢であったものの全体重をかけた体当たりに、

子鬼はたたらを踏んだ。

なんら考えもなく、僕は更にそこに組み付くように突っ込む。

子鬼もその単純な突進を躱しきれずに、

僕の腕のなかでもがくようにして地面へと倒れ込んだ。


争いながらも体格差を利用して僕が馬乗りになることに成功する。


子鬼はすぐさま小刀を繰り出してくるが、僕は興奮状態だった。

冷静ならば決してやらないはずだが、

その襲いかかる刃を横合いから腕で弾き飛ばしたのだ。

地(じ)の部分に上手く当たり、小刀は遠くへと吹っ飛んだ。

失敗すれば大怪我であったが、そんな冷静な思考はなかった。


小刀を失い、暴れだそうとする子鬼の首へと組み付いた。

恐ろしい形相だ。だが、僕も負けないほどの大声で何かを叫びながら、

子鬼の細い首を全力で締め上げにかかった。


「ぐえぐえ」、という怨嗟とも言えるかすれ声と唾液を盛大に

撒き散らしながら、両腕と脚で僕を打ち据えた。


だが体格で押さえ込んだおかげで、

腕も脚も自由には動かせない。

急所を狙うような有効な反撃はできないようにして

さらに必死で押さえ込んだ。


徐々にうめき声は小さくなり、3分とかからずに静かになった。

だがそれでもその後、数分はそのままでいた。

子鬼の首の骨は既に折れているのか、細かった首は僕の握力によって

今ではさらに細くなっている。ぐしゃりと潰れているような様相だ。


肩で息をしつつ、冷静になり始めた頃、


「こいつ、もう動きそうにないな」


ということが理解できた。


「はあ、はあ、でもまだ」


冷静になると、僕はその場所から一目散に、

町の入口まで尻尾を巻いて逃げ始めた。

だが、駆け始めた後、すぐに戻ってくる。


「こういう中途半端な行動は宜しくないんだが」


などと口の中でもごもごと言いながら先ほど弾き飛ばした小刀を拾った。

それから改めて、町の入口まで急ぎ駆け出す。


なんてことはない。僕は最悪のケースを考えるタイプだから

泣きっ面に蜂の格言が頭をかすめただけだ。

この場所にいれば新たなモンスターに襲われる

可能性がなくはない。


だが、僕は自分の命について非常に重く見ている。

平たく言えば、


「他の誰かを犠牲にしてでも守るべきものだ」


ということを、恥知らずとは自覚しつつも、

位置づけているのである。


もちろん、勝てる見込みがあれば別だ。

だがもう1戦は、もう無理だと思った。

体力的にはもしかするとできるかもしれないが

とても気持ちがついて行かれないと思ったのだ。


そのような訳だから、万が一を考え、

この場所を迅速に離れ、安全を確保したかったのだ。

何をおいても自分ほど大事なものはない。


さあ、それにしても町の近辺から離れたのは軽率であった。

ただ、反省はすれど、仕方がなかったよなあ、

というのが揺るがぬ正直な結論であった。


見知らぬ風景を見にゆきたいと思うのは、

僕の業のようなものだ、と自覚するのであった。

つまり、命を天秤にのせてしまったものの、

「いちおう釣り合っていた」、と何度思い返しても

評せざるを得ないのである。


大馬鹿者なのであった。

だが、今は釣り合っていなかった。

だから早く逃げなくてはならなかった。


僕は全速力で町の門へと向かう。

一方で、そんな命と天秤について思考しつつも、

この回収した刀がそれなりの値段で売れるといいんだがなあ、

という埒もないことも、頭の片隅で弄んでいるのであった。


・・・

・・


「今日は疲れたから、早く休もう」


町まで戻ると肩の荷が降りた。大きく息をつく。


モンスターと戦った興奮や恐怖はもう引きずっていなかった。

生まれて始めの殺し合いをしたというのに淡白過ぎるが、

塞ぎ込めば良いというものでもないので難しいところであった。

いずれにしても自分の性格を変化させることは、今からは難しい。

だから悩むだけ徒労である、ということだけが明らかだった。


ともかく、今は休みたかった。


何より今日は結果として色々な経験をすることになった。

得るものがかなりあったように思う。

反芻し、今後どうしてゆくかを落ち着いて考えたかった。

そうした時間は、お金で買う必要があった。


もう夕刻であるから、今日はこれ以上お金を稼ぐ算段を

つけることは難しい。手持ちのお金に、採取した薬草を換金、

拾ってきた小刀の売却、それらの額を足して

なんとか今日を凌ぐだけのお金を得なければならないのだ。


「ただ、薬草は安い」


その上、この時間から売却のために

ギルドに行けば、人でごった返しているのではないか。


人ごみへ、この精神状態で入って行くのはひどく億劫だった。

いかに必要であっても、人生において、

できるだけ避けたいことの一つであった。


なのでまず、ドワーフの店に先に寄ろう、と考える。


「小刀をとりあえず売る」


ただ、あまり高くは売れないだろう。

薄汚れている上に抜き身で、鞘もない。


だが、そうであるがゆえに、非常によく目立った。


それが一番僕にとっては困るのだった。

ともかく目立つのは苦手である。早く手放したかった。


急ぎ足で目抜き通りを北上し、ドワーフのお店に着いた。

冒険者風の者が数人いる。

できるだけ自然に目を逸らすと、棚の武器を見物している風を

装ってカウンターへと向かった。


「ああ、お前さんかい。どうしたね」


店主から声をかけてきてくれたので、小刀を差し出した。


「実はさっき子鬼のようなモンスターと戦闘になりまして、

 うまく倒せたのですが、その際にこの小刀を拾いました。

 買い取ってもらうことはできますか」


どれ、と言って、店主が小刀をカウンターに乗せる。

さっと目線を走らせた。


「子鬼っつうのは多分ゴブリンだな。

 こういう小さめの刀はよくゴブリンが使っている。

 お前さん、よく見たら随分服が汚れているようだが、

 その戦闘が原因って所か。

 さて、それでこの刀だが、かなり使い込まれてる。

 刃こぼれもしているようだ。だが、全体としては丁寧な作りだ。

 柄(つか)も頑丈だな。研いでやれば、それなりには使えるだろう」


店主の評価を聞きながら、何度か頷いた。


「そうですか。それでお幾ら位になりそうでしょうか」


そうだなあ、と顎鬚をしごきながらドワーフは唸った。


「買い取ってもいいが、お前さんの方で使ってもいいんだぜ」


研ぎ代は貰うがな、と付け足す店主に、

僕は、いえ、とだけ言って首を横に振った。


「ふうん、そうかい。それじゃあまあ、買った後、

 こっちで不具合の修繕もしなくちゃならんから、

 その分を差し引いて考えると2000マグラってところだな」


まあ、そんなところだろう、と思った。


別段優秀そうな武器ではなかった。

この店の似たような刀もその倍額あたりだ。

もちろん本当の相場などわからないが、

お金のことで七面倒臭いやりとりをするつもりはなかった。


売却額次第で本日の宿が個室かどうか決まることを考えれば

粘るべきという風もないわけではないのだろうが、

素直に性分ではなかった。


お金を受け取ると、店主が世間話のように話を続けた。


「ところで、ゴブリンを倒したってんなら、これとは別に

 ドロップアイテムを落とさなかったか。そいつはギルドで

 買い取ってもらえるから忘れないようにな」


はて、そんなものがあっただろうか。

すぐに退散したせいで、よく覚えていなかった。


「ドロップアイテム、ですか。すいません、倒した後に

 すぐにその場所から移動したもので、よく見てませんでした」


「おいおい、冒険者ならドロップアイテムの確認は必須だぞ。

 まあ、ゴブリンのは大した金にはならんから、そもそもいらん、

 っていう冒険者もたくさんいるがな。しかしお前さん、

 まだまだ成り立てだろう。大事にしたほうがいい。

 モンスターが死んだあと、数分すると、すっかりと消えちまう。

 文字通りこの世から消滅しちまうんだ。理由はわからん。

 モンスターを生み出した魔神に聞かんとな。そんで、

 モンスターごとにドロップするアイテムが決まっていてな、

 使い道があまりないものもあるが、多かれ少なかれ金になる。

 普通のゴブリンなら、あれだ。ゴブリンの角、っていう

 加工の素材を落とすんだ。軽くて丈夫な石のようなもんで、

 色々な用途で使う。ギルドに持って行けば換金してもらえるが

 今の相場だと一つ20マグラあたりかね。もちろん、ゴブリン退治は

 常時依頼が出てくるから、それと合わせれば、それほど割が

 悪いわけじゃねえよ」


聞けばゴブリン退治は1匹500マグラで討伐依頼が常時出ているらしい。

受注していなくとも、ゴブリンの角を持っていけば、換金と同時に

依頼料がもらえるとのこと。


今日、ゴブリンを倒した場所まで戻り、角を拾い、

ギルドへ行って換金すれば、520マグラになる、ということだ。

小刀も2000マグラで売れたので、すべてうまく回収できていれば

2520マグラになっていたということになる。


「だがそれは、皮算用だけれども。

 それにしても命を賭けるのに安いのか高いのか」


店を出てから僕は呟いた。


間違いなく安い。それはそうなのだが、

それは前の世界の話であるようにも思われた。

冷静にこの世界での自分の命の相場を検証する必要があるのだった。


「ただ、今日は、やはり取りにゆくのはやめておこう。

 いやな予感がする。そもそも夜になってしまうかもしれないしな」


それに、この町の門が何時にしまってしまうのかも自分は知らないのだ。

知らずに締め出されれば、町の外で一晩を過ごすことになるかもしれない。

それこそ悪夢だ。


ギルドの方をみると、今日の収穫を精算するために、

冒険者たちが激しく出入りしているのが見えた。

あの中に入っていって、薬草を換金すると思うとうんざりとしてきた。

どうせ100マグラにしかならないのだ。

それならば、大部屋でも良いので、

さっさと宿屋に引きこもろうと決意する。


僕は踵を返すと、いつもの宿へと向かった。


大部屋の宿泊料金を聞くと、素泊まり1000マグラ、

食事付きで2000マグラ、とのことだった。

また個室の時と違い食事は1Fの食堂で取る必要があるとのことである。


それなら、と僕は素泊まりを選んだ。

食事は通りの露天から串焼きを3本ほど買ってきて夜食に当てた。


早い時間だから大部屋にはまだ誰もいない。

小さいベッドが10ほど並んだだけの粗末な部屋である。

人のこないうちに500マグラを払い、お湯を持ってきてもらった。

頭や体にこびり付いた泥や血を拭った。


さて、と呟いて一番端のベッドを確保してメモを開いた。

串焼きの肉を咀嚼しながら、紙面へと目を落とす。


だが、すぐに目を閉じた。

そうして天に顔を向け、感慨に耽り、つぶやいた。


「今日、無事に切り抜けれたのは本当に幸運だったんだろうなあ。

 異世界に来て平穏無事に行くとは思ってなかった。

 きっと、もし死んでしまう運命があったのだとすれば、

 今日だったんじゃなかろうか。

 でも、幸い大きな怪我もない。寝床もあるし、飢えてもいない。

 お金を稼ぐ手段も確保できてる。冒険者としても、

 今日ちゃんと依頼を達成できた。モンスターも倒すことができたんだ」


一つ一つを見れば、十分にうまくいっているものは一つもない。


儲けが少なすぎたり、油断から襲われ、怪我を負いもした。

十分な武器も購入できておらず、ドロップアイテムも見逃している。

お金が足りず大部屋に泊まるはめになった。


だが、それでも異世界三日目にして、自らが課した色々な課題を

それなりにクリアしつつ、このとおり無事に夜を迎えようとしているのだ。


完璧ではなかった。だが、僕がもとより完璧をなせるわけがない。

ゆえに、今の状況は完璧なのだ。

そう、確信を持って自身を褒め、自画自賛してから、改めて目を開く。


紙面に踊る文字を眺める。


「さあ、次はどうしようか」


つぶやいて、ペンを走らせるのであった。

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