第3話 別れの夏

高校1年の夏。茹だるような暑さの中、坂道を登ってバイト先に向かっていたとき、尾川から電話がかかってきた。

「尾川?どうし・・・」

電話に出や否や、俺の声を遮るように、尾川が続ける。

「瀬野!お前、いまどこ?」

「どこって…バイト先に向かって歩いてるとこだけど」

「…倒れたんだ」

「倒れたって、誰が?」

「…お前のかーちゃん」

蝉の声がうるさくて、尾川の声がよく聞こえない。頭がぼーっとする。

「城戸大学病院だって。大通り渡ったとこの!!」

電話を切ったかはわからない。気づくと、病院に向かって走っていた。走って、走って、息をするのも忘れるほど、走った。目の前に病院が見えてきた。もうすぐそこにある。大通り、車の往来が激しい横断歩道で足止めされた。急に立ち止まったせいか、立ちくらみがする。倒れそうになる身体を電柱に預け、呼吸を整える。信号に目をやるが、まだ赤のままだった。


「母さん…」

働いてばかりで、自分のことは二の次。いつも俺のため、俺のためって無理するからだ。涙で目の前が歪む。身体が熱くなって、胸の奥がひどく痛む。掌で額を覆ったときだった。


「…大丈夫?」

俺の目の前に差し出されたのは、花柄のハンカチ。反射的に受け取ってしまった。

「あ……」

大通りの向こう側、病院の前から尾川が俺を呼ぶ声が聞こえる。気づけば、信号は青になっていた。次に見た時はもう、ハンカチの持ち主はすでに去った後だった。


尾川に急かされるまま、息を切らし病室に入る。

「母さん!!」

大きな音とともに開く扉。シーンと静まり返った室内。ベッドには、母さんが眠っていて、それを見つめるように、医師と看護師、母さんの同僚数人が立っていた。

「瀬野拓磨くん…」

医師が近づき、ゆっくり話始めた。母さんは仕事中に、くも膜下出血を発症して倒れ、救急搬送されたが、運びこまれた時には、すでに手の施しようがない状態だったそうだ。


説明の後、医師の計らいで、家族2人の時間を作ってくれた。俺たち以外誰もいなくなった病室で、眠っているような母さんの横顔を見つめながら、そっと手を取って握りしめる。人は死ぬと冷たくなると聞いたけど、母さんの手は、まだほのかに温かかった。これから、どんどんこの温もりが消えていくのかと思うと、どうしようもないとわかっていても、こわくて、こわくてしかたがなかった…。逝かないで、逝かないで。俺を置いて逝かないで…。

「母さん………」

胸の奥が苦しくて、息ができないほど苦しくて、涙が溢れて止まらなかった。

しばらくして、死亡診断書を受け取って、エンゼルケアが始まってからは、あまり覚えていない。母さんの写真探しから葬儀場や告別式の手配は、隣に住んでいた尾川の両親がほとんどやってくれた。俺は、ただそこにいるだけで、結局何も手につかなかった。


すべてが終わって家に帰り着いたとき、俺は母さんが入っているという小さな白い箱を抱いていた。

「瀬野くん、私たちはいつだってすぐ隣にいるから。何かあったら…」

「母ちゃん、今は…」

「そうね…」

「あの…ありがとうございました」

尾川の両親に頭を下げ、自宅の玄関を開けて、部屋に入った。

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