第9話 接吻







 一年の年月が流れた。

 新しく掲げられた劇団の香盤表※配役を書いた板には、ダリアの名前が一番上に大きく記されている。

 ついに彼女は次の公演で主役として歌うことになったのだ。

 

 ダリアは初めての大役に戸惑ったが、周囲の支えが背中を押した。中でもハロルドはいつでもダリアをサポートしてくれた。

 そしてついに今日、舞台の初日を迎えることになったのだ。





 一方ロイは、大魔神アズラエルに魔界へと呼び出されていた。


『久しいな、ロイ』


 暗がりの空間で、玉座に腰掛けたアズラエルは妖しげに口角を上げた。

 その前で跪いていたロイは、神妙な面持ちでアズラエルの言葉を待っていた。


『そなたの働きを見させてもらった。よくもあそこまで“価値のない娘”を育てあげたものだ』


『……』


 “価値のない娘”すなわち魂を取るに値しない不幸な娘、という意味である。

 しかしロイはその意味を分かっているはずであるのに、彼女が“価値がない”と一掃されてしまうことに不快感を覚えた。


『時間はもう限られている。分かっているな?』


『……はい、お任せください』



 もう時間がない。

 早くダリアの魂を奪わなければならない。もう彼女は裏路地で貧しく暮らし、暴漢に追われていた“あの彼女”ではないのだから。

 やれることはやった。あとは魂を奪うだけだ。分かっている。分かっている……。

 ……それなのに、なぜ躊躇ってしまうのか。

 人間がどうなろうと知ったことではない。今までだってそうだった。

 それなのにダリアの顔が頭に浮かぶと、すべての考えが停止する。なぜだ?

 ロイは柄にもなく焦っていた。






―――――


 

 扉にダリアの名が刻まれた広い個室が、彼女の楽屋だ。もう直ぐ幕が上がる。届けられた沢山の花束が部屋中を華やかに彩っている。

 ダリアは一人、鏡の前で黙々と化粧をしていた。

 ベルベッド調の紺色のドレスを身に纏い、ブロンドの髪を華やかに結い上げたその姿は、誰が見ても溜息を漏らすほど美しい。

 ダリアは慣れない手つきで真っ赤な口紅を唇に押し付けていた。

 まるで別人だ。

 ダリアは鏡に映る自分の姿にそう思った。


 そんなことを思っていると、背後にいたロイと鏡越しに目が合った。彼は部屋の隅で静かにこちらを見ていた。

 最近、ロイの様子がおかしい。近頃の彼は、心ここにあらずと言った様子で何かを考え込んでいることが多くなった。

 ダリアはなんとなく、自分が関係していることではないかと考えていた。自分が関係すること――すなわちロイに魂を捧げる時期が近づいてきたのではないかと思っていた。


「……ロイ、どうしたの?」


 いっこうに言葉を発しないロイに、ダリアはしびれを切らせて声をかけた。


『……別に。お前の化粧の下手さ加減に驚いてただけだ』


 ロイはそう言って視線を逸らした。ダリアはその態度が、何かを誤魔化しているように見えた。


「何よそれ。失礼ね!」


 ダリアは顔を顰めた。

 そんな回答では納得できなかった。ロイに魂を捧げることに迷いはない。それなのに、ロイは未だに憎まれ口を言って誤魔化す。そんなロイの態度にずっともやもやしていた。


「ねえ、ずっとロイに聞きたかったことがあるんだけど」


 ダリアは振り返ってそう口にして、ロイと向き合った。


『なんだ?』


「ずっと気になってたのよ。死神は一体どうやって人の魂を奪うのかなって」


 ダリアがそう言うと、ロイの瞳が微かに揺れた。


『そんなこと、知ってどうする』


 ロイは低い声でそう言った。その目はこれ以上踏み込むな、と訴えているように見えた。

 しかしまた何かを誤魔化されてしまう気がしたダリアは、頬を膨らませて更に迫った。


「だって、ロイがいつまで経っても教えてくれないから。いい加減教えてくれてもいいでしょう? じゃないと私、気になって舞台どころじゃないわ」


 ロイは不機嫌そうに眉を顰めながら溜息を吐いた。しかしダリアはここで引き下がるつもりはない。


「ほら、ロイ! 教えてちょうだい!」


 ダリアはそう声を張ってニコリと笑った。

 ロイは目の前にいる華やかな装いのダリアをまじまじと見つめた。

 あの小汚かった少女が、今はこんなにも眩しい。


 ロイは無言でダリアの肩に触れ、顔を近付けた。端正な顔が徐々に迫り、ダリアは驚いて瞳を閉じた。


 キスされてしまう。

 ロイの吐息が自身の鼻先にかかり、もうあと少し、角度を変えれば……きっと触れてしまう。ダリアはそう思った。

 心臓は破裂してしまいそうなほどの速さで拍動していた。


 だがロイの唇は降りてこなかった。


「……?」


 ダリアは恐る恐る瞳を開けた。するとあんなに近かったロイの顔はもう離れていた。そして無表情で淡々と言葉を発した。


『死神との接吻で、人は魂を奪われる。痛みもなければ苦しむこともない』


「えっ、じゃあなぜ今……」


 なぜ今、魂を奪わなかったの? ダリアはそう言おうとした。さっきキスをしていれば、全てが終わっていたのに。

 だがダリアがそう言おうとした瞬間、楽屋の扉が開きハロルドが現れた。


「ダリア! もうすぐ幕が上がるよ」


「ハロルド様……」


「緊張しているの?」


 ダリアの様子がいつもと違うと感じたハロルドは、咄嗟にそう声をかけた。

 だが彼女の様子がおかしいのは先程のロイの行動のせいである。


「大丈夫です。……頑張ります」


「ああ、君なら大丈夫だよ。自信を持って」


 ハロルドはそう言って微笑んだ。そしてダリアの顔をじっと見つめ、何か言いたげに言葉を詰まらせた。


「どうかしました?」


 ダリアがそう訊くと、ハロルドは少し照れた様子で口を開いた。


「えっと、その……とても綺麗だよ」


「えっ、ありがとうございます」


 ダリアも照れながらそう返した。

 しかし彼女はそれよりも、ロイの視線の方が気になった。ロイは二人のやりとりをすぐ側で傍観している。今までだってずっとそうだったはずなのに、今はとても居心地が悪い。


「ダリア、この公演が終わったら君に大事な話があるんだ」


「話ですか?」


「ああ、このあと二人きりで話がしたいんだ。いいかな?」


 ハロルドはそう言ってダリアの手を強く握った。その勢いに少し圧倒されてしまったが、ダリアに断る理由などない。

 微笑みながら頷くと、ハロルドは嬉しそうに彼女を引き寄せ、そのまま頬にキスをした。


「成功を祈ってる」


 ハロルドはそう言い残し、部屋を出て行ってしまった。


 いきなり頬に当てられた柔らかい感覚に、ダリアは反射的に赤面した。

 しかしこれは、劇団のオーナーである彼が主演の自分に激励を送っただけの話だ。ああやって緊張を解そうとしてくれたに違いない。彼は貴族なのだから、それぐらいの気遣いはきっと朝飯前なのだろう。

 ダリアはそう納得して息を整えた。


 そしてロイとの話の途中だったことを思い出したが、もう幕が上がる時間になっていた。

 ロイは無表情のまま何も言葉を発しない。そんな彼を横目に、ダリアは一度深呼吸して部屋を出た。そしてそのまま舞台へと向かったのだった。




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