第8話 カフェ
初めて嗅ぐコーヒーの香りに、ダリアの胸は高鳴っていた。ハロルドに連れられて入った店は、敷居の高そうなカフェだった。
ダリアは彼の所作を真似するようにコーヒーの入ったカップを手に持ち、ゆっくりと口をつけた。すると今まで味わったことのない苦味が広がった。
苦い。どうしてこんな飲み物にお金を払うの?
ダリアはそう思ってハロルドを見つめた。目が合って少しの沈黙が流れた。すると彼は照れくさそうにはにかんで、口を開いた。
「そういえば、ダリアはどこで生まれ育ったの?」
「えっと、裏路……」
『教会の孤児院だ』
ダリアが答えようとすると、ロイが横から口を挟んでくる。もちろん声はダリアにしか聴こえていない。
『裏路地のドブで育ったなんて口が裂けても言うなよ』
ロイの言葉にダリアは目をぱちくりさせて「どうして?」という顔をすると、ロイは大きく溜息を吐いた。
『お前の生い立ちは、貴族の坊ちゃんには刺激が強いんだよ。だから今は無難なことを言っておけ』
その助言に、ダリアはこくりと頷いた。
「教会の孤児院です」
「……そうか、君は若いのに色々と苦労をしてきたのだね」
「まあ、それなりに……そうですね」
ダリアはこれ以上詳しく訊かれないように曖昧な返事をした。
そんなことをしているうちに、カフェの給仕が注文したチョコレートケーキを運んできた。
それはダリアにとって生まれて初めての目にするものだ。ケーキが目の前に置かれると、既にもう甘い香りがしていた。得体の知れない装飾を乗せた塊――これがケーキなのだとダリアは感動を隠せなかった。
「……いただきます」
ダリアは小さなフォークを恐る恐る手に持ち、生地の先端を削るように掬った。すると中の層になったクリームが顔を出し、チョコレートの濃厚な香りが溢れ出た。しばらくその香りを堪能していると、ハロルドが小さく吹き出した。
「ふふ、ごめん。君があまりにいい反応をするから。ケーキは初めて?」
「あ、はい。お恥ずかしながら」
ダリアはいつまでもケーキを鑑賞していたことが恥ずかしくなり、フォークに乗せた欠片を勢いよく口に運んだ。
「……!!」
美味しい……!! 苦味と甘さが絶妙なバランス。クリームも冷たくて魅惑の食感だ。
ダリアはケーキのあまりの美味しさに目を輝かせて頬張った。
『あんまりがっつくと品がないぞ』
「あっ、そっか……」
ケーキのおかげで自分の世界に入り込んでしまっていたが、ロイの言葉で我に返った。ハロルドに品のない姿を見せるわけにはいかない。ダリアは背筋を伸ばして座り直し、ナプキンで口元を押さえた。
「ふふ、美味しいです」
「よかった。なんだかこっちまで幸せになるよ」
ハロルドはそう言ってニコリと笑った。
「広場で歌っていた君を見つけた時、僕は感動したんだよ。君は只者じゃないって思ったんだ」
「そんな、買い被りすぎです。……今日だってあまり上手く歌えませんでしたし」
「上手く歌えなかっただって? あの場にいた者を顔を思い出してごらんよ。皆、君に夢中になってた。この僕もね」
そんな風に言われると、思わず頬が緩んでしまう。ダリアはまだ褒められるのには慣れていないのだ。
ハロルドはそんな彼女を微笑ましそう見つめ、言葉を続けた。
「君を見てると、僕の初恋の人を思い出すよ」
ハロルドは何かを懐かしむような表情をしている。
初恋と言われても、恋をしたことがないダリアはまだピンとこない。だが、だからこそ興味が湧いた。
「その人は一体どんな方だったのですか?」
「ふふ、気になる? そうだね……あれは僕がまだ幼い頃だった。あの人はいつも劇場の真ん中で歌っていたよ」
ハロルドはそう言って目を伏せ、コーヒーを一口含んだ。
「ということは、その人はプリマドンナだったのですね?」
「そうだよ。すごく美しい声で歌う人だった。だけど……」
「だけど?」
しだいにハロルドの表情が曇り、ダリアは不審に思った。
「だけどある日、姿を消してしまったんだ。まだ小さかった彼女の娘を連れてね」
「え……」
ダリアは言葉を失った。
こういう時はどんな言葉をかければいいのだろう。下手なことを言ってしまって傷つけてしまわないだろうか。そんな心配が頭をよぎった。
「ああ、ごめん。暗い話になっちゃったね。だけど大丈夫、きっとどこかで幸せに暮らしているさ」
「……そうですね。きっとそうですよ」
「いつかまた会ってみたいな。あの人の小さかった娘さんも、今は君ぐらいの歳になっているはずだし」
ハロルドはそう言って柔らかく微笑んだ。つられてダリアも微笑み返した。
彼の願いが叶いますように。ダリアは心の中でそう願った。
ロイはそんなダリアの様子を、表情を変えずにただ黙って見つめていた。
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