第7話 音色





 紙の上にずらり並んだ平行線と記号の数々に、ダリアは混乱していた。


 ハロルドの経営する劇団に入団して、早くも一ヶ月が経過した。

 初めて足を踏み入れた王立劇場は、まるで宮殿のように煌びやかだった。そしてそこに隣接する劇団員専用の寮にダリアは身を置くことになった。

 それからダリアは毎日劇団のレッスンを受けている。


 

「えっと、これがドだからこっちは……ファの音ね。ええっとぉ……」


 ダリアはブツブツと呟きながら、音楽教師から渡された楽譜に顔を近づけ、音階を読み取ろうとしていた。ロイは浮遊しながらその楽譜を覗き込んだ。


『いや、それはラだろ』


「あれれ……?」


 この通り、音楽の知識に乏しいダリアがたった数週間で劇的な進歩を遂げるはずがなかった。


「ミス・ダリア! いつになったら上達するのですか!」


「ひっひぃぃっ……」


 ピアノの椅子に腰掛けていた年配の女性――ミセス・ロザリーは声を荒げてダリアを睨んだ。ロザリーは劇団の歌唱指導を担当している。つまりダリアの師匠である。


「ほかの団員は皆、楽譜を見ればその場ですぐに歌えますよ? 貴女はそんなこともできないのですか?」


「はい……申し訳ありません」


 ダリアはそう答えるしかなく、俯いた。周囲にいた他の団員たちはクスクスとわざとらしく彼女を嘲笑った。


「どうしてあんな素人が入団できたのかしら?」

「ハロルド様の推薦らしいわよ」

「まさか。お忙しい方だから、きっと何か手違いを起こされたのだわ」

「あんな下手くそな素人に騙されるなんて……」

「お可哀想なハロルド様」


 団員たちは悪意を込めて、わざとダリアに聞こえるように話していた。


『おい、言いたい放題言われてるぞ』


「仕方ないよ……この中じゃ私、本当に下手くそだもん」


 ダリアは溜息を吐いた。現実を思い知らされて、暗い気持ちになってしまっていた。

 そんな様子のダリアを見かねて、ロイは口を開いた。


『お前は下手じゃない。ここの教え方が合わないだけだ』


 きっぱりとそう言った。

 それは決して慰めではない。少し前まで文字すら読めなかったダリアに新曲視唱ソルフェージュを求める方がどうかしている。今のダリアは新しいことを学ぶのに精一杯で、本来の良さが引き出せていない。彼女の歌の良さは声にある。並大抵ではない表現力と人を引き込む力を秘めた声。それは座学で身につけられる代物ではない。生まれ持っての才能だ。

 ロイはそう思っていた。

 しかしロイのその思いを、ダリアはただの慰めだと受け止めた。


「やっぱりロイって優しいのね……」


『……っ、うるさいっ! お前もこれぐらいの事で弱気になるな!』


 ロイはダリアに「優しい」と言われると、無性に腹が立ってしまうのだ。

 ダリアにそう言われると、自分がまるで善人であるかのように思えてくる。

 そんなことは死神にとって屈辱であり、許し難いこと。それなのに心のどこかで満更でもない自分がいる。おかしい。彼はこのモヤモヤした気持ちをどう対処していいか分からなかった。

 




 そんなロイの気持ちは他所に、ダリアは不甲斐ない自分に落ち込んでいた。

 すると今度は突然、練習室の扉が大きく開いた。


「ミセス・ロザリー、あの子の調子はどうかな」


 扉の先にいたのはハロルドだった。

 突然の訪問にダリアはもちろん驚いたが、それ以上にロザリーが目を丸くしていた。そして他の団員達もざわつき始めた。


「ハロルド様?! どうしてこちらに?」


 慌てるロザリーを気に留めることなく、ハロルドは部屋中を見渡してダリアを探した。ダリアは咄嗟に隠れたくなったが、間に合わずすぐに見つかり目が合ってしまった。


「お久しぶりです……」


 多忙のハロルドと顔を合わせるのは二週間ぶりだ。キラキラとした彼の瞳に自分が映ると、なんだか申し訳ない気がして不意に視線を逸らしたくなった。


「ハロルド様、お言葉ですがこの子は歌手には向いていません。楽譜もろくに読めないし、覚えも悪い劣等生です」


 ロザリーは眼鏡を押し上げて、強い口調でそう言い放った。

 自分に期待を込めてくれたハロルドに、こんな形で“劣等生”だと知られてしまった。ダリアは恥ずかしさで顔が真っ赤に染まった。


 他の団員達は嬉しそうに口角を上げ、ダリアのその姿を鼻で笑っていた。


「ダリア、こっちにおいで」


 ハロルドはその様子に動じる事なく、いつもの穏やかな様子でダリアに手を差し伸べた。彼はピアノの前までダリアを連れて行き、優しく頭を撫でた。


「あの時のように歌ってごらん。広場で歌っていた時のように。難しいことは考えず、ピアノの音と戯れるんだ」


 そう言うと彼はピアノの椅子に腰掛け、鍵盤を弾いた。

 ハロルドが奏でるピアノの音色が部屋中に響き渡った。周囲は騒然とした。


「この曲……知ってる」


 ハロルドが演奏しているのは、ダリアが歌売りをしていたときによく歌っていた曲だ。ピアノの伴奏とともにその曲を歌ったことはなかったが、彼の言った通り、難しく考えずにただピアノの音を聴いていると自然と声が出た。考えるよりも先に、ダリアは歌ってしまっていた。


 ダリアの春風のような澄んだ歌声は、先程までの嘲笑を掻き消した。誰もがその声に聞き惚れてしまった。

 唖然として口が塞がらない者や、自然と目を瞑り聞き入ってしまう者もいた。


 歌い終えるとその場が静まり返った。それは、ダリア秘められた力に圧倒されたと言っても過言ではない。この場にいた誰もが、彼女がこんなに歌えるとは思っていなかったのだ。


「誰が劣等生だって?」


 ハロルドは満面の笑顔でロザリーを見た。

 しかしロザリーは眉間に皺を寄せて険しい表情で声を上げた。


「フン! アクセントもめちゃくちゃですし、楽譜通りのクレッシェンドもできてません!」


 そう冷たく言い放たれ、ダリアはショックを受けた。

 難しいことを忘れて気持ちよく歌っていたが、聞く人が聞けば拙い歌だったのか。またしてもハロルドの期待に応えられなかったことが悔しく思えた。

 だがロザリーの言葉には続きがあった。


「でも……不思議です。この私がなぜか聴き入ってしまったのですから。技術的な事がどうでもよく思えるぐらい良い声をしていました」


「そうだろう? これが彼女の凄いところだ」


 ハロルドは得意げにそう言った。ダリアは今自分が褒められているのか叱られているのかよく分からなくなり、二人の顔を交互に見上げた。

 そしてロザリーは悔しそうにダリアを睨みつけた。


「明日からは貴女に合った練習方法を考えます。いいですね? 劣等生かどうかはその後に私が見極めますから、覚悟しておいてください」


 ロザリーはそう宣言すると早足で練習室から出て行ってしまった。



『よかったな』


 壁にもたれかかり腕を組んでこちらを見ていたロイが、そう言ってニヤリと笑った。

 

「よかった……んだよね?」


 ロイの言葉で彼女はやっと状況が読み込めて安堵した。


「ダリア、今日も素晴らしかったよ」


 背後からハロルドに声をかけられ、ダリアは驚いて勢いよく振り返った。


「ハロルド様! ありがとうございました。こんなに気持ちよく歌えたのは、ハロルド様のピアノが心地よかったからです」


「ううん、全て君自身の力だよ。……そうだ、この後ちょっと時間ある?」


 ハロルドはそう言って少し照れくさそうに笑った。ダリアも吊られて微笑んだ。


「はい。時間ならいくらでも」


「良かった。じゃあ甘い物でもご馳走するよ。少し息抜きをしよう」


 突然の誘いにダリアは困惑した。そしていつもの癖でロイを見上げた。だが目が合ったのにロイは何も言葉を発しなかった。


「遠慮しないで。僕がしたい事なんだ。ほら、行こう?」


「……は、はい!」


 ダリアがハロルドの後をついて行こうとした時、頭上で浮遊していたロイが反対方向に進み出した。


「ちょっとロイ……! どこ行くのよ?」

 

 ダリアはハロルドに気付かれないように小声でそう言った。するとロイは不機嫌そうな顔をした。


「何よ? どうして一緒に行かないの?」


『お前なぁ……こっちは気を使ってやってるんだよ』


「え、どういうこと?」


『はぁ……あのな、お前はデートに誘われたんだ。しかも相手は運良くも貴族の男だ。それなのに俺が横にいたらポンコツのお前は気が散って、縮む距離も遠のくだろ!』


 ロイは苛々した口調でそう言い捨てた。

 ここまで説明しないと分からないのかよ? ロイは苛々しながら、そのまま反対方向へ飛んでいった。



「ダリア、どうしたの?」


 ロイの姿が見えないハロルドからすれば、ダリアが独り言を言っているように見えていた。


「……デート……デート? これってデートなのですか?」


「え……? はは、そうだね。もしかして、嫌だった?」


 ダリアの言葉に驚いたハロルドは一瞬怯んで言葉を返した。


「いえ、嫌ではありません! でもちょっとだけ待っててください!」


 ダリアはそう言うと走り出した。反対方向の二十メートルほど先にロイがいた。ダリアは走ってそこに追いついた。


「ロイ! 待って! お願い!」


『お前……なんでこっちに来るんだよ』


「お願い……一緒に来てよ! デートなんて自信ないし、変なこと言ってボロが出ちゃうかもしれないから!」


『はあ?!』


「お願いお願い! デートなんてやったことないもの!」


『分かった……分かったから声を抑えろ! 今のお前、完全に頭のおかしな女だぞ』


 ハロルドはダリアの奇行にぽかんと口を開け、心配そうに彼女を見ていた。しかしダリアはそんなことを気にしていない。ロイはハロルドに少し同情した。


「うう、だって……だって……」


『ほら行くぞ、貴族の坊ちゃんを待たせるな』


 ロイはそう言って項垂れるダリアを諭した。

 こうして結局ロイも二人に同行することになった。

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