第5話 運命
ダリアが歌売りを始めて二ヶ月ほどが経とうとしていた。ロイはそろそろ次の段階へ進むことを考え始めた。
歌売りのおかげで食べるものに困らなくなり、ダリアの体型は健康的に回復していった。また丁寧な言葉遣いにも慣れ始め、立ち振る舞いも余裕が出てきているように見えた。流石にまだ文字を正しく書くことはできなかったが、かろうじて新聞の見出しを読めるレベルには到達していた。
その日は噴水のある広場で歌っていた。ダリアは日に日に曲のレパートリーが増え、彼女の歌を子供から老人までが楽しみにして集まってきていた。
ダリアはいつものように歌い終えた時、周囲の人々がざわついていることに気付いた。
「何……?」
ダリアは不安になってロイを見た。ロイは『さあな』と首を傾げ、ゆっくりと浮遊して空中から何の騒ぎか探った。
人々の声の先には、一人の青年がいた。彼は俗に言う甘い顔立ちに、艶やかで深いブラウンの髪を靡かせた上流階級の青年だった。
近隣には立派な馬車が停められており、おそらく彼の所有するものだと思われた。青年は迷いのない足取りでダリアの元に向かっていた。
「あの方はケアンズ家のハロルド様よ」
「ケアンズ家って……あの伯爵家の? どうしてこんな所にいらっしゃるのかしら?」
「さあ……あの子に用があるのじゃない? だってハロルド様は……」
人々は青年の行く手を阻まないように道を空けた。
ダリアはきょろきょろと周囲を見渡していた。そして奥の方から一人の青年がこちらに近付いてきているとことに気付いた。
その姿は遠目からでも貴族だと分かった。年は若いけれど、自分よりは年上のようだ。一体何の用だろう。
周囲がざわつきが、より一層ダリアの不安を駆り立てた。
『ハロルド・ケアンズ。伯爵家の坊ちゃんらしいぞ』
「は、伯爵家?! そんな人が私に何の用があるっていうの?」
『知らん。とにかく話してみるんだな』
ロイの投げやりな言葉にダリアは困り果てたが、そうこうしているうちに青年が目の前に迫ってきていた。
どうしよう。こんな所で歌を売っていたから文句を言いにきたのかもしれない。ダリアはそう考え、何を言われても動じないように奥歯を噛み締めた。
しかしそんなダリアの覚悟とは裏腹に、青年は穏やかな雰囲気を纏っていた。彼はダリアと目が合うとニコリと微笑んだ。
「さっきの歌は君が?」
青年――ハロルドは優しい声色でダリアにそう訊いた。彼はロイとはまた毛色の違った美しい青年だった。そんな人に急に微笑まれ、ダリアは耳元が熱くなっていくのを感じた。
「……はい、最近はこの近くで歌を売っています」
ダリアはロイに教えられた通り、貴族の娘のような話し方を心がけた。
「君の歌、気に入ったよ」
「ありがとうございます」
こんな雲の上の存在のような人が、自分の歌を気に入ってくれたなんて。ダリアは興奮を悟られないように静かに息を整えた。
「僕はハロルド・ケアンズ。まだ爵位は継いでいないのだけど、伯爵家が所有する劇団の経営を任されているんだ。君の名前は?」
「ダリアと申します。えっと……劇団って……」
「オペラだよ。先日、人気のあった
ハロルドの話にダリアはぽかんと口を開けた。
そしてハロルドに気付かれないように、頭上で浮遊していたロイを見上げ「プリマドンナって何?」という視線を送った。もちろんロイの姿はダリア以外には見えていない。
『お前……そんなことも知らないのか? “プリマドンナ”って言ったら芝居やオペラで主役をする女優のことだよ』
「ああ、そういうこと!」
「え?」
ダリアの反応にハロルドは目を丸くしていた。ロイの声が聞こえているのはダリアだけなので、こういうことはよく起こる。彼女は慌てて言葉を続けた。
「い、いえ! なんでもありません! そのプ……リン? マドンナさんが引退されて大変なのですね」
『
ロイは小声でツッコミを入れたが、ダリアは反応しなかった。
「ああ、誰でもできるものではないからね。天性の才能と華がなければプリマは務まらない。僕は今、彼女の後を継げる人才を探しているんだ」
ハロルドの熱の篭った口ぶりに、ダリアは圧倒された。
よく分からないけれど、きっとすごいことをしている人なんだ。ダリアはそう思ってハロルドを真剣に見つめた。
だがなぜそんな話を自分にするのか、ダリアは不思議だった。
「ミス・ダリア、君は素晴らしい。君こそ僕が探し求めていた人だよ」
「えっ……ええ?」
ハロルドはダリアの手のひらを両手で包み込んでぎゅっと握った。
なにが起こっているの?
ダリアは状況が読み込めなかった。
「失礼。つい熱くなってしまった。だから……その、君さえ良ければうちの劇団に入って欲しいと思ってね。僕は才能ある人を育てたいんだ」
「げ、劇団に? アタシがっ?!」
ハロルドまさかの発言に、ダリアはつい素がででしまった。
「そうだよ。だけど今のままでは舞台には立てない。しばらくレッスンが必要だ」
「はあ……」
「金銭面では僕が支援するから安心して。君はただレッスンを受けるだけでいい。それにプリマになれば安定した収入も見込めるし、君にとっても悪い話ではないと思うけど」
饒舌に語るハロルドは自信に満ち溢れていた。
確かに悪い話ではないように感じだが、オペラなどダリアにとって未知の世界。そうすぐに返事ができる状態ではなかった。
『何を迷っている? 相手は貴族だぞ。貴族がお前のパトロンになるって言ってるんだ。こんないい話はないぞ』
「で、でも……無茶だよ。芝居なんてやったことも見たこともないのに」
ダリアは小声でロイに反論した。
一方ハロルドは手帳に何かを書き出していた。
「ミス・ダリア、これを君に」
ハロルドは手帳の一ページを丁寧に切り離し、ダリアに渡した。そこには綺麗な字で住所が書かれていた。
「グレーズ街通り八七八番地……第一王立劇場?」
ダリアは書かれた文字をゆっくりと読み上げた。
「生憎この後仕事があるんだ。悪いけど詳しい契約の話は明日でもいい?」
「契約って、まだ私何も……」
「とにかく、明日そこの住所にきて欲しい。裏口で僕の名前を言えば、中に通してもらえるから」
「えっと、あの」
まだ劇団に入る覚悟も何もできていないのに。
話がどんどん進んでいき、ダリアは焦った。その様子を見ていたロイは咄嗟に顔を顰めた。
『まさか断るのか? こんないい話を断るなんて馬鹿にもほどがあるぞ。上手くいけば高級喫茶より良い条件になる』
「うう……」
ロイにとって、ダリアを幸福にすること……つまり貴族に嫁がせることが第一目標である。この国では芸術を大切にする貴族が多い。もしダリアがプリマドンナになれば、貴族の正妻になれる可能は高まると考えた。
「迷っているんだね。僕も無理強いをさせたいわけじゃない。だけど、君が来てくれたらきっと劇団は盛り上がるだろうし……すごく助かるよ」
ハロルドは眉を下げてそう言った。まるで懇願されているような気分だった。
助かる……? 私の歌でハロルドさんは助かるの?
そこまで言われると断れるはずがなかった。
劇団に入ってプリマになれば、ロイに“幸せな魂”だって認めてもらえるかな。今のままじゃロイに恩返しできないもんね……。
ダリアはそう思い、覚悟を決めた。
「分かりました。明日伺います」
「ありがとう。絶対に君をプリマにしてみせるよ」
ハロルドはそう言って去っていった。その場には、微かに彼の香水の香りが残っていた。
『でかしたぞ。やっぱり俺の読みに狂いはなかったな』
ロイは上機嫌だった。一方ダリアは覚悟を決めたが、あまり実感が湧かない状態だった。
「あーあ、大丈夫かなぁ」
『あの坊ちゃんが支援するって言ってるんだ。捨てられない限り大丈夫だろう』
「す、捨てられる? ……ああ、なんかとんでもないことに首を突っ込んじゃった気がするよ……」
『ハッ、そんなことは今更だろ』
ロイは茶化すように声を上げた。
確かに、死神と共に行動している時点でこれ以上の“とんでもない事態”はそうそう無い。ダリアは改めてそう思った。
『ところでお前、楽譜は読めるのか?』
「がくふ?」
初めて聞く単語に、ダリアはオウムのように言葉を返した。
『あー…………聞いた俺が悪かったから、その阿呆みたいな顔をやめろ』
ロイは小さく溜息をついた。
はっきり言って、このレベルではプリマドンナ以前の問題だ。だが自分が指導するわけでもないし、劇団の管理者がどうにかする気でいるならそれでいい。きっとどうにかしてくれるだろう。ロイは半ば投げやりに、よく言えば楽観的にそう思った。
今のロイは機嫌が良かった。
ダリアの歌声が評判を呼び、こんなに早く栄転するなんて。ロイは何故か自分のことのように嬉しく感じていた。いずれ自分が彼女の魂を奪わなければならないということを忘れ、ただ純粋に喜んでしまった。
『俺は……疲れてるのか』
「ん? 何? どうしたの?」
『なんでもない!』
ロイは一瞬でも本来の目的を忘れた事にむしゃくしゃし、「疲れていて感覚が麻痺してるだけだ」と自分に強く言い聞かせた。
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