第5話 入院生活③:謎の器具と退院

 入院3日目、リハビリ担当の先生が、これ、使えたらと思って、と、見たことがない謎の器具を持って病室へ来た。


 私の腰より少し高いくらいの位置に肘置きみたいなものがついている、車輪のついた大きい器具。見た目は赤ちゃんがつかう歩行器の、背の高い版、というのが一番近いと思う。


 その名もそのまんま、歩行器。足に力を入れると腰に激痛が走るので、肘置き部分に両手を置いて、体重をかければ多少歩きやすくなるのでは、とのことだった。


 これがほんっとうに神様のような器具で、それまで病室のベットとトイレくらいしか移動できなかった私を、談話室(患者の家族や入院患者が日中使う、自販機等がある部屋)や売店へ連れて行ってくれた。


 この器具のおかげで、2日ぶりに自分で上司へ状況報告の電話ができたし、病室の天井とリハビリ室以外の景色を久しぶりに見ることができた。


 このとき談話室から見た夕方の町の景色を、私はたぶん一生忘れない。たった1日と少しだが、それくらい、その当時は涙がでるくらい嬉しかった。


 ただ景色を見ることが、何故こんなに嬉しかったのか。もちろん、もしかしたらもう歩けなくなるのでは、と思っていたので、少し歩けるようになって嬉しい気もちもあるが、一番の理由は、ただベットに寝転がっているのがめちゃくちゃに退屈だったからだと思う。


 腰の激痛のせいで夜眠れず、痛み止めをもらえば体に合っていなかったのか吐き気をもよおし、夜はほとんど眠れていなかったので、朝食を終えると、午前中は気が付いたら数時間眠っており、リハビリも大した運動ではないので疲れず、眠気がこない。すると、腰痛が多少和らいだ日でも夜はまた眠れない。という悪循環を繰り返していた。


 もうとにかく暇で暇でしょうがなかったので、歩いて違う場所へ行けることが嬉しかったのだ。


 しかし、移動もそんなに頻繁にできるわけではないので、やはり一日の大半はベットの上で過ごすことになる。


 何かすることないかな、と考えていたが、入院前の生活は、仕事が終わったら帰ってご飯、家事、寝る。休みの日は死んだように寝る。とうような生活であったし、この頃は末期の限界社畜の思考回路だったので、みんなは私の代わりに働いているのに…というネガティブな考えが消えなかった。


 2日目まではこの社畜ネガティブ思考に悩まされて、ただただ天井と、頭上の割れた蛍光灯カバーを見つめていたが、3日目、歩行器で多少歩けるようになったからか、急に頭がすっきりして、もういいや。せっかく休みなんだし好きなことしよ。と吹っ切れた。


 そこで、私が入院中一番お世話になったのが、家族の差し入れの中にあったゲーム機に入っていた『あつまれどうぶつの森』だ。


 そこそこプレイしたあと、仕事が忙しくなりプレイする気力をなくしていたあつ森は、入院生活になくてはならないものになった。


 魚を釣り上げては売り、道を舗装して温泉街を作ったり、島の真ん中にいい感じのカフェを作ったりしていると、みるみる島は発展して、気づけば家のローンも完済していた。


 小学生の頃、ゲームキューブ版『どうぶつの森+』で、ローンが返し終わらず途中で諦めてスマブラに浮気した自分に見せてあげたい。


 あつ森で果樹園を作っていた頃、腰の調子は入院時よりだいぶ良くなり、ふらつくし力は入らないが、なんとか一人で歩けるようにはなっていたので、そろそろ退院しても良いだろうか、と看護師さんに相談したところ、主治医からの許可もおり、入院から一週間後、家族の迎えを待って退院することになった。


 その日のリハビリの時間、担当の先生に報告すると、ほんとにこんな短期間で退院するとは…と驚かれた。先生が担当した同症状の歴代患者の平均は一か月くらいだったらしい。


 おそらく、この時の腰の状態から考えて、重いものを抱えたりすると再発しそうであったし、今同じ選択をできるのなら、当時の勤め先に復帰はしなかっただろう。


 しかし、その時の私には、休んで迷惑をかけた分、早く復帰して仕事をしなくては!という選択肢しかなかったので、たぶん、上司と相談して仕事復帰しますと伝えると、先生は苦い顔をしていた。


 最後のリハビリの日、病室まで付き添ってくれたリハビリ担当の先生の、


「もう、戻ってきちゃだめですよ」


 という優しい笑顔が嬉しかったのを覚えている。

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