なにも、起きなかった
天蓋の外から来たゴブリンは、乱暴な言い方をすれば意志を持ったエネルギーだ。
電気や熱などの形無き存在が意思を持った存在。生物に取りつくことで物質に干渉できる。その状態だと先ほどのように戦闘もできるし、脳情報を会得してコミュニケーションもとれる。
逆に言えば、生物に憑依していない状態だとただ漂うだけの存在だ。塵一つ動かすこともできず、眺めているだけである。物語を読者目線で見ているようなものだ。好きなタイミングで物語に入って干渉できるが、そうしなければただ見ているだけである。
コジローは幽霊のようなものと称したが、概ねその解釈で問題ない。幽霊が人間が持つ生体エネルギーが剥離したものだと考えれば、古くから言われている幽霊の現象も怪談話ではないのかもしれない。閑話休題。
彼らは天蓋内に侵入し、取りつく相手を探した。選出条件はもっとも情報を得られる立場だ。最優先候補は企業トップの人間だが、彼女達は自分達と同じエネルギーである『ドラゴン』を保有している。その気になれば、ドラゴンのエネルギーを使ってこちらに干渉できるのだ。危険は冒せない。
天蓋の支配体制などから判断し、ゴブリン達は若旦那とオロチに取りついた。そして様々な情報を得て、『アベル』に収められた人間の事を知る。そして都合よくビカムズシックスが開催される流れを知った。
護衛という形で『アベル』内に侵入し、『人間』のいる場所を探る。タワー内の上層部にその気配を感じたが、そこに行くための手段が見つからない。そうこうしているうちにコジローに勘繰られ――強硬策に出たのだ。
少し話が逸れるが、憑りつかれた若旦那とオロチは死んだわけではない。ゴブリン達のパーソナリティなどは取りついた人間に左右される。その肉体と同時にその精神とも同化するのだ。そういう意味では憑依ではなく人格融合というべきか。その上で、支配圏がゴブリン側にある。
肉体と精神を支配されながら、若旦那はゴブリン達の行動を――嘲っていた。
(愚かだね。本気で『アベル』に収められた人間様を襲撃したいなら、社会的にコネを回してこのタワーの権利を買えばいいのに)
暴力で突き進むゴブリン達の思考に、視野の狭さを感じる。もう少し時間をかけて慎重に行動すれば、本当に『人間』は終わっていただろう。
「自爆特攻。人間がいるだろう方向に、全エネルギーを放出するんだ」
最後の手段もその証左だ。ここで逃げてしまえば、コジローを始めとしたクローンにはゴブリンに手出しはできない。人間やクローン相手に『逃げる』ということができないのだ。見下しているからか、或いは初めからそんな思考がないのか。
ここで本気で逃亡されれば、手も足も出なかっただろう。エネルギーとなったゴブリンを攻撃できる存在はいない。若旦那もゴブリンも知らない事だが、企業創始者が持つ『ドラゴン』は契約上ゴブリンを攻撃できないのだ。
ゴブリンは自らを矢のように引き絞り、人間がいる気配にそのベクトルを向ける。人間がどれだけ強固な防衛策を展開しているかはわからないが、無傷では済まないだろう。
数秒後に解き放たれる破滅の矢。クローンにも企業創始者にも留めることができないゴブリンという名のエネルギー。天蓋の終わりを告げるお終いの光。
「そんな事、させないから」
その光に向かって、そう告げる者がいた。
クローンでもない、『ドラゴン』と契約した人間でもない。
「トモエ!」
そこには壁に手を付けて息を切らせているトモエがいた。『人間』達が納められているスペースからここまで走ってきたのだ。体育会系ではないトモエに、中距離ダッシュは少し堪えた。
「そこにいるのね」
どうにか息を整えながら、放たれようとしているゴブリンを見る。三次元では感知できないエネルギー体。トモエはそれがそこにいることを知っていた。正確に言えば、見えている存在から教えてもらった。
『肯定だ。高次元存在のエネルギー体がある』
バーゲスト。トモエが契約した上位存在のエネルギー体。ゴブリンや『ドラゴン』と同じ存在に教えてもらったのだ。
「ソイツだけ消すことってできる?」
トモエはバーゲストに問いかける。
『造作もない』
そして同じエネルギー存在なら、干渉できる。純粋なエネルギー量で言えばバーゲストの方が密度が高い。ゴブリン程度、机のホコリを拭き取るレベルで処理できる。もっとも――
『望むならこの建物ごと消せる。この時空体を消すことが、我が力だ』
バーゲストの力はこの時空――トモエが召喚された2020年代から今までの時空体――全てを消す力だ。過去にさかのぼって天蓋そのものを消すこともできる。時空体消滅の大小は指定できるが、消滅以外のことはできない。そんなエネルギー。
「駄目だから。消すのはあくまであのゴブリンとか言う奴だけ」
『了解した。汝が意識すれば、事は終わる』
幸か不幸か、バーゲストは契約者であるトモエの命令がなければ消滅させることはない。それは幸運であり、同時に不幸でもあった。トモエが『そうしたい』と思うだけで天蓋そのものが消えうせるのだ。迂闊に呪いの言葉も吐けやしないのである。
(ゴブリンだけを、消す……。周りを巻き込まず、ゴブリンだけを)
そこにいるだろうゴブリンを意識するトモエ。スマホで画像編集を行うようにその場所に脳内で丸を描き、ポンとボタンを押す。
なにも、起きなかった。
悲鳴も断末魔も死体もない。ゴブリンが行おうとしていた破壊もない。手ごたえも倒した感覚も何もない。本当に何も起きなかった。
『対象のエネルギー残量0%。消滅を確認した』
ただ、脳内にバーゲストの言葉だけが響いた。
「……っ、う、あ……う……はぁ、はぁ……ああ!」
自分が一つの生命(?)を奪ったことを示す言葉。その意味を理解して、トモエは膝から崩れ落ちて尻もちをついた。嗚咽を堪えるように口元を押さえ、荒い呼吸を繰り返す。
「おい、トモエ!」
「イオリちゃん、治療! もう安全だから!」
「へ? は、はいムサシ様!」
自爆、という言葉で固まっていたクローン達はトモエの異常を見て動き出す。ムサシが『安全』という事は無事な未来を視たという事だろう。イオリはそれを理解してトモエの元に移動する。治療ドローンを展開し、トモエの症状を確認する。
「治療は貴方達もよ。ボロボロじゃない」
「うむッ! 血液だけでも止めておくべきだッ!」
トモエを優先して治療しようとするコジロー達に呆れたように言うボイル。天蓋の地位レベル的に人間で企業創始者であるトモエを優先することは間違ってないが、コジロー達のダメージも無視していいレベルではない。『NNチップ』で痛覚遮断しているとはいえ、ゴブリンの爪で肉体を削られて出血も激しい。
<いざとなれば
<検討。フォトンブレード8本を持つ近接戦闘特化型が最適解。今すぐに手術すれば、失血による脳損傷を避けて99.868%の情報量を保持できる>
カメハメハの冗談を本気で検討するシグレ。豪快なカメハメハと冗談を介さないシグレ。いろんな意味で相性がかみ合っていた。
「トモエ様はショックによる過呼吸状態ですね。肉体ダメージはありません。しばらく安静にすれば落ち着きます。
さあ、ムサシ様も治療です! 服を脱いで! ああ、他の人に見られるとか屈辱ですので個室で! 個室で! 二人きりで!」
「イオリちゃん真面目にやって」
「ガチのツッコミ!?」
トモエの治療を終えたイオリがムサシに鼻息荒く向かい、あえなく迎撃された。仕方なくイオリは傷の深いクローンから順番に処置をしていく。治療ドローンのサポートもあり、テキパキと止血とサイバー機器の応急処置をしていくイオリ。
危険を乗り越え、弛緩した空気。戦闘を終えたクローン達は膝をつき、或いは近くの椅子に座りこむ。
「あの……結局、何がどうなっていたんです? ゴッド、何が何だかさっぱりなんですけど」
そんな空気の中、ゴッドが挙手して疑問を投げかける。事情を知らないクローン達からすれば、理解できない存在に罵られてぶん殴られたのだ。経緯を知りたくなるのも当然と言えよう。
「……そ、れは……う、ぁ」
「無理するな、トモエ」
「大丈、夫……ご、めん、ウソ。手を、握って、コジロー」
事情を知るトモエが口を開こうとして、胃がひっくり返りそうな苦痛に耐えかねて蹲った。コジローが無理するなと言うが、トモエは大丈夫とばかりにコジローの服を摑む。コジローはその手を握り、トモエを支えた。
「人間は……この世界の、人間達は……敗北したの」
「敗北……?」
「人間は、貴方達が崇めるような、すごい存在じゃ。なかったの。……むしろ、天蓋は――」
コジローに支えられながら、トモエは途切れ途切れに天蓋の正しい成り立ちを説明する。異世界召喚プログラムを使った侵攻。その失敗と、その結果生じた地球の侵略。そこから逃げた人類。そして――
「さっきの『ゴブリン』は、地上から来た存在。あんな奴らが、そこら中に、いるみたい。
……
まるで追い詰められたネズミだ。トモエは天蓋の経緯を聞いてそう思った。ネコから逃げて、家の小さなスペースで震えあがる小動物。しかもネコを呼び寄せたのは自分達。そのネズミの世話をするためにクローンを作り、奉仕させている。
「…………それは」
あまりのことに言葉のないクローン達。自分達が長年奉仕してきた存在が、実は逃げ延びた存在だった。ゴブリンもさんざん罵っていたことが事実だったのだ。価値観がひっくり返り、理解が追い付かない者もいる。
「待って。そんなこと、常識的に考えて――」
「残念ですが、事実です」
何かを言いかけたボイルを制するように、若旦那が告げた。
「ゴブリンを名乗った彼の知識がこちらにも流れ込んできました。人間が自分達の世界に攻め込み、それを追い返して逆にこの世界に攻め込んだと。
天蓋の外にいる彼らは未だ人間を皆殺しにするために世界中に存在しているとも」
若旦那が言うのは、ゴブリン側の歴史だ。攻め込んだ人間に恨みがあるのか、或いは暴力的な本能か。ゴブリンのように人間を皆殺しにしたい者は天蓋の外に存在している。あの二体が、終わりではないのだ。
「おいおい。天蓋の『外』の情報は市民ランク1しか知らない事だろ? そんなのペラペラしゃべっていいのか?」
あまりのことにおどけるようにして問うコジロー。嘘ではないことは理解している。嘘であればいいのにと思いながら、しかし認めるしかない事だ。
「検索して得られる『外』の情報も、侵略の真実を伝えてない不十分なモノだったけどね。
それと、情報の機密に関しては……すでに手遅れのようでね」
若旦那が首を向ければ、そこには息を荒くして拳を握っているオロチがいた。悔しそうな表情はゴブリンに操られていたから――ではない。
「俺は……俺達クローンは無様に逃げた
天蓋の真実を知り、人間に絶望したからだ。
「オロチくんが『人間』の情報を全部流出したみたいだよ」
オロチの『NNチップ』から『ネメシス』のネットワークを通じて拡散された情報。それらはすぐに削除されたが、電脳に残された情報はすぐにコピーされて削除以上の速度で拡散していく。
企業創始者たちが危惧していた、天蓋の崩壊の兆しが刻まれる――
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