天国と地獄という言葉がある

 天国と地獄という言葉がある。


 何度も繰り返すが、宗教の概念が薄まった天蓋においてこの二つの単語は『居心地がいい場所』と『居心地が悪い場所』の類語でしかない。天はドームで覆われ地は完全舗装された天蓋において、天井も地下も信仰に値しない。


 しかし言葉は残っている。西暦でも使われる意味合いではあるが、居心地がよくそして悪い場所は存在する。


 そしてそれらが同時に存在するケースもまた存在することを、コジローは生まれて初めて知ったのである。


「おお……すごいな。本当に楽になってきた」


 戦闘のダメージを癒すために、『イザナミ』のメディカルシステムを利用することになったコジロー達。30℃近くの特殊ミネラル水溶液に浸かり、細胞の再生能力を促すと同時に血行を良くして血が運ぶ栄養を行き届かせるというものだ。


 服を脱いで専用の着衣に着替えてそこに身を沈める。そんな形式だ。トモエが見たら『温泉じゃないの?』と言いかねない施設だが、医学的に効果のある治療室である。実際、使用料はそれなりに高額である。

 

「はー。体の芯から温まるねぇ。心身共に幸せ幸せ。疲れも傷の癒されて、電子酒も美味いと来たもんだ。電子酒で気分ポカポカ。暖かいお湯で体ポカポカ。最高だねぇ、旦那」


 そしてコジローのすぐ右横でムサシが顔を赤らめていた。胸と腰部分を覆う着衣だ。大きくふくよかな胸とふくよかな太ももがあらわになり、コジローが少し手を伸ばせばそれに触れられる距離にある。ムサシは健康的且つ蠱惑的な女肉を紅に染め、耳元で蕩けるように息を吐いていた。


「そうだなコジロー! アタイは熱いのは苦手だけどこれは大好きだ! コジローも一緒に温まろう! ふにゅううううううう」


 コジローの左横で腕を絡めて抱き着いているのは、ネネネだ。肩から腰までのワンピース型着衣を着て、起伏の少ない体をコジローの腕に押し当てていた。誘惑というよりはじゃれている感じなのだろう。頬を摺り寄せるようにコジローの腕に寄り添い、心地良い声を上げている。


「はっはっは。両手に花だな、Ne-00339546。もっと喜んでいいんだぞ。何ならカーリーも混ざってもいいのだが」


 コジローの正面で足を組んで湯につかっているカーリーが笑う。白いタオルで胸と腰部分を隠したスタイルだ。自分の体に自信があるのか、優雅に尊大にポーズを決めている。


 右に豊満ボディな好敵手ライバル。左にロリボディな無知系元気娘。真正面にパーフェクトボディな支配者。それぞれが自分に向けて好意的な感情を持っていて、しかもコジロー自身も嫌いではない相手だ。


 これだけ見れば天国としか言いようがないのだが――


「いや、その、なんだ。俺はトモエと一緒に居たいと言った手前、こういうのはちょっと」


 トモエを守り、共にいる。そう誓ったコジローからすれば、この状況は地獄であった。理性のブレーキ全開で平静を保っているが、秒単位で理性が削られていく。『NNチップ』による脳内物質投与も、左右から好意的に語り掛けられる声で無力化される。


<これ以上の脳内物質投与は一日の許容量を超えます>


『NNチップ』からの警告だ。肉体的には超回復しているが、別の部分が許容量いっぱいいっぱいだという。


「だからってやめるわけにはいかないんだよ。続行だ」

<最善策はIZー00210634およびKLー00124444を受け入れることです。クレジットや生活水準を考えれば、生活環境は向上します>


 ムサシとネネネの誘惑に負けて二人と一緒に過ごせば、市民ランク的にもクレジット的にも楽になれるという意味である。トモエが聞いたら『ヒモじゃん』と冷たい目で見られる一言だ。


 とはいえ、天蓋ではよくある生活スタイルである。クレジットの在るクローンがないクローンを養う。養われる側は生活が向上し、養う側も世話することで自分に自信がつく。依存度が高まれば共存になりかねないが、その辺りはバランスだ。


「いいじゃないのさ。トモエちゃんとも一緒に住めば。何ならおねーさんがみんなの分の世話してあげるよ。企業内の地位は十分だし、クレジットはわんさか余っててね。何せ電子酒ぐらいしか使い道がないのさぁ」


 トモエとコジローの関係を理解したうえで、ムサシはそう持ち掛ける。結婚という概念がない天蓋において、一夫一妻の概念もない。一夫多妻に多夫一妻。同じ性別同士のカップルも普通に存在する。


 自分の好きな者の気持ちが自分じゃない者に向いている。それ自体は悲しいけど、それでも好きな人と一緒に居たい。ムサシの考え方は天蓋でも珍しいものではない。むしろ自分がクレジットを出すと言っている分、有情ですらあるぐらいだ。


「何がいけないんだ、コジロー? コジローもトモエも酔っ払いねーちゃんもアタイも一緒に住めばいいじゃないか。……あの人間様? あれはちょっとアタイは苦手だけど」


 ネネネの言葉は何も考えていないように聞こえるが、複数カップルは天蓋ではよくある愛の終着駅だ。一人の男性型と複数の女性型の生活スタイル。三角関係四角関係それ以上の多角形関係も咎められない。その生活を維持できるだけの稼ぎがあるなら、誰も文句をいう事はないのだ。嫉妬と羨望はあるだろうが。


「むぅ。KLー00124444に関しては不幸な事故だったので恨まれても仕方がないか。カーリーがもう少し早く気付いていれば悲劇は止められたかもしれないな。

 すまない。誹謗中傷はいくらでも受け入れる。慰謝料慰労金など必要なら申請してくれ」


 ネネネの言葉にカーリーは眉を顰める。『イザナミ』と『カーリー』の共同開発のの結果、不幸に巻き込まれて精神的障害を負ったネネネ。末端まで見るのは不可能とはいえ、企業のトップとしては背負わなければならない痛みだ。それを受け止める。


「イロウキン? とかはよくわからないけど、コジローと一緒になれるだけのクレジットが欲しい」

「いや待ってくれ。俺はトモエ以外と一緒になるつもりはないから」


 ハーレムエンドまっしぐら、の流れをぶった切るように言うコジロー。ムサシとネネネ、そしてカーリーの艶めかしい素肌と体型と体温に欲情しそうになりながら、理性を総動員して何とか拒否する。


「理解はしていたつもりだが、想像以上に頑固だな。この状況でもそう言い張るのは狂信のレベルだ。天蓋において多角関係ポリアモリーなど常識的、むしろ一夫一妻モノガミーの方が異色と言われているというのに」


 そんなコジローの様子を見て、カーリーは呆れたようにため息をつく。コジローが複数を器用に愛せないタイプなのは理解していたが、相手がそれでもいいと言っているのに断るというのは想像外だった。


「サムライは二君に仕えないんだよ。古典ラノベでもこういう時は一人を選ぶって決まってるんだ」


 心の中に在る信念を語るコジロー。ブシドーとはそういうもので、サムライとはそういうものだ。ただ一人を愛するのも古典ラノベでの伝統だ。自信をもってそう告げるが、


「旦那、それはない」

「コジロー、何言ってるんだ?」

「ふむ、ハーレムラノベの存在を教えてやるか」


 ムサシとネネネは呆れたような顔をして、カーリーは静かに頷いた。コジロー渾身の信念は、あっさりと流される。


「え? いや待て。俺は真剣に――」

「旦那がトモエのお嬢ちゃんを一番なのは理解しているよ。そこを勘違いするほどお姉さんは酔っちゃいないさ。そりゃ一番じゃないのは悔しいけど、そこをどうこう言うつもりはない。

 でもお姉さんの好意をそんな信念で拒否するのは許せないねぇ。旦那もお姉さんやそこのちびっこと人間様には女性型として思う所があるんだろ?」

「……ノーコメントだ」

「この状況でお湯から出ないでいる時点で肯定しているようなもんさ。トモエちゃんに遠慮しないでいいならおっぱい押し付けてる所だよ、お姉さん」


 必死にガードするコジローにズバズバ切り込むムサシ。最大の武器である胸を触れるか触れないかの位置で止めているのは、そういう事である。


「そうだぞ、コジロー! わけのわからないことを言って誤魔化すのは良くないぞ! アタイはコジローと一緒に居たいんだから、イエスって言えばそれでいいんだ!」

「ネネ姉さん。それはそんな単純な問題じゃなー―」

「コジローはアタイと一緒に住むのがイヤなのか?」

「……それは、違う、けど」

「だったらいいじゃないか。それだけの話なのにニクンとか難しいことを言って誤魔化すんじゃない!」


 ネネネは手を伸ばしてコジローの鼻先を指さしながら告げる。一緒に居たいから一緒に居る。単純明快な答えだ。ネネネらしい真っ直ぐな問いかけにコジローは頷くしかなかった。


「万事休すだな。サムライということで年貢の納め時というべきか。ラノベではよくある修羅場だが、現実で見るとこうも心地良いものだとはな。Ne-00339546の幸せそうなのに苦しそうな表情はなかなかに味がある。

 ふむ、作家らしく『ネタになる』と言っておこう。これは最高の賛辞だぞ」


 そしてそんな様子を楽しそうに見るカーリー。自分の好きな者が他の異性に好意を持っているのは面白くないが、好きな者が様々な表情を浮かべるのは面白い。最終的には自分のモノにすればいいという余裕で、モテるコジローへの嫉妬を打ち消していた。


「とはいえ、今ここで篭絡させるのはフェアではないだろう。あのババアを含めて話し合おうじゃないか」

「そうだねぇ。企業創始者様と同席っていうのは些か気後れするけど、この件に関しては同列扱いにさせてもらうよぉ」

「無論だ。むしろカーリーは後発だからな。同列に見てくれるだけでもありがたいさ」

「むむ、よくわからないけどトモエが帰ってくるまでキューセンだな! アタイ、理解したぞ!」


 そしてコジローをめぐる話し合いは、トモエ抜きでするのは筋が通らないということで保留になった。自分の意見が無視されていることに不満があるコジローだが、時間が稼げたことに素直に安堵する。


<自律神経の安定を確認。蛇足ですが、現状は結論を先延ばしにしているだけで解決策は皆無です。ストレスの要因は取り除かれていないことを指摘します>

「言うなよ、相棒」


 ツバメの指摘にため息をつくコジロー。左右と正面に美女の包囲網を敷かれたこの状況は、背水の陣。トモエが加われば四面楚歌。完全包囲網完成である。


 物理的に逃げることは可能なのに、様々な想いもあって逃げることができない。まさに天国と地獄であった。


「こうなったらトモエにはできるだけゆっくり帰ってきてほしいもんだ」

「行って帰ってくるだけだ。そこまで時間はかかるまい。護衛に最強最善の超能力者エスパーまでついているのだから、よほどの襲撃者でなければ普通に撃退するさ。

 胃に穴が開きそうなストレスこそ抱えていたが、自信ありげにはっきり告げたからな」


 コジローの悲観めいた冗談を鼻で笑うカーリー。


「『襲って来るにしてもチンピラぐらいでしょ。、私が行くのは過剰戦力よ』とな」


 ボイルが言っただろうセリフを聞いて、彼女の事を知るコジローとムサシとネネネは微妙な表情を浮かべていた。

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