しあわせのかたち
たとえそれが古臭い偽善だとしても
企業を立ち上げるには、相応のステップが必要になる。
西暦時代では資本金や事業目的などの企業の基本情報を決め、実印や定款を作成。作成したそれらを公的役場に提出し、資本金を払い込んで法務局に書類申請するという形になっている。
特定の事業や化学物質を扱う際には相応の許認可が必要になり、許認可がない場合のペナルティは経済的かつ社会的なダメージとなる。各業務で必要な書類は異なり、天蓋に存在する
『そうよ! 市民ランクとかバイオノイド差別も撤廃して、私の企業を作ってやるわ! 立場による差別なんてない! そんな企業を作って、天蓋をひっくり返してやるんだから!』
と宣言したトモエは、ネメシスからスマホに贈られてきた必要な手続きの多さに躓いていた。クラウド上にある膨大なファイルを閲覧しながら、トモエは軽いめまいを起こす。
「何なの、この量は……」
天蓋においては紙の書類というものは存在しない。そもそも植物が希少なのでパルプを使った紙そのものが希少だ。なので情報などは電子ファイルでまとめられており、スマホに慣れたトモエからすれば記入や作成は楽である。
ただ、量が尋常じゃない。
企業名(西暦では商号)、メインとなる所在地、基本金、事業目的、会社ロゴ(実質的な印鑑の扱い)、定款、発起人の情報、役員情報などの基本的情報も膨大だが、何よりもトモエの頭を悩まさせたのが、企業規定だ。
「きぎょうきてい?」
「はい。企業におけるルールです」
そんなの常識に従って決めればいいじゃない。テンプレートとかあるんでしょ……と高をくくっていたトモエはネメシスから贈られた『ネメシス』の企業規定を見て息を詰まらせた。
『企業内において、市民ランクの存在は絶対的である』
『バイオノイドおよびドローンはクローンの下位に存在し、モノ扱いである』
要約すればそう言ったことがびっしりと書かれてある。会社内の立場、出世、給金、罰則、降格理由……何もかもが市民ランクにより制定されており、例外は認めないという一文さえついているほどである。
「なんでこんなことになってるのよ……?」
「上下を明確に分けることでクローンを統括する意図です。市民ランク自体は労働によって得られるクレジットで購入可能ですので、平等感はあります」
「努力すれば上に登れる……ってことなんだろうけど……さすがに酷すぎない?」
「逆に言えば、ここまでやってもクローンの暴走は止められないのが現状です」
ネメシスの言葉にトモエは何とも言えない顔をした。天蓋のクローン達は何というか……個性豊か(好意的解釈)だ。市民ランクによる支配。
「企業に抑圧されて自暴自棄になってるだけじゃない」
トモエはばっさりとそれを切り捨てた。ネメシスは何とも言えない笑顔でそれを受け止める。言いたいことはわかるが、かといって今この支配を緩めるのは危険すぎる。少なくともネメシスはデメリットが大きいと判断していた。
「他の企業もおんなじ感じなの?」
「細部は異なりますが、基本は変わりません。各企業の企業規定は公開されていますが、確認しますか?」
「……遠慮するわ」
確認する時間ももったいないとばかりに拒否するトモエ。陰うつな言葉の中には、面倒くさいという色も含まれているが。
「天蓋において企業は絶対的で、企業規定は西暦での道徳と常識に相当します。国家に例えれば定款が国家の組織骨組みになり、企業規定は法律です」
「そ、そこまで……?」
「グランマがクローンやバイオノイドのランク差を撤廃したいというのなら、この部分を強く主張する必要があり、さらに言えばそれにより起こるだろうクローンの暴走を押さえ込むほどの武力が必要になります」
「心折れそう……。女子高生のやる事じゃないわよ、それ」
「ここで諦めていただける方が私としてはありがたいのですが」
膨大な難関を前にしてやる気がぽっきり折れるトモエ。慰めるようにネメシスが告げるが、意地と持ち前の負けん気を復活させてトモエはこぶしを握って宣言した。
「やだ。絶対やり遂げる! コジローとも離れたくないもん!」
動機が色恋沙汰なのは如何なものか、とネメシスは口を開こうとして何とか惜し留まる。もちろんそれだけではないことも気づいてはいる。トモエの天蓋のランク差やバイオノイドの扱いに対する怒りが嘘とは思えない。
「分かりました。グランマの意見を尊重します。可能な限りサポートはしますが、人間であることを公開するのは企業として体裁を整えてからにしてください」
「なんで?」
「なんの力もないまま素性を公開すれば、欲のあるクローンに狙われます。これまでグランマを守ってきたNe-00339546の実力を疑うわけではありませんが、万能ではありません。身の安全を考えて、秘密の公開は最後にお願いします」
トモエの説得を諦めたネメシスは、可能な限りトモエの企業設立をサポートする方向にシフトした。とはいえネメシスも自企業の運営を優先するため、万全の援助はできない。
「そうね。ネメシスも自分の会社が大事だし仕方ないわよね」
「むしろ『ネメシス』の支援を受けて立ち上がった企業となれば、『トモエ』は『ネメシス』傘下と受け取られかねません。公的なサポートは今後の活動のマイナスになるでしょう」
「むぅ……。メンツとか風評とかそういう感じ?」
「隙あらば攻めるのが企業です。グランマが足を踏み入れるのはそういう世界なのです」
ネメシスはそこまで行った後で、表情を引き締める。
「そしてそれは『ネメシス』も同じです。同じテーブルに立つなら、企業として利益を優先して行動します。その結果としてグランマを貶めたほうが得となるなら、容赦はしません」
そこにあるのはトモエに負い目のある生真面目な孫の姿ではない。華麗な土下座をした女性の顔ではない。一つの組織を立ち上げ、多くのクローンを抱えた企業リーダーの顔だった。その視線に思わず息をのむトモエ。
「容赦しないって……その、私のことは悪いとは思ってるんだよね?」
「はい。その気持ちに嘘はありません。罪悪感は今でも圧し掛かっていますし、グランマに敵対するような発言をしたことは後悔しています。
ですが『ネメシス』の頭として、多くのクローンを掲げる企業主として、罪悪感と後悔というストレスに胃と心を痛めながら、『ネメシス』の創始者として私はそう告げるのです」
トモエの言葉にネメシスははっきりと答える。トモエに引け目を感じ、できる事なら言いたくない。でもそれは許されない。ネメシスが歩いているのはそういう道だ。多くの責任を抱えたモノとして、引けぬ事はある。
その覚悟はあるのか? トモエはネメシスがそう問いかけているように見えた。楽に生きる道はいくらでもあるのだ。企業を作ってクローンやバイオノイドの差別をなくす。その為に歩まなければならない道は、こういう世界なのだ。
他の選択肢ならある。ネメシスに保護され、天蓋のサイバー技術の粋を受けながら生活する。西暦の技術が過去のものになるほどの快適な生活。衣食住は充実し、味のない栄養キューブなどもう口にすることはない。
『NNチップ』も超える人間用のチップを施術されれば、寝ながらにして様々なコンテンツを利用できる。思うだけで様々な物品が配送され、AIが毎秒12000個作りだすエンターテイメントはトモエを飽きさせることはないだろう。
トモエの無意識を感じとって視覚聴覚嗅覚感覚に快適な空間を提供され、トモエ好みの情報や娯楽が提供されていく。自分にとっての『気持ちいい』が思うより先に整えられていくのだ。
自由こそないが、引きこもって安全に暮らすなら完璧な環境だ。その自由に関してもタワーの一室から出られないだけで、部屋の広さは個人が使用するには広すぎる。部屋の改造も思うがままだ。『あれが欲しい』と思った時にはすでに決済は済み、欲しいものはドローンで運ばれて、10分後には部屋に設置されている。
そんな環境を蹴って、苦難の道を歩くのか? 企業という荒波の中に身を投じるほど、低ランク市民クローンとバイオノイドは大事なのか? 低ランク市民の中には腹黒おっさんやドッグのような自分のことしか考えない者もいる。むしろそれが大多数なのだ。
そんな者達のために、楽な道を捨てるのか。そう言われれば――
「そうだよね。そこまでしないと守れないモノがあるもんね」
トモエは迷うことなく苦難の道を選んだ。いや、既に選んでいた。
天蓋で受けた差別。天蓋で見た差別。救えなかった命。虐げられた命。それを救うと決めたのだ。西暦時代の道徳観。天蓋では無価値の平等意識。言ってしまえば、カビの生えた旧時代の偽善。
(異世界転生ラノベで自分の世界の価値観を押し付ける主人公が冷笑される、っていうのは知ってるけど)
その世界にはその世界の常識がある。そんなことはわかっている。コミューンにおけるルール。それを無視して自分ルールを押し付けるのは、どの時代でもどの場所でも滑稽で恥ずかしい。
「私は天蓋のランクとかバイオノイド差別とかを許さない。その為にできる事があるなら、何でもやるって決めたの!」
トモエはそれを知ったうえで、天蓋のルールをぶっ壊すと宣言した。全部は救えないかもしれないけど、それでも見て見ぬふりだけはしないと決めたのだ。
たとえそれが古臭い偽善だとしても、遠く叶わぬ理想だとしても――
「企業設立の主な理由は、グランマがNe-00339546と一緒に過ごしたいという性的欲望だったのでは?」
「性的言うな! それはそれなの!」
「そうですね。表と裏の理由は重要です。『平等を提供する』……それが企業『トモエ』の企業理念ということですね」
ネメシスに指摘されて、開き直るトモエ。そりゃコジローと一緒に居たいからこういうことをするんだけど、それでも皆を平等に扱いたいっていう宣言自体は嘘じゃないし。
「それではここでお別れです、グランマ」
もうここで話し合うことはないとばかりに言って、トモエに手を差し出すネメシス。これから苦難の道を歩むトモエにできる小さな手助け。次会うときは企業のトップ同士として敵対するかもしれない。
「立場上表立って歓迎はできませんが、その企業理念がかなう事を心から祈っています」
だからこの言葉は『ネメシス』の企業トップではなく、ネメシス一個人の言葉。
弱き者を救うためにいばらの道を進む祖母に対する敬意をこめて、ネメシスは一礼してトモエを送り出した。
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