自分とはなんだ?
ここを描写するなら『
カオス。一般的な意味ではあらゆるものが混じり、ごちゃ混ぜになっている状態を指す。部屋の中が無秩序に汚れ、どこに何があるかわからない状態。それが想像できることだろう。
無秩序な空間。そこには法則はない。重力もないので上下もなく、時間もないので生死もない。決まった形状のない色のないスープ。或いは荒れ狂う暴風雨。或いは全てを吸い込む虚無。定義できないそんな場所。
(熱い)
(寒い)
(怖い)
(眠い)
(辛い)
(怠い)
(濃い)
(薄い)
決まった法則などない。決まった感覚などない。無秩序な空間に混ざり合う様々な感情。感情を発している存在も自分自身が何者かもわからない。ただ、わかるのはその混沌の中に自分がいるというだけだ。
自分。
自分とはなんだ? 個? すなわち、混沌ではない存在。無秩序が混沌であるならば、混沌でないのなら秩序があるはずだ。秩序。きちんとした法則。形。すなわち、自分。
自分とはなんだ?
Ne-00339546。ネメシスで生み出されたクローン。市民ランク6。清掃業務を行っている。それが自分だ。この点だ異世界におけるどこにでもいるクローンの一体。それだけの存在。
「コジロー」
「旦那」
「コジローちゃん」
「コジロー殿」
そう呼ばれる個体。そしてそう呼ぶ相手にも呼称があった。
「ネネ姉さん」
「酔っ払い姉ちゃん」
「ニコサン」
「カメハメハの旦那」
「……トモエ」
名前を呼び、手を伸ばす。あの時、掴もうとした手を求めて。その手は――
「むぅ。カーリーの名前がないのは不満だが我慢しよう」
むにゅり。弾力ある水のような感覚。コジローの掌はその感触を脳に伝えた。
「人間様?」
「できればカーリーの事はカーリーと呼んでほしいのだが、クローンの立場と文化的に難しいか」
伸ばしたコジローの手は、カーリーの胸に触れていた。張りのある柔らかい感覚。それに気づいて、コジローは手を引っ込め――
「おおっと、別に怒っていないから触り続けていいぞ」
「それはどうなんだよ人間様!」
「くっくっく。生殖細胞こそないが性欲はあるのがクローンだからな。こうしていればカーリーに興味を持ってくれると踏んでの作戦だ」
引っ込めようとした手首をつかんで、自分の胸に押し付けるカーリー。手のひらから伝わる温かく柔らかい感覚。
「羞恥心とかないのかよ!」
「カーリーからすればすべてのクローンは愛おしい。特にNe-00339546は格別だ。恥じらいよりも愛おしさが勝るというものだ」
「そりゃどうも。そろそろ話してほしいんだが!」
「……むぅ、これ以上は逆効果か」
本気で拒絶しているコジローの態度を察し、カーリーは手を離す。
「ったく、ろくなことしないな人間様は!」
「そういうな。個を保つためには
「個?
説明を求めるコジローに、カーリーはため息をついて口を開いた。
「時系列に沿って話をしよう。カーリー達は件のビルに空いた時空の穴に落ちて、その中にいた奴に溶かされた」
「と、溶かされた!?」
普通に生きていればまず体験しない肉体の状態に問い直すコジロー。化学薬品を扱う工場に勤務でもしなければ、ありえない死亡例だ。
「溶かされたという描写は正しくないが、それが一番近い。イメージとしては肉体も精神も鍋の中に入れられて、ドロドロに溶かされた感じだ。具も溶かすぐらいに煮込まれたシチューだな」
「ナベとかグとかニコムとかシチューとか言われてもわからないんだが」
「……むぅ。料理関係の単語が検索できるのは市民ランク3からだったか」
いい例えだったのだが、クローンと人間の知識の差が壁になった。カーリーは不満げに唇を突き出して別の例えを考え、無理だと結論を出して説明を放棄する。
「とにかく溶かされた。その状態から今の形――自分自身を形どって維持するには、自分自身を強く定義しないといけない。自分が何と呼ばれていて、天蓋という社会の中でどういう存在で、周囲にはどういった仲間がいて。その全てが
そう言った自分自身を強く意識しないとまた溶けてしまうのだ。
「良くわからんが……要するに自分はこういうヤツなのだと思えばいいってことか?」
「流石だな。エゴの本質をとらえている。アイデンティティ。自己をイメージできることが大事だ」
うむ、と頷くカーリー。腕を組んで言葉を続ける。
「つまりNe-00339546に触れられて幸せを感じることでカーリーの中に在る感情を高め、より強く自己イメージを確立したのだ。好きだ。愛している。お前を私のモノにしたい。永遠に貴様と戦っていたい」
口にすればなお思いが強くなる。カーリーという存在がより色濃くなってくる。
「最後のは御免だぜ。連敗中で自信なくしそうだしな」
「そこで心が折れるNe-00339546ではあるまい。心の底でどうやって勝とうと夢想し、イメージし、構築しているのを感じるぞ。次はカーリーが負けるかもしれないな」
「……なんでそんなことが分かるんだよ」
「二度も戦ったからな。自慢するが、Ne-00339546がトモエと呼ぶババアよりもNe-00339546の事を理解している。一挙手一投足全てを理解しているぞ。呼吸も、目線も、指も、足のつま先も。今すべてでカーリーを意識しているのを感じるぞ」
どやぁ、と胸を張るカーリー。その後でため息をついて嘆息した。
「そしてその気持ちがカーリーに向いていないこともな」
「悪いと謝るつもりはねぇよ。人間様のことは嫌いにはなれないけど、気持ちが向いているのはアイツなんだ」
「謝られたら、ぶん殴っているところだ。
話を戻すが、その気持ちもまた
「最低条件?」
何のことだ、と首をひねるコジロー。
「さっきも言ったが、カーリー達は時空穿孔で空いた穴に落ちた。
既に死亡していた
カーリーは手を広げ、周囲を示す。真っ暗な空間。何もかもがごちゃ混ぜになった混沌。そこにあるだろうクローンを意識する。
「あのビルにいた宗教組織『Z&Y』に縋っていたクローン175名。それとNe-00339546を合わせた176名のクローン。その全ての自我に呼び掛け、そしてここから脱出する。
そのために、自我を保って維持するのは最低条件なのだ」
「ひゃくななじゅうごっ!? ちょっと待て! そいつらの自我ってことは……そいつら全員に話しかけるってことか!?」
175。それだけのクローンに話しかけ、自分が何者なのかを呼びかける。それがどれだけ大変なのか。正直、コジローは想像もつかない。自分とカーリーはまだ面識があるし、出会いも求愛行為も強烈だったから思いは強い。しかしよく知らない相手の自我を確立させるのは容易ではないだろう。しかも数も多い。
「無論だ。幸いにして、彼らとは一度言葉を交わした。悩みを聞き、触れ合った。
0ではない。だからけして不可能ではない」
しかしカーリーはそれが当然だとばかりに頷いた。一度話したことがある。どこで話したのかは知らないが、それでも175名すべての事を覚えているというのか? それだけでも驚愕に値する。
「手伝ったほうがいいんだろうけど、さすがに手伝えそうにないな」
「仕方あるまい。Ne-00339546は脱出のために体を温めておいてくれ」
「脱出? できるのか?」
「わからん」
コジローの問いに首を振るカーリー。
「しかしこんなところに留まっているわけにもいくまい。カーリーには業務が残っている。新作の執筆もあるし、ババアからNe-00339546を略奪するために策を練らねばならないからな」
「当人を前にそういうこと言うなよ」
「言うぞ。何せNe-00339546は律儀な性格だ。複数を同時に愛せるような器用な性格ではないからな。一度カーリーに気持ちを傾けさせればババアに悪いと思いながらもこちらを向いてくれる。いわゆるカーリールート確定だ。
あとは普通にクレジット不足でハーレム形成できぬだろうし」
「だからなんでそこまで理解されてるんだよ、俺は!」
「これに関してはカーリーの人間観察能力だな。ん? クローン観察能力か? ともあれ、いろいろわかりやすい性格なのだよ、Ne-00339546は」
ああ、そうかい。不貞腐れるようにコジローはため息をついた。
「Ne-00339546も元に戻ることはやぶさかではあるまい。なら協力しろ。そしてカーリーに惚れろ」
「惚れはしないが、その性格が自我を保つ為、っていうんならいくらでも付き合うぞ。できるとは言っているけど、楽な事じゃないだろうし」
「全く。そういうことを察するのは流石だな。そしてわかっているのなら優しく肩を抱いてほしいものだ」
「……さすがにそこまでは」
「ち、肉体接触はためらうか。だが一瞬それもいいなと考えたあたり、まだ脈はあるな。このまま押せ押せで行くのが正解みたいだ」
「ホント、恐ろしいな人間様は」
どこまで本気なのか分かった者じゃない。いや、全て本気なのだろう。カーリーは本気でコジローの事を好きで、隙あらば奪おうとしている。力づくではなく、自分の想いを常に伝えることで。
「さて、始めるか。Joー00205793。自分のことが分かるか?」
混沌の中に話しかけるカーリー。
175名との対話が、始まる――
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