ねえ。助かりたい?

 白い、白い世界。


 トモエの脳内は『XXX』の触手により浸食され、白く塗りつぶされた。脳内に会った記憶をデータとして奪われ、代わりに白く何もないデータを上書きされる。


『XXX』が求めるデータはすぐに手に入った。IZー00210634。その接触記録。そこから更にさかのぼり、このビルの入居までを得る。


「うう、うああああ……!」


 記憶を遡ると同時に『快楽』のデータを送り込む『XXX』。トモエの体が痙攣する。望まれない感覚に抵抗しようにも、抵抗するための理性が白く塗りつぶされている。体はされるがままに、刺激に反応している。


(わたし、ともえ、かしはら……ともえ……)


 奪われ、白で埋め尽くされる濁流の中、トモエは自分の名前を何度も繰り返すことで自我を保っていた。だがそれも爆発するように流し込まれる快楽データで削られていく。繰り返される波に削られる砂上の楼閣。消える。自分が消える。なのに何もできない。何もかもが、消えていく。


<無駄、無駄、無駄。何もかもが無駄。機械には勝てない。生物の構造が理解されている以上、なにをしても無駄。脳を支配され、肉体はそれに逆らえない。抵抗なんて意味がない。ちっぽけな足掻きも、この通り>

「ああ、あああ、あああああああ」

<無様に体をけいれんさせているわ。脳に刺激をどう通せばいいのか。そんなことはプログラム済み。どんな気丈な性格だろうとも、所詮は脳にあるデータの一つ。書き換えることも簡単にできるわ。バイオノイド性格アプリなんか、その一例>


 好みのバイオノイドに『設定』するためのプログラム。反抗的なバイオノイドを屈服させたいとか、従順なバイオノイドに癒してほしいとか。クローンの為に奉仕するためのアプリケーション。


<クローンも同じ。性格なんてただのデータ。あなたを助けたこのおチビちゃんに貴方を襲わせることもできる。その逆もできる。脳を侵食するだけで何もかもが入れ替わるわ>


『XXX』はトモエに聞こえるように脳刺激の速度を緩やかに行っていた。その顔が苦痛に歪むのを楽しみたいから。その顔が悔しがるのを見たいから。一気に食らっても面白いけど、触手を切られた分の代金ぐらいは楽しみたい。


「負け、ない……負けない、んだからぁ……! ひ、ああっ。んあああああ!」


 その成果もあってか、トモエはとぎれとぎれになりながらも反抗の声をあげる。だけどそれはすぐに脳内に送られるパスルと快楽信号で悲鳴と嬌声に変わる。そしてそれが落ち着いたときに刺激を緩める。


(……? え? おわ、り……?)

<ふふふ、貴女が壊れれば次は貴方を助けに来たクローンを弄るわ。この子は私の触手を切ってくれたし、その恨みも込めて時間をかけて壊してあげる>

「や……やめ……」

<やめてほしければ耐えなさい。貴方が壊れない限り、この子には手を出さないで上げるから>

「っ……ああああああ……!」


 流される快楽。奪われる記憶。トモエという人生が消えていく。脳から記憶が消えれば、トモエという人間がいた記録は天蓋のどこにもない。ただ個人の記憶の中に残るだけだ。


(記憶、私の、存在……消えちゃう。全部消えちゃう……!)


 日々の記憶が思い出せなくなる。天蓋に来る前の記憶。天蓋に転移してからの記憶。辛いこと、悲しいこと、奪われたこと、出会ったこと、助けてもらったこと、好きな人たちの事。全部が消えていく。


(……なに、この記憶データ。どういうことなの?)


 トモエの記憶を切り取り、それを吟味する『XXX』だが、その内容は予想外のモノだった。IZー00210634との接触記録はただの一度。それはそういう事もあるだろう。だがそれ以前の記憶――ドラゴンや『働きバチ』、オレステとの騒動。子宮やエストロゲン。そして――


(天蓋以前の、過去の記憶? どういうこと? なんでこんなバイオノイドがそんなことを知っているの? こんなデータ、売ればどれだけの価値になるか分かったもんじゃないわ!)


 喚起し、奮える。今自分が捕まえているバイオノイドのデータは、巨額の富になる。機械化して得られる快楽どころではない。企業に売り込めば一生遊べるだけの立場が手に入る。


(でも正直、私の手に余る。こんなの『デウスエクスマキナ』の馬鹿どもにも教えられないわ。役立てるなら市民ランク2の企業重役へのコネが必要ね。どちらにしても、ここで一気に壊してしまうのは得策じゃない。時間をかけて、全部吸い上げないと)


 唇があれば舌なめずりしただろう『XXX』。トモエの脳内を一気に漂白すれば、得られる情報料はそれほど多くない。時間をかけてこのバイオノイドが生きてきた全ての記憶を切り取る。そのためには――


<ねえ。助かりたい?>

「……え?」

<このまま何もかも失うのはイヤなんでしょ? 自由にはしてあげれないけど、今日はこれで許してあげてもいいわよ>


 呼吸を整えながら、トモエは突然沸いた救いの言葉に戸惑っていた。このまま抵抗できずに自分を失うなんて耐えられない。何もできずに、なにも思い出せなくなるなんて。


「あ……あ……」

<そうね。貴方の記憶を見たけど、このクローンが憎いみたいね>

「……あ……え……」

<Ne-00339546。KLー00124444がその男性型クローンとべたべたするのが気に入らないみたいね。嫉妬する気持ち、とってもすごかったわ>

「あ……あ……」

<KLー00124444の記憶を先に切り取ってあげるわ。そうすれば貴方がコジローと慕う男性型クローンになつかれることはない。後顧の憂いを絶ってあげるなんて、優しいわよね>


 トモエの額についていた触手が離れ、ネネネに向かって伸ばされていく。


「約束……破るん、だ……。この節操、無し」


 荒い呼吸の中、トモエはそう呟く。かすれそうな声だが『XXX』のセンサーは確かにそれを感知した。


「私が、堕とせそうにないから、ネネネちゃんに、逃げるん、だ……。この、ヘタレ」

<逃げる……ですって? この私が……?>

「逃げ、てるじゃない。機械が、どうとか言っときながら、不完全なまま、やめるんでしょ? この、無能」


 気を抜くと白い闇の中に落ちそうになる意識を総動員しながら、トモエは思いつくままに悪態をつく。ここで口を止めたらネネネが襲われる。それだけは許せない。その一心で喋っていた。


<いうじゃない。このおチビちゃんに嫉妬してたくせに>


 しかし『XXX』は余裕をもってトモエに答える。トモエの記憶は知っている。コジローに対する思い。コジローに付きまとうネネネへの想い。醜い嫉妬の心。その全てを掌握されている。


<コジローに触らないで。コジローとイチャイチャしないで。私の知らない会話をしないで。私を一人にしないで……。べちょべちょでぐだぐだで頭をかき乱したくなるぐらい醜い感情データ。それが鬱積しているじゃない>


『XXX』の指摘は正しい。当たり前だ。トモエの脳内にあるトモエの気持ちをそのまま奪ったのだから。その醜さも酷さも苦しさも全部知っている。


<ネガティブになってるあなたの感情からすれば、KLー00124444の感情や生命を奪うことは正しい事なのよ。それぐらい理解しているでしょう? まさか、そんなの許さないなんて奇麗な事は言わないわよね? この感情は貴方のモノだもの>


 ネネネなんかいなくなればいい。そう思ったことは何度でもある。『XXX』のいう事は正しい。トモエの醜い部分。それをいやおうなしに見せつけて、


「そうだよ……私、嫉妬してた。ネネネちゃんに、嫉妬してた。

 でも、それだけじゃ、ない……!」


 妬ましい感情。奪いたい感情。消えたい感情。それがあるのは確かだ。だけど、ネネネへの感情はそれだけじゃない。


「ネネネちゃんは、私に元気よくおはようって言ってくれた……!」


 毎朝、うるさいぐらいに元気よくネネネはトモエに挨拶をした。


「私を守ってくれた……相談にも乗ってくれた……!」


 ビルでの生活で分からないことを教えてくれたり、街に出る時に護衛をしてくれた。


「そうだよ。ネネネちゃんには嫉妬してた。だけど、それ以上に感謝してた……! だから、私のために命を投げ出すなんて許せなかった……!」


 感情はマイナスだけじゃない。プラスの感情もあるのだ。それは相殺されるものではない。どちらも同時に存在するのだ。敵だけど、好き。味方だけど、嫌い。愛してるけど、許せない。そんなことはいくらでもある。


 無様に涙を流しながら、それでもはっきりとトモエは口にする。


「ネネネちゃんにぃ、手を出すなぁ! 私が……私が、護るんだから、ぁ……!」


 ネネネを守るためなら、自分がどれだけ削られても構わない。ネネネを守るためなら、どんなことされても耐えてみせる。


 それがどれだけ容易ではないか。どれだけ辛い事か。どれだけ屈辱的な事か。トモエも、そして『XXX』も知っている。普通のバイオノイドならすでに心は壊れているし、心の強いクローンでも許してくれと懇願するのに。


(逃げ道を与えて言うことを聞かせようとしたのが、裏目に出た……? なんでこんなに意地が強いのよ! もう耐えられないなんて、アンタ自身が理解してるくせに!)


 トモエの気丈な言葉に『XXX』の方が気圧される。しかし、ここで挑発に乗って全力でトモエを壊すわけにはいかない。この人類……正直信じられない事この上ないが……の記憶は自分に舞い込んできたビックチャンスだ。粗雑に扱うわけにはいかない。


<……ふん。そこまで言うのなら、逆にこのおチビちゃんを先に壊したほうが面白そうね。何もできない悔しさを、そこで惨めに噛みしめなさい>


 精一杯の強がりをトモエに放つ『XXX』。トモエの体は触手で拘束している。自分の優位は変わらない。なのに、負けた気分にさせられる。惨めに許しを請うと思っていたのに、強気に出られてしかも逃げるなど言われるなんて。


 そうだ。優位なのは自分なのだ。『XXX』は脳内物質を投与して落ち着きを取り戻す。冷静になれば――気づくこともある。さっきまでいなかったはずの人影に。


「いやいやいやぁ。惨めなのはそっちの方だよ機械さん。勝ち負けで言えば、アンタの負けさね」


 声はこの部屋唯一の扉から聞こえてきた。『デウスエクスマキナ』の仲間が出ていった扉。そこに立っているのは――


<IZー00210634……超能力者エスパー!?>


 目的の超能力者エスパー。ムサシだ。


「やめてくれよぅ、そんな言葉。お姉さんはただの酔っ払いさ。二天のムサシと呼んどくれ」

<馬鹿な!? アンタとはついさっき『糸使い』が接触したはず! こんな短時間であいつから逃れられるはずなんて……!>

「うんうん。たいした相手だったよねぇ。お姉さん相手に14秒も耐えられたんだから。ま、アンタは――」


 IZー00210634――ムサシは無造作に部屋に入り、左手を突き出す。その先には青く光るフォトンブレード。その先端が『XXX』の胸を貫く。


「これでおしまい。1秒も要らなかったね」

<あ……! 記憶部位を破壊された……! どうしてその場所を……!?>


 フォトンブレードは『XXX』が切り取った脳内記憶を保存する記憶媒体を正確に貫いていた。バックアップを取ることもできず、データは破棄され再現不能になる。命乞いをしながらデータのバックアップを電子上の倉庫に転送するつもりだったが、それもできなくなった。


 ありえない。ムサシがどれだけ機械技術に長けていたとしても、オーダーメイドと言ってもいいぐらいに個体差がある完全機械化フルボーグの構造を完全に理解できるはずがない。的確に、一撃で、僅か数センチ四方の、記憶媒体を貫くなんて――


「さっきも言ったろ、おしまいだって。お姉さんが知ってた理由よりも大事なことがあるんじゃないかな? 具体的には自分の命とか」


 まるで全てを知っていたかのように動いたのだ。記憶媒体の場所も、自分がどうしようとしていたかも、何をされれば自分が一番困るかも。全部分かってなければこんなことはできない。


 何故? 出会ったのはこれが初めて。『XXX』がトモエにやっていることだって理解できなかっただろう。記憶奪取。仮に理解していたとして、普通は脳刺激を与える触手か移動を封じるためにサイバーレッグを斬るのが常道なのに。


 これまで『デウスエクスマキナ』の計画のように、一番困る場所を正確にやられたのだ。


(……もしかしたら、私達は絶対に勝てない相手に挑んでしまったの……?)


『XXX』は自分が調べようとした相手の恐ろしさを、初めて認識した。

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