元の世界に帰れる手段がないなら

 目を覚ます。見慣れた天井。なじんだベッド。


 柏原友恵はベッドの上で伸びをして、アラームが鳴るスマホに手を伸ばす。スワイプしてアラームを閉じると、まだ覚醒してない脳を覚ますために自分の頬を撫でた。


「んー。いい天気」


 窓の外に広がる快晴。雲は穏やかに流れ、太陽は明るく照っている。今日もいい天気だ。壁にかけてある制服に着替え、洗面所に向かう。顔を洗って歯を磨き、そのころには朝食もできている。


 西暦2020年代のよくある日常。その世代の『一般家庭』ともいえる環境がそこにあった。


「ママー、今日のご飯何?」

「目玉焼きにベーコンよ。早く食べてよね」

「はーい」


 鼻腔をくすぐる味噌の匂い。ちょっと濃いめの赤味噌とごはん。そして目玉焼きとベーコン。手を合わせてそれを食べる。朝食時はスマホ禁止。古臭い考えの父親の教えだ。だけどテレビは見ていいとかどういう事よ? そんな不満も生活のスパイス。友達と話すネタの一つだ。


「ごちそうさまー」


 食べ終わった食器を洗い、家を出るトモエ。ここから学校までは電車で二駅。駅までは10分ほどの距離だ。毎日歩いている道のり。昨日も今日も変わらない道のり。


「うげ。シャンシャンが結婚とか、マツリのブチキレ案件じゃないの。メンドクサイなぁ」


 駅で電車を待ちながらスマホでSNSの確認。流れてくるニュースに呻き声をあげる。好きな芸能人のスキャンダル、アーティストの新曲、後は身の回りのニュース。学友の呟きや会話。それらを確認している頃に電車が到着する。電車の中でもスマホを見て、駅に着いたら歩き出す。


「おはよー」

「おはよー」


 学校が近づけば同じ時間帯に登校する学友ともすれ違う。別クラスの友人。同じクラスの人。朝練を終えた人達。軽く挨拶を交わし、トモエは自分の教室に向かう。階段を上がり、自分の席に座る。


『数学は公式を覚えることが大前提です。公式を知らないと問題へのとっかかりがありません。試験対策、受験対策。そんな覚え方では本番で忘れてしまいます。公式を覚え、そして使う。それを繰り返し、身につけましょう』


『ローマとは何か。歴史的にローマと呼ばれる国家樹立は紀元前753年と言われています。最初は複数の民族が集う多民族都市でしたが、様々な敬意を経て地中海全域を支配する大帝国になりました』


 学校の授業は退屈なものだ。だけどテストのために覚えないといけない。やりたいことなんて特にないけど、今は勉強しておけとうるさいからやっている。こんな知識、大人になって使う事なんてないだろうけど。


『ホルモンとは、外的要因により体内に分泌される物質の事だ。血液た体液に乗って体内を循環し、特定の部位で刺激して様々な効果を発揮する。血中のカルシウム濃度を変化させたり、成長を促したりだ。男女などでも異なり、女性ホルモンの中でも卵胞ホルモンエストロゲンは――』


「…………え?」


 トモエはエストロゲンの言葉を聞いて、意識がかくんと揺れる。その名称は少し恥ずかしい天蓋の記憶を思い出させる。天蓋ってなんだっけ? 忘れていた記憶。だけど少しずつ思い出される記憶。夢から覚めるように、現実が色濃くなる。


 不意に寝落ちしそうになったかのように、意識が真っ白になった。そして世界にノイズがかかったかのように、揺れ始めた。


「ああ、ああああ」


 手を伸ばすトモエ。そんなことをしても届かないことなど知っているけど、手を伸ばしたかった。届いてほしかった。自分が元居た世界。自分がいるべきだった場所。これからも変わらないはずの日常。……時折、夢に見る異世界転生する前の記憶。


 それに手を伸ばし――


<ライブセンスのバッテリー残量10%を切りました。安全面を考慮して、五感同期を終了します。カシハラトモエの意識覚醒、確認>


 スマホから聞こえるツバメの声。意識は覚醒し、トモエは全てを思い出していた。


「そっか。これがライブセンス。あれがリアルダイブのVR世界で、私の脳内世界か」


 ここは天蓋。遠い未来か遥かな異世界か。そこにあるニコサンのビルの中。2020年代の日本じゃなく、企業が納めるクローン達の街。


 トモエは自分の頭部についている器具を外す。粘着性のあるワッペンを剥がし、大きく息を吐く。五感全てで感じる世界は、確かに現実と変わらなかった。


 ライブセンスを使って自分の脳内世界に侵入したトモエ。そこにあったのはトモエが元居た時代だった。西暦2020年代の世界と何一つ変わらない。当たりまえだ。ベースとなっているのはトモエの脳内記憶。それと寸分たがわないのは記憶元だから当然である。


「……そっか。味のデータを求めて自分の脳に入ったんだよね」


 ニコサンのビルに来たトモエはライブセンスを譲り受け、ニコサンのビル内で使用したのだ。ニコサンにもトモエの時代の味データを知ってほしいという考えで、すぐに実行したのだけど……。


「元の時代の記憶に没頭しちゃったなぁ……」


 そんな目的を忘れ、元居た時代の生活にハマっていた。ハマっていたどころではない。天蓋の事を忘れ、あちらが現実なのだと勘違いさえした。脳内の記憶を日常を受け入れ、天蓋のことを忘れていた。


 だが、それは仕方のない事だ。トモエからすれば17年間過ごした西暦の記憶の方が多いのは当然である。ホームシックに似た郷愁感が湧き出てきた。


(元の世界に帰れる手段がないなら)


 異世界召喚、或いは時間跳躍。天蓋という未来世界に召喚されたトモエは、時々それを考える。よくあるWEB小説や漫画では女神が帰る手段はないと断言したり、元の世界と異世界を行き来する話もある。


 少なくとも、トモエは元の時代に戻れる手掛かりすらない。


(ならいっそ、夢の中にある世界に籠るのがいいんじゃないかな……?)


 辛い現実。受け入れられない未来。それから逃れるために、かつての『人類』はVR世界に籠った。トモエはそれを最初受け入れられなかった。いつか見た映画みたいにVR世界から目覚めた『人類』が反逆するのではとさえ思った。


 だけど、それはない。あれだけリアリティの高い夢なら目覚めようなんて思えない。そもそも夢だなんて気づく余地がない。


 言葉通り、五感を支配されていたのだ。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。五感は脳が感じる世界のセンサーだ。現実せかいを感じるセンサーをコントロールされて、現実の存在に気づけるはずがない。


「VR世界に籠ったこの世界の『人類』の気持ちがよくわかるわ」


 ため息をつくトモエ。技術を体験すれば世界が変わる。固定電話から携帯電話、そしてスマートフォンへと進化した通話ツール。いまさらガラケーに戻して生活できるかと言われればまず無理だ。一度利点を知ってしまえば、そこからもう戻れない。


(……ずっとあの夢を見ていたら、帰ってこれなかったかもしれない)


 ライブセンスのバッテリー切れ。それによって夢から目覚めたトモエ。だけどそれがなければ目覚めることはなかっただろう。天蓋の事を忘れ、むしろこちら側を夢だと思って。


「お、目覚めたか。トモエ!」


 目を覚ましたトモエに反応するネネネ。ライブセンスでVR世界に籠っている間、トモエの護衛という事で傍にいたのだ。ニコサンのビルだから危険はない……と言いたかったけど、以前誘拐されたので油断できない。ニコサンもあれ以降は警備を増やしたと言ってはいるが、念のためである。


「うん。目覚めた……目覚めたのかな? 実はこっちが夢だったりしない?」


 確認するように問いかけるトモエ。あまりにリアリティの高いVR世界だったため、今起きている世界の現実味が薄れていた。トモエの場合、状況が特殊なこともあってかその酔いは顕著だ。


「大丈夫だぞ! こっちが現実だ!」

虚実同期症バーティゴね。初めてのVR体験だとそうなるクローンもいると聞くわ」

「はあ……」


 クローンでも現実と虚構VRの区別がつかなくなる現象があるらしい。バーディゴは元々航空中のコックピットが起こす三半規管と平衡感覚のずれを示す症状だが、深く仮想現実を体験できる時代になりその意味も広まってきたという。


 仮想現実で感じた事が正しいと信じて現実の状態を無視するため、状況によっては犯罪行為に走る可能性があるという。脳内の『NNチップ』が覚醒用の脳内物質を多く分泌すれば収まるが、あえて少なく分泌させ余韻を深く楽しむクローンもいるとか。


「あ、味データって結局どうなったの?」


 トモエはそれを目的に自分の脳内というVR世界にダイブしたのだ。その目的が達していないのなら意味はない。


「トモエちゃんの経験は自動的に保存されてるわ。後はそのスマホ? それを使って味データだけを抽出すればいいわ」

<Pe-00402530のお勧めに従い、アプリケーションはダウンロード済みです。データ抽出しますか?>

「お願いするわツバメ。言っても食べたのって朝食だけなんだけどね。あとはパックジュースぐらい?」


 味覚データを取り出すという目的は一応果たしたが、そこまでバリエーションは多くなかった。もう一度VR世界に行って体験すれば増えるんだろうけど……。


(……ちょっと、怖い。もう一回行ったら帰ってきたくなくなるかも)


 五感全てで感じた西暦の日々。それはトモエの記憶そのものだ。17年分の記憶。命を狙われることなく、慣れ親しんだ物だけがある優しい世界。辛い記憶を再現しなければ、いつまでも見続けられる都合のいい時代。


 その安らぎを感じながら、トモエはゆっくり首を振った。だめ。そこに逃げたらクローン達は路頭に迷う。助けるって決めたんだもん。折れそうになる心を叱咤して、意識を天蓋の明日に向ける。大丈夫。まだ、折れない。


<味データ、抽出完了。Pe-00402530のクローンIDと同期します>

「ウフフ。これがそのデータね。早速展開させてもらうわ」


 トモエが悩んでいる間にツバメはライブセンスで見たトモエの記憶から味覚を刺激したデータだけを抽出する。ID同期したニコサンはそれを展開した。味を感じる脳部分が、その刺激に震える。


「きゃあああああああああ! 何この味!? ふんわりして甘くてそれでいて暖かいわぁ! この液体も今まで感じたことのない味! 白くて柔らかいも溶けるように砕けてすんごぉぉい!

 あ、あ、あああああああ! 柔らかくて蕩けて、それでいて脂分高めなのにカリカリしたのが口の中で踊ってる! 味と舌の感覚がここまでマッチするなんて! こんな味、今まで感じたことないわよぉォぉぉ!」


 ごはん、豆腐のみそ汁、お新香にベーコンエッグ。簡素な朝食だったけど、ニコサンからすれば感激ものらしい。天蓋では穀物類などの口に入れる食べ物はランク2にしか手に入らない。炊いたご飯と焼いた卵とベーコン。それを味わったことのあるクローンは数少ない。


「ネネネちゃん! アナタも味わいない! ほら!」

「アタイ、さっきすごく辛いヤツをダウンロードしたから、よくわからないのはあまり開きたくない――おおおおおおおおお!? トモエ、これ、ウマい!」


 ニコサンから共有されたデータを解放し、即オチ2コマとばかりに驚きの声をあげるネネネ。語彙力が消失しているけど、それほどインパクトがあったのだろう。少なくとも演技やお世辞には見えない。


 これはいけるかもしれない。トモエに少しずつ、成功への道が見え始めていた。


「あのニコサン……。すごく言いずらいんだけどもう少しだけお願いしていい?」


 トモエはつばを飲み込んで、ニコサンに更なる出資を求める。その内容は――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る