甘いエストロゲンの香り

前向きなのはいい事だな

 天蓋に生きるクローンは、全員『NNチップ』を持っている。


 そしてそれを前提に設備は作られる。脳からの命令を受けた『NNチップ』はその命令を電子化。そして各設備に伝達する。ドアの開閉や天井のライトや水道などのインフラ。掃除機に洗濯機と言った生活機器などだ。


 バイオノイドは『NNチップ』を持っていないため、クローンが世話するようにそれら施設を動かす。基本的にバイオノイドはクローンの持ち物で、持ち主不在のバイオノイドは処分対象だ。バイオノイドが単体で企業施設を利用することはまずありえない。


 まあそういうわけなので。


「コジロー、シャワー浴びたい」

「へいへい」

「あ、こっち見るな! 目隠してよ!」


 シャワーを浴びたいトモエは、わざわざコジローを呼んでシャワーを起動させる。起動だけならともかく、お湯の温度や出力調整などを行う際にも呼ぶ必要があった。


「髪乾かしたいんだけど、ドライヤーある?」

「あるぜ。『NNチップ』ないと動かないけど」

「……ごめん、お願い」


 この程度ならまだましな方で、


「コジロー……その、トイレ……」

「あいよ」

「平然と対応するなばかー! あと匂いとか嗅いだら舌嚙んで死ぬからね!」


 などと乙女の尊厳にかかわることまでコジローに頼らなければならないのだ。


「もう、なんなのよこれ! これじゃあ私、コジローのペットみたいじゃないの!」

「バイオノイド用の簡易トイレでも買ってきてやろうか?」

「デリカシー! デリカシーって単語を検索して!」

<検索完了。繊細、気配り、配慮といった意味合いになります。Ne-00339546に生理現象及び性的な領域に踏み込まれたくないことかと>

「ツバメもツバメでマジで受け取らないでよー!」


 融通の利かないナビゲーションシステム『ツバメ』――結局コジローは根負けして、名称変更権を購入した――の返答に悶えるトモエ。繊細や配慮と言った文化から遠いコジローからすれば、どうすればいいのかわからない。


「まあ、コジロー……っていうか『NNチップ』がないと何もできないのはわかってるけど」


 散々悶えた後に、トモエはため息をついた。コジローの家に匿われて三日。兎にも角にも何にもできないことを痛感する。


 買い物をするにも通貨は電子データ。それを稼ごうにも身元証明も電子データ。仮に芸をして賃金を得たとしても受け取るためのデバイスがない。何をするにしても『NNチップ』が大前提だ。


「もっともそのおかげで、外に出ても『重装機械兵ホプリテス』の警邏ドローンに捕まることはないからな。あいつら『NNチップ』のデータ照合みて動くタイプだし」

「ホテルのロボットもそうだったけど、見たり聞いたりで動くんじゃないのね。この世界の警察」


 トモエは机の上においてあるネコミミのヘアバンドを手にしてコジローの言葉に返した。外に出る時には『ネコ型のバイオノイド』という事でこのヘアバンドをつけるように言われているのだ。雑な変装で呆れたが、誰もトモエを奇異には思わなかった。


 コジローの言うとおり、クローンIDがなくて見た目に動物部分があればおおよその者はバイオノイドと思ってくれるようだ。ドローンなどの機械に至ってはIDが存在しないトモエはそこにいない扱いである。


「ケーサツってのが何かはわからんが、ID認証の方が確実なんだよ。見た目なんざサイバースキンですぐに変えられるからな。手術すれば性別だって変えられるぜ」

「TSまで思いのままとか、ほーんと凄いわ」


 子供は生めないけど、とつぶやいた後でため息をつく。


「じゃあバイオノイド? IDのない人が泥棒とかしたらどうなるの?」

「バイオノイドは人じゃないけど……その持ち主が処罰されるぜ。命令したっていうログが『NNチップ』とバイオノイドの脳内に残ってるから一発で分かる」

「バイオノイドが命令されずに犯罪をするとかの場合は?」

「そもそもそのケースが想定外だ。バイオノイドはクローンに逆らえない。企業と持ち主に従順であるように徹底されてるんだよ」

「……徹底的に道具なのね」


 トモエの時代でも法律上動物は道具として扱われた。動物の罪は飼い主の責任。動物の死は器物破損扱い。


「夢の未来世界ね。異世界転生なのかタイムスリップなのかわかんないけど」

<否定。次元転移および時間跳躍理論は天蓋暦1年に研究凍結しています。以降、これらの研究が進んだ記録は見られません>

「してたんだ、そういう研究。っていうか凍結? 途中で止めたってこと?」

<肯定。物質の転送は理論上不可能と判断し、凍結しています>

「ここに生きて体ごと転生してきた例があるのに。……何がどうなってかとか全然わかんないけど」

「さすがに280年後に成功例が出てくるなんざ、オシャカ・サマーでも予測も推測もできなかったろうぜ」


 言いながら腕立て伏せをするコジロー。それを見ながら、トモエはぼそりと呟く。


「そう言えば、天蓋だっけ? この空」

「空?」

<天蓋の外を指します。これ以上の情報を得るには市民ランク5が必要です。クレジットを使って市民ランクを上げますか?>

「あげない。そんなクレジットはない」

「ビンボーね、コジロー。それはともかく、天蓋って要するに空にフタして囲ってるってことよね? フタの外に別の街があるの?」

<否定。動物界の生命体は天蓋内のみに存在します。天蓋の外は植物界のみ。昆虫類などはいますが、その生態は不明です>

「あー。世界滅んじゃった系の未来世界か」


 ポストアポカリプスかー、とつぶやくトモエ。だが、世界が滅んだとは思えない技術である。少なくとも滅びに面しているとは思えないし、住んでいる人が世界の終わりに絶望している様子もない。外の事はわからないけど。


「ねえツバメ。西暦から今までどうなったか教えてくれない? あ、コジローの市民レベル? その範囲内で」

<了解>


 トモエの質問に答えるツバメ。コジローは『俺の相棒なのになぁ』とぼやいていたが、その意見は誰にも届かなかった。


<西暦2037年9月21日に、人類は一つの転機を迎えます>

「む。ウィルスパンデミックで文明絶滅? それとも隕石衝突で大爆発からの氷河期突入? 温暖化で南極の氷が解けて大洪水? あるいは第三次世界大戦?」

「なんだよそれ?」

「世界崩壊鉄板のネタよ。あ、世界中の人が石化とかもあったわね」

<否定。キャスリーン・ブレイジャーを始めとするVR開発チームが『ライブセンス』を生み出しました>

「らいぶせんす?」

<VR空間内で五感を感じることができるプログラムです。脳に刺激を与えることで五感の代替をします。現在では『NNチップ』内に標準装備されていますが、当時は外部機器でした>


生きた感覚ライブセンス』……これまで目の焦点を利用した3D映像だったVR世界は、このプログラム以降その意味合いを大きく変えた。脳に刺激を与えるために張るテープ状の絆創膏と、10センチ四方の平べったい装置。これだけで誰もが仮想現実を経験できるのだ。


「フルダイブVR! そっかー。完成するんだ」


 視覚と聴覚をリアルに再現できるヘルメット型VRシステムはトモエの時代でも存在していた。だが、触覚と味覚と嗅覚の再現は夢の世界だ。


<『ライブセンス』完成により、人類はよりVR空間に没頭していきます。そして人類はVR空間を新たな生活空間とするようになります。自ら好みの世界を作製し、そこに没頭しました

 そして全人類はより効率的にVR世界に籠るために、脳以外を不要と判断して廃棄しました。天蓋は脳のみとなった人類を納めるための施設です。当時のエネルギーや住居問題なども含め、そちらの方が良いと判断したようです>


 肉体を捨てて、VR空間で生きていく。自分の好きな空間を作ってもらい、それを管理する存在を作って自分達は延々とその世界で生きていく。理想の世界。理想の恋人。理想の物語。それがそこにあるのだ。


 辛い現実よりも望んだ理想を選ぶ人間が多く、そしてそれを維持するだけの技術力もある。人口問題やエネルギー枯渇問題も含め、人類は脳だけで生きている方がいい。そんな意見が台頭してきたのだ。


「うわ極端……。反対した人とかいなかったの?」

<肯定。賛成派と反対派に分かれ、大規模な論争が行われました。その結果、反対派は

「……それ、論争だけじゃないよね。絶対戦争とか起きてるよね?」

<記録上は議論により解決とあります>


 にべもないツバメの言葉。トモエは眉を顰めるが、それでどうにかなるわけでもない。それらが起きたのは、遠い過去の話なのだ。トモエからすれば未来かもしれないが。


「……で、そのまま全人類がVR空間に行ってAIに世界を乗っ取られるパターン? この天蓋の支配者は実はAIだったってオチ?」

<否定。人類は天蓋の管理者として5名の人物を選出しました。『イザナミ』『ジョカ』『カーリー』『ペレ』『ネメシス』です>

「5大企業代表の名前だな」

<管理者は人類の遺伝子バンクからクローンを作り出し、それらを労働者として経済を回しました。それが今の天蓋です。西暦で言えば2068年3月1日0:00。この瞬間を天蓋暦元年と制定しました>

「ってことは今が天蓋暦287年ってことだから……西暦で言えば2355年てことか。まあ、私の時代の時間軸とこの世界が繋がっているか、わかんないけど……」


 ぶつぶつと何かを言うトモエ。連続時間軸だの、マルチバース理論だの、特異点だの、タイムパラドックスなど。そして一分近くそうした後に、がっくりと首を垂れる。


「私の時代の未来かも知れないし違うかもしれない。異世界かもしれないし、つながった未来かも知れない。結局わかんないってことね。分かったところでどうなるわけじゃないけど……よし!」


 何かを吹っ切るように声をあげて、拳を握って立ち上がるトモエ。


「とにかく目の前の問題から解決しないとね。一歩ずつ行きましょう」

「前向きなのはいい事だな。

 とりあえずの問題は、トモエの戸籍データだな。現状は俺が所有するバイオノイドってことで誤魔化してるが、企業に申請してないから調査されたら廃棄処分まっしぐらだぜ」

「所有って……コジローの奴隷扱いみたいなんでヤだなー。コジローがいやとかじゃなくて、奴隷扱いがってことなんだけど」

「奴隷。古典ラノベで聞いたことあるぜ。クレジットで半永久的に購入する異性体だな。

 なんで嫌なのかはわからないが、現状それ以外に手はないぜ。トモエに『NNチップ』を植えることはできないしな」

「道具扱いされるのが嫌なのよ。……あとラノベの奴隷とか、主人公の肉……性……ああああああああ! とにかくそういうことなの!」


 いきなり顔を真っ赤にして叫ぶトモエ。コジローもある程度慣れたのか、スルーしている。触れてはいけない『乙女の領域』と言う奴だろう。いまだにそのテリトリーを理解しているわけではないが。


「せめてスマホが使えたらなぁ……」

「何だよその板切れ?」

「私の時代のデバイス? ネットにつなげる道具よ。5GとかWi-Fiとか全然反応ないけど」

「相棒」

<検索完了。天蓋暦以前に発達した情報端末です。『NNチップ』の前世代的存在です>

「要するに、骨董品レトロてことか」


 にやりと唇をゆがめるコジロー。『レトロいうな。私の時代じゃ最新……の次ぐらいの機器なんだからね』とトモエは言うが、それを無視してコジローは言葉を続ける。


「そのすまほとかで何とかなるかもしれないぞ」

「マジ?」

「そういうのが好きな奴がいるんだよ。そいつに頼めばID代替も行けるかもしれないぜ」

「やりぃ。これで気兼ねなくトイレに行ける!」


 コジローの言葉に笑みを浮かべるトモエ。


「……普通にトイレに行けるようになるためのイベントとか、ホント勘弁してほしいけどね」


 喜んだあとで我に返り、少し落ち込むトモエであった。

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