未来へ

 俺は気がつくとビーチにいることが多くなった。それは朝倉から島の真実を聞いてからだろうか。無意識に足がここへと向いてしまう。


「やっぱり興味あった?」


 堤防から続く階段に腰掛けていたら、どこからか現れた佐伯先生が声をかけてきた。


「汐江くん、昨日も来てたでしょ」


 今日は学校が休みにもかかわらずウェットスーツを着ていない。珍しくTシャツにジーンズといったラフな格好で現れ、なんだか変な感じがした。


「今日はやってないんっすね」

「なにを?」


 三段ほど離れて座る先生は意地悪く聞き返してきたかと思うと、にやりと笑みを浮かべる。すぐにムッとして睨みつけたら豪快に口を開けて笑い出した。


「ごめんごめん、冗談だって」


 俺に何かを言わせようとしているのがすぐに分かり、ため息交じりに遠くで波打つ水面に目を向ける。そのときウィンドサーフインの帆が視界に入った。


「なんで続けてるんですか」

「んー?」

「挫折して夢は諦めたって言ってたのに。嫌にならなかったんですか」


 なぜか自分の方から話題を振っていた。


 先生はウィンドサーフィンでプロになれず諦めた過去を持つ。でも彼女は今でも楽しそうにそれを続けていて、理解ができない世界に正直不思議に思う。


 俺は競泳への夢が絶たれたと分かってからプールに入ることすら嫌になった。もう二度と夢を追えないという現実を突きつけられてしまいそうで怖かったからだ。


「んーそうだねえ。たしかに汐江くんぐらいのときはまだ辛かったかな。こんなに好きでこんなに頑張ってるのに、私にはこれが限界なんだって思い知らされてもどかしかった」


 夕暮れに照らされて先生の顔が赤く染まる。

 遠く遠くを見つめてそう言いながら、それでも彼女は微笑んでいた。


「でも、やっぱり楽しいだもん」


 何の曇りもなくそう言った先生の言葉が心に強く突き刺さる。


「風と一体になって走る爽快感。あれが本当にたまらなくてさ。やめたくてもやめられなかった」


 俺はそんな純粋な気持ちをいつからか手放していたことに気づく。


 泳げるようになってどんどん上達していく自分に興奮し、夢中になり始めていたとき。あの頃が一番純粋に泳ぐことを楽しんでいた気がする。


 オレンジ色に染まる向こうの空には水上を進んでいく人影がうつる。そこには何度も波にのまれながらも立ち上がり、また帆を立てては挑戦し続ける姿があった。

 

 しばらくしてその人物はゆっくりと砂浜に上がってくる。マリンスポーツとは縁がなさそうな覇気のない男。俺と同じここの生徒のようだった。


「あの子ね、人付き合いが苦手そうでさ。友達もいない趣味もないで、この島に来たての頃は毎日のようにぼーっとここで座ってたの」


 唐突に話し出すのは視線の先にいるあの男のことだろう。


 すかさず手を振る先生に気づきぺこっと頭を下げた彼は、隣に俺がいると分かりすぐに進路を変えていく。


「だからね、ウィンドサーフィンに誘ったの。暇つぶしにでもやってみなさいって。そうしたら物の見事にはまっちゃって。今じゃ練習見てくれって私のこと引っ張り回すのよ」


 先生はどこか嬉しそうだった。


 俺は視線をそらし、また遠くに目を向けながら気のない声を出す。

 最近どうしてふらふらとここへ足が向いてしまうのか。分かっているようで分からない自分の感情にムズムズとした感覚を覚え、頬杖をついてぼんやりする。


「才能があっても夢破れざるを得なくなったあなたと才能がなくて挫折した私とでは天と地ほどの差があると思う。だから、そんな私に簡単になんて言われたくないだろうけど」


 突然落ち着いた声で語り出す先生の背中が少し違って見えた。不意にこちらを振り返ってまっすぐと見つめられドキッとする。


「でもね、失ったままなんてもったいないよ。まだ若いんだ。後先考えずにがむしゃらに挑戦してみるって今しかできないことだと思う。大人になったら余計なことばっかり考えちゃうもんだからさ」

「がむしゃらに……挑戦……」

「あなたの未来には可能性があるの。今からなにもかも諦めたなんて言ってほしくない。一歩踏み出してみれば必ず世界は広がるんだから」


 ゆっくり立ち上がる先生は大きく両腕を広げて体を伸ばす。そして満足したように俺を見てニッと笑顔を向けてきた。


「暗くなる前に帰んなさいよ」


 帰り際、額をつんと指でつつかれ思わず体がのけぞると、去っていく後ろ姿はひらひらと手を振っていた。



「海くん」


 暗くなっていく空を見ながら階段の一番上で地面に寝転がっていたら、聞き慣れた声に呼ばれる。


「なんで」

「んーなんとなく。ここかなあって」

「こええよ」


 顔を向けるとそこには月がいて、彼女は笑いながら隣に座って同じように仰向けに寝転んだ。


「嘘。家に行ったら熊くんがここだろうって」

「そっか」


 彼女はそれから少し黙ったまま、ただ一緒に夜空を見上げた。


「海くん、ありがとね」

「ん?」

「ちゃんと立ち直ってから言おうと思ってた。あのとき海くんが代わりに怒ってくれたから、私の心は救われたよ」


 ちらりと見ると彼女の横顔はすっきりと晴れやかな表情になっていた。


「熊の勉強、見てやんなくていいの?」


 安心した俺はそれでなんと返したらいいか分からずに黙り込み、ふと思いついたように話題をそらす。


「もうあれは自己責任だよー。そこまで面倒見切れません」

「そんなこと言ってもあと一週間ないけど」


「ウィンドサーフィンやらないの?」


 すると突然脈絡なく返ってきた言葉。驚きを隠せず飛び起きた俺は、表情ひとつ変えず微動だにしない月をじっと見つめる。


 そもそも誰にも話した記憶なんかなく、どうして彼女が知っているのかと目を丸くした。


「熊くんがね。海は最近しょっちゅうその動画見てて、競泳を夢中でやってた時と同じだって。だからきっとやりたいんだろうなって言ってたよ」


 時々、熊には心底驚かされる。

 何も考えていないようで意外と周りが見えていたりする。一番人の気持ちにも敏感で、俺が引きこもっていたときもずっと気遣ってくれていた。


「また夢中になって失うのが怖いの?」

「多分、そうかもな」


 情けないが不思議と本音を口にしていた。


 正直、また同じ結果になったらと恐れているところがある。毎日それしか見えなくなるほどのめり込んでいたのに、一瞬で失う恐怖。そして大好きだったものが二度とできなくなってしまう苦しさ。


 ただただもう一度それを味わうのが怖かった。


「私がいるよ」


 そのとき、彼女が突然そう言った。


「今度は熊くんだけじゃない。私も林太郎くんナオミだっている。もしまたダメになったって何度できなくなったって、私たちがちゃんと暗闇から救い出してあげるから」


 月の言葉が俺の背中を押した。


 ずっと足踏みしたまま前に進めずにいた。


 自分との戦いの中を生きているのが当たり前だったから、時間が止まってしまったように毎日の生活にも張り合いがなくなってしまった。


「行っておいでよ」


 でも今、時計の針がまた動き出した気がした。未来に向かって刻む時間が動き出し、霧がかっていた景色にも晴れ間が見えた。


「やっぱり、月はいいところにボールくれるわ」

「ボール?何の話?」

「こっちの話」


 俺は空に向かって大きく両腕を伸ばす。


「やってみるか」


 彼女の言葉が新しい一歩を踏み出す勇気になった。

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