別れ__桜井月side

 私は暗闇の中にいる。


 あれからずっと頭は重く体はだるく、ベッドから起き上がる気力さえない。


 たまに桐島さんの声が遠くから聞こえてきた。何を言うわけじゃなく、「ねえ」や「ちょっと」という言葉だけが飛んでくる。


 心配したような言葉はなかったけれど、何度も部屋の前で声をかけてくれた彼女が言葉とは裏腹に心配してくれているのが伝わってきて、本当は嬉しくてたまらなかった。


 でも私は返事をしなかった。

 前までは仲良くなりたくて扉の前から声をかけ続けていたのは私の方だったのに、今では立場が逆転してしまった。


「月!」


 朝なのか昼なのかも分からない締め切った部屋の中で、久しぶりに熊くんの声を聞いた。


「月、出て来いよ」


 私を呼ぶ声から耳を塞ごうと布団を頭から被るが、ドンドンと扉を叩く音はひたすら続いて勢いよく起き上がった。


「うるさい!帰ってよ!」


 私はわざと突き放すような言葉を放つ。今は誰かと話す気分になんてなれなかった。


「入るぞ」


 しかしなぜか扉を開けた熊くんと目があい、私はベッドに置いていたクッションをひたすら彼に投げつけた。


「ちょっと着いて来てほしいところがあって」

「出てってよ、ひとりにして」

「月は来なきゃだめだって!」


 投げる物もなくなり、枕を持った手がピクリと止まる。大きな声が飛んできて私は目を逸らした。


「行くところなんてないってば」

「あるよ。月には見届ける責任がある」


 手を差し出してくる熊くんがいつになく真剣な目を向けてくる。お互い譲らず何度も首を横に振る私に対し、それでも動こうとしない彼を見て先に折れたのはこちらだった。


 服を着替え、渋々外に出ると久しぶりの朝日を浴びる。ずっと暗い部屋にこもっていたせいか眩しさに目を細めた。



「ちょっと待って、どこまで行くの。ねえ、熊くん」

「シッ」


 強引に自転車に乗せられ、私はなぜか先生たちが住む社宅の裏手に連れてこられた。


 腕を引かれながら茂みの中に入っていったら、木の陰で突然立ち止まった熊くんがそっと向こうの方を指さした。


「なんで……」

「月のために必死でどうにかしなきゃって動いてたんだよ」


 私は目の前の光景に目を丸くした。


 そこにはもう二度と顔も見たくないと思っていた誠くんの姿がある。そして彼を目の前に立ちはだかる海くんたち三人の姿を見た。


 突然の事態に戸惑いを隠せず、私は木にもたれかかり呆然と立ち尽くしていた。


「海がさ。林太郎が撮ったものの中にふたりが写り込んでるんじゃないかって言い出して、証拠になる写真をずっと探してたんだ」


 携帯の画面を突きつけられ動揺している誠くんは、遠くからでも分かるほど青ざめた顔をしていた。


「ごめん。俺ってば幼馴染みなのにな」

「え?」


 なぜか謝る熊くんを見て首を傾げると、頭をかきながら無理やりに笑顔を作った。


「月が星野先生と付き合ってるとかビックリしちゃってさ。昔から知ってた月が急に大人になったっていうか、頭がついてかなくて。俺、海が頑張ってるのをただ部屋の外で見てることしかできなかった。……本当ごめん」

「なんで、全部私の問題だよ。私が勝手についてきて、勝手に傷ついただけ」


 熊くんは何も謝る必要なんてないのに、申し訳なさそうに言う彼の横顔を見たら心が痛くなった。


「海もさ、同じだったから。引きこもってる月のこと放っておけなかったんだと思う」

「同じ?」

「ここにくる前はずっと引きこもってボロボロで、見てらんなかったから」


 私の知らない過去の話に私は言葉を失う。


 洞穴で無神経にも彼の過去に触れようとした時、声を荒げたのを見て何か抱えているとは思っていた。桐島さんと同様、踏み込んではいけないラインを引かれて厚い壁を感じたのを覚えていた。


「本当にすげえやつなんだ。天性の才能があるなんて言われててさ、将来競泳で日本のトップクラスも夢じゃないって実力があった。みんなの憧れで俺の自慢だった」


 向こうで話している彼らをぼんやりと見つめながら、懐かしそうに語り出す熊くんの声が耳に入ってくる。


「でも肺が悪いって分かって目指してたもの全部諦めることになったら、あいつ学校にも行かずに生きる気力を失ったみたいになっちゃってさ」

「海くんが……?」


 驚く私をちらりと見る熊くんは悲しそうな笑顔を作り、複雑な面持ちで頷く。


 私は初めて海くんの過去を知った。


「どうにか外に連れ出したくて。昔みたいに輝いてた海に戻ってほしかった。そんなとき、この島の話聞いてちょうどいいチャンスだって思ったんだ」


 不意に思い出すハロウィンの夜。あんなに踊りたくないと言っていたのに急にダンスに誘ってくるなんておかしいとは思っていた。


 でも今思えば、浮気現場を見てしまい動揺していたタイミングで海くんはその光景が見えないように視界を遮ってくれていた。あれも全て優しさだったのだと気づく。


 私の代わりに怒ってくれてどうにかしようとしてくれて、いつも守ろうとしてくれた。


 海くんはそんな過去と私を重ね合わせていたんだと知る。


 私は思わず彼から目が離せなくなっていた。



「先生たちもあんたの恋人の加賀美先生も、こんな抱き合ってる写真を見たらどんな反応するんだろうな」


 海くんの脅すような声が聞こえてくる。


「汐江くん、君は……」

「教育実習生の分際で生徒と交際してたなんて知られれば、大学にだって話がいって将来に響くんじゃないのか」


 証拠を突きつけられ、膝から崩れ落ちるように座り込む彼が海くんたちに頭を下げる。それだけはやめてくれと言わんばかりに情けない姿を見せる。


 大人でかっこよくていつも完璧な人だと思っていた彼の像が、一瞬にして崩れ落ちた瞬間だった。


「あいつはお前のことが好きだったんだよ。ただ近くにいたかっただけだった。それなのにその気持ち踏みにじるような真似して」


 海くんはぎゅっと握った拳に力を込める。


 しかし、誠くんはそんな彼の言葉を聞いて表情を変える。むくりと顔を上げ、あざ笑うような笑みを浮かべた。


「そんなの勝手についてきたあの子が悪い」

「ちょっと!」


 聞こえてくる言葉に胸が痛くて苦しくて、ずたずたに心を踏みつぶされている気分だ。


 でも声を上げて怒っている桐島さんが彼に向かって一歩踏み出し、その腕を慌てて掴んで引き止める林太郎くんの姿を見たら、思わずぐっと込み上げてくるものがあった。


 そのとき誠くんに勢いよく近づいた海くんが、胸の辺りで彼の服をギュッと掴んだ。


「勝手だったかもしれない。でもな、傷つけていい理由にはなんないだろ。あいつの……月の気持ちを何だと思ってんだよ!」


 自然と私の左目から溢れた涙が頬をつたっていく。


 こんな私のために必死になってくれる人がいて、私の味方でいてくれる人がいて、胸がぎゅっと締め付けられた。


「はぁ。本当、月ちゃんもあのまま大人しく待っててくれば何も知らずにいられたのになあ」

「お前っ」

「こっちもそんな写真ばらまかれたんじゃ迷惑……」


 その瞬間、体が勝手に動いていた。


「月ちゃん?」


 木陰から出ていき、足早に誠くんのもとへと一直線に進んでいく。そして彼の前から離れた海くんと入れ替わるようにして、気づけば勢いよく手を振るっていた。


 パンッと甲高い音がその場に響き、枝に止まっていた鳥たちも一気に空へ羽ばたいていく。


「私の前から消えて。もう二度と顔なんて見たくない」


 手の平がじんじんと痺れている。震える声で必死にそう言い放つ私の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。


「バラされたくなかったら自分からこの島を出ていくことです」


 後ろから淡々と告げる海くんの言葉で後ずさる誠くんは、むしゃくしゃしたように家の壁を殴り去っていく。


 彼の背中を眺めながら全て終わったのだと痛感する。私の恋にピリオドが打たれた瞬間だった。

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