小さなヨット
「……くーん、海くん聞いてる?」
翌日も、放課後はぽろにあんでの会議が続いた。名前を呼ばれてハッとすると、目の前には頬を膨らませムッとした表情でこちらを見ている桜井月の顔がある。
「もう聞いてなかったでしょ。衣装のデザインこれにしようと思うんだ、って」
「ああ、いいんじゃん」
そんな生返事をしながら、ぼんやり彼女を見つめる。
灯台であんな現場を目撃してからというもの、どうしても桜井月のことを考えるようになってしまった。
ハロウィンの話し合いなんてほとんど頭には入ってこず、あんな事実を知ってしまった俺は何も知らない彼女に言うべきか言わぬべきか、ただそれだけが頭の中をぐるぐると回った。
「ごめん、ちょっと歩いてくるわ」
彼女がいる空間はなんとなく落ち着かなくて、気分転換にひとりで外へ出た。
ぼんやりと無心に歩いていたら自然とビーチにたどり着いていた。
今日の波が穏やかだ。日差しがじりじりと肌に吸収されていくのを感じながら、おもむろに座った砂浜の上に足を投げ出す。
遠くの波打ち際で、濡れた砂の中を小さなスナガニがもがいているのを見た。
「どうした、悩める少年」
しばらく波の音に耳をゆだねていたら誰かの声が割って入った。顔を上げればウェットスーツ姿の佐伯先生が立っていて、短いボブの濡れた髪をかき上げながら隣にそっと腰を下ろしてきた。
「深刻そうな顔しちゃって」
「別に」
俺はそう反応しながらあぐらをかき、何気なく砂を手でさらう。そして沈黙は続き、先生の口からは小さな唸り声が出た。
「しょうがないなあ。君より少しだけ長く生きてる先輩が話でも聞いてあげようか」
その言葉にちらりと視線を向けたら、こちらを見てにんまりと笑っていた。しかし一瞬考えたが桜井月の話はどうやっても話せる相手ではなく、すぐに目をそらす。
「大丈夫っす」
「えー、つれないなあ」
つまらなそうに言う先生の言葉を無視して、俺はひとりの世界に入るように水平線の先を見た。
すると視界の端に小さなヨットのようなものが映りこむ。よく見るとサーフボードから伸びる帆の向きを変えながら、水上を滑るようにして進んでいる人がいる。自然とその姿を目で追っていた。
「もしかして興味ある?ウィンドサーフィン」
いつの間にか見入っていたら先生の言葉にハッとする。俺はそのスポーツを初めて目にした。
気づけば隣からは先生の姿が消えている。
水上からこちらに向かって手を挙げていて、見ていろと言わんばかりに動き出す。帆を操り水を切って進んでいくと華麗に回転を決める。そして大きな波に乗るとそのまま大きく跳ねあがった。
「どう?」
得意げに戻ってきた先生は砂浜にボードを置き去りにして、若干の息を切らしながら定位置のようにまた隣に座る。それから体の重心を後ろに倒し砂浜に両手をついたまま遠くを見つめた。
「私さ、若いときウィンドサーフィンでプロ目指してたんだよね」
その言葉に自然と顔が振り向くと、先生は俺に向かってにっこりと笑う。
「まあ結局才能なくて挫折しちゃったんだけどさ」
その瞬間、どこか自分とリンクする。
しかしそんな話しながらもどこか楽しそうな先生は笑っていた。
「ねえ、汐江くんも興味あるならやってみない?やってみたら絶対ハマるよ。他にもね、私が誘って始めた子が……」
「いいです」
そのとき、いろんな記憶がフラッシュバックした。
夢に向かう階段を順調に上っていたはずなのに、崩れた足場から真っ逆さまに落ちていくような絶望感。すべてを失ったとき自分の中には何も残らなくなった恐怖心は永遠に消えなかった。
「必死に何かに打ち込むとか、もう辞めたんで」
俺はおもむろに立ち上がり、冷たくそう突き返す。戸惑う先生の顔が俺を見上げていたけれど、一瞬ためらいながらも構わずその場を後にした。
もうあんな思いをするのは懲り懲りだ。
夢中になってしまえばしまうほど失ったときのつらさは計り知れない。あんなにはやし立ててきていたメディアも心無い記事で傷口を深くえぐり、期待を寄せていた視線は一気に腫れ物に触るような憐みの目に変わった。
そんな思いはもう二度としたくない。夢中にならず、ただ平凡に過ごしていれば何も傷つくことはないのだ。
「海くん?」
あっという間にレストランまで戻ってきていた俺は、ぽろにあんの入口で帰ろうとしていた桜井月と鉢合わせる。
「私今日バイトが入ってるから帰るけど、大丈夫?」
「ああ」
不思議そうに顔を傾ける彼女と目が合い、灯台の件を思い出す。結局その問題も残ったままで、散歩に出かける前と何も変わっていない。
でも今は他人のことを考えている余裕なんてなくて、まともに言葉も交わさないまま店の扉を開けた。
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