洞穴の会話

 俺たちは岩場の奥に洞穴を見つけ、ひとまずその中へ逃げ込んだ。


 天井からは一定の感覚をあけて水が滴り落ち、空気タンクを下ろした瞬間に金属製の音が反響する。


「どこ?まだ足つってんの?」


 座り込む桐島に近づいていき目の前にしゃがみ込む。しかし相変わらず言葉を発しない彼女は痛そうに顔をゆがめるだけで話そうとはせず、俺はそっと足に触れながら表情を伺った。


「こっち?」


 そして右足を持った瞬間に明らかにぴくっと反応を示す。彼女もその問いかけにはこくりと頷いた。


「力抜いて、そう」


 俺は足ヒレを取り、よく水泳のコーチからやってもらっていたストレッチを思い出しながらゆっくり彼女の足を動かしていく。桐島はまた一瞬顔をゆがめたがすぐに戻り、強張っていた体からすっと力が抜けていった。


 彼女は足を自分の方へと引き寄せ、ありがとうの一言もなしに目をそらす。


 俺は大きなため息をついてごつごつとした岩壁に背中を預けた。


「助けに来てくれるよね」


 波打ち際で突出する岩だらけの光景を目の当たりにし、桜井月は腕をさすりながら不安げに言う。


 俺もつられて外を見たまま深く息を吐いた。


「いないのは気づいてるにしろ、果たして見つけてくれるかどうかだな」

「どうして?」

「岩が邪魔して船はここまで入ってこれないだろうし、岸の方からはちょうど死角だと思う」


 暴風警報でも出そうな勢いで風の速度はさらに増していく。それに先ほどよりも水位が上昇してきていて、洞穴の面積が少しずつ狭くなっていた。


「よし!楽しい話しよう」


 桜井月は不安な空気を吹き飛ばすように満面な笑顔を見せる。


「ねえ、桐島さんって音楽好きなの?」


 そして声をかけた相手はなぜか桐島で、すぐにしんと静まり返った。


「いつも家でヘッドホンしてるから音楽でも聴いてるのかなって。違った?」


 何度無視され続けているか分からない。それなのに桐島から返答がなくても、話しかけるのを止めない彼女は打たれ強い。


 どうせ答えるはずもないのにと懲りない様子に心の中では呆れていた。


 桐島を見れば岩壁に頭をつけたまま無表情で一点を見つめていて、すっかり心を閉ざしている。


「歌ってたじゃん」


 俺はそんな彼女にしびれを切らし、ふとそう口走っていた。


 そのとき彼女の表情が動いた。信じられないとでも聞こえてきそうなほどひどく驚いた顔をして、大きく目を見開く。


「え?」

「ビーチで気持ちよさそうに歌ってたと思ったけど」


 耳を疑う桜井月に聞かせるよう俺は桐島に言葉を投げかける。すると彼女の顔はみるみるうちに赤くなっていき、ムッとしながらぎろりと俺を睨みつけてきた。


「桐島さんって歌うの?え、聴きたい」


 桐島の最大の秘密をばらしてしまい、唇をかむ彼女の鼻息は荒くなっていく。それでも興味津々の桜井月は空気なんてひとつも読み取る様子なく、ぐいぐい彼女のテリトリーに踏み込んでいった。


「汐江海。競泳界のプリンス」

「は?」

「未来のオリンピック候補。期待の新星」


 桐島が突如として声を出し、淡々と続けざまに言う。油断していたところで思わず反応してしまい、心臓がドクンと脈打った。


「桐島さんが……喋った」


 初めて聞く彼女の声は想像していたよりも低く、桜井月も喋った内容以上に突然の事態に驚いている。


 しかしこちらの動揺はそれだけでなく、蓋をしてしまいこんでいた記憶の箱を引っ張り出された気分だった。


「雑誌で見た」


 この島で俺の過去を知るのはせいぜい大人たちくらいだろうと思っていた。だから桐島がそれを知っていたことに驚きを隠せず、思わず衝撃を受けた。


 そんな中、桜井月は訳が分からないというように右往左往と俺らを交互に見る。


「余計なこと言ったお返し」


 桐島は呆然と固まる俺に追い打ちをかけるようにそう続けてきて、仕返しが成功したと得意げな表情を浮かべた。


 地雷を踏んでしまったようだ。


「そういう時には喋んのな」


 ため息交じりに面倒なことを言わなければ良かったと天を仰ぐ。


 荒々しい水しぶきの音が聞こえる中、視線を送ってくる桜井月がじわじわと近寄ってきたのが分かり無意識に頭をかいた。


「オリンピックってあの?海くん、そんな凄い人だったの?」

「もう終わった話だよ」


 目をキラキラとさせる彼女の表情が余計につらかった。


「でもこっちで泳いでるところ見たことないけど。あっ、今度……」

「もうやめてくれ!」


 思わず声を荒げてしまった。


 ハッとして顔を上げると、悪気なく楽しそうに笑顔を浮かべていた桜井月からだんだんと表情が消えていく。言葉を失ったまま黙り込むのを見て言い過ぎたと少しばかり反省した。


 それから彼女が黙ってしまうとその場の空気は重くなり、俺自身の心も余計に重たくなっていった。



 風が強くなっていく。洞穴にゴーゴーと吹き込む音も俺たちを不安にさせ、時間が経つにつれて自然の力に恐怖心が煽られる。


 すると、おもむろに立ち上がった桐島がなぜか岩場に向かってふらふら足を進めた。


「おい、何して……」

「助けなきゃ良かったのに」


 膝の辺りまで水面に沈んだところで慌てて桐島の腕を取ると、思いっきり振り払われる。小さく消えそうな声が潮の勢いにかき消された。


「あのまま波にさらわれて死にたかった。私なんて死ねば良かった」


 潮の流れに足がとられそうになるのを必死に堪えながら、思いつめたような顔で彼女の拳には力がこもる。


「私を助けたからあんたたちは死ぬかもしれない。誰も助けてなんて言ってないのに、勝手に助けたりするから」


 風の音に呼応するように彼女の声は次第に強くなっていく。俺は桜井月と顔を見合わせていた。


 桐島は誰とも関わろうとはせず、どんなに声をかけられてもひたすら無言を貫いてきた。だから、さすがに何かあるのだろうとは感じていたし、この島に来ているのはみんな少なからず何かしらの理由を抱えていると思っている。


 おそらく桜井月も彼女から何か感じ取っていたはずだ。それでも声をかけ続けたのは、そんな桐島がどこかもろく消えてしまいそうに見えたからだと思う。


 俺は本音を口にした桐島に何も言うことができなかった。夢を失ったあの時の俺と同じ。死にたいという人生のどん底を味わった気持ちは痛いほど分かる。


 だから何の事情も知らない俺が言う簡単な慰めの言葉なんて、彼女にとっては無意味だろう。それを自分が一番よくわかっていた。


「話し出すと止まらないタイプなんだね」


 しかし桜井月は違った。


「え」

「桐島さんってクールで全然話さない子だと思ってたんだけど、意外と人見知りしてただけ?一回話しちゃうとどんどん本音出してくれて、私は嬉しい」


 唖然とする桐島はぽかんと口が開いたまま固まっている。


 きっとこんな会話の中に、嬉しいなんてポジティブなワードが出てくるとは誰も予想しなかっただろう。でも桜井月は構わず桐島に近づきながらにっこり微笑む。


「桐島さんの思ってることもっと聞かせてよ。私たち友達なんだから」


 桜井月は驚いて固まる桐島の手を取り、洞穴の中に引き寄せる。俺も慌てて手を貸した。


「何言ってんの」


 戸惑う桐島は目を泳がせ、ひとりで壁に向いてしまう。でも俺にはそんな彼女が照れているように見えた。



 それから、ようやく風の音がおさまってきた。波も穏やかになり始め、外を見ると太陽を隠していた雲も晴れ間を見せる。


 しばらくして俺たちを探す船のエンジン音が遠くからこちらに向かって近づいてきていた。


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