扉は開かれた

黄色いロープ

「天気はもちそうね。海たち今日は潜るんでしょう？」

　朝食を食べているとマリアが外を覗きながら言う。

　ここ最近はカラッとしない天気が続いていた。窓を開ければ湿気にまみれた空気が入りこんできて、気温三〇度の中で降るスコールが一帯をじめじめとさせる。

　それは近くで発生した台風の影響を受けていたが、夜のうちに進路を大きく外れて通り過ぎていったため今朝の空気は少し違っていた。

「ああ、もう起こさなきゃ」

　忙しなく動くマリアは時計を見てため息をつく。いつものように熊の部屋へ向かい、扉を叩こうとしていた。しかし今日はいつもと違い、その扉が自力で開いたかと思うと中からは熊がのそのそと起きてきたのだ。

　予想外の状況に箸を持つ手元が止まり、みんなの視線が集中する。マリアも手をゆっくりとおろし、ソファで寝転ぶ林太郎ですら体をむくりと起こした。

「どうした」

　顔を洗ってきた熊がすんなり向かい側の席に座るものでたまらず声をかける。いつも家を出るギリギリで起きてくるため朝食は当たり前のようになかったが、唯一用意されていた特製スムージーを一気にのどへ流し込んだ。

「佐伯先生が言うんだよ。寝たら流すぞ、寝たら流すぞって」

「は？」

　トンッと音を立てて置いたコップの音ともに熊が真剣な顔で口を開く。

「絶対起きてなきゃって思ってるんだけどさ、瞼が閉じてきちゃって。そうしたら本当にでっかい先生が来て水道の蛇口ひねったんだよ。それで俺、排水溝に流された……って夢見た」

「何の話だよ」

　本当に焦ったんだと主張する熊の話を聞いて一番に反応したのはマリアだ。朝食を用意しながらお腹を抱えて大笑いし、涙を浮かべていた。

「いやあ、毎日そんな夢を見てくれるとこっちは楽で助かるんだけどねえ」

「ちょっと！本当に怖かったんだって」

　ひとりだけ補修になると脅した佐伯先生の言葉が相当効いたのか、この時間はいつも半目だが今日はばっちりと目を覚ましていた。

　俺たちは熊がうなされて起きてきたおかげで珍しく余裕をもって登校できた。

　早々とウェットスーツに着替えると岸で佐伯先生を見つけ、途端に悪夢の話が始まった。

「あはははは、可笑しい」

　もはやこんな話を真剣にしていた朝の方がもっと笑いものだったが、何度聞いても馬鹿馬鹿しい話に先生も大きな口を開けて笑った。

「先生ほんと勘弁して」

「なあに、でも役に立ったじゃない。目覚ましより効果あったみたいね」

　去り際にウインクする先生にため息をつく熊は、潜る実践練習を目前に頬を叩いて気合いを入れなおす。

　俺は林太郎と顔を見合わせ空回りしないかとそれだけが少し心配になった。

「いよいよ潜る練習に入ります。ただこのあと少し風が強くなりそうなので危ないと判断したら撤収します。みんなはこの船から絶対に離れないように」

　ダイビング講習は一枠につき十人程度の少人数制で、俺たちは小型船の上でスピーカーを通して話す佐伯先生を見上げながら波に揺られる。今日は監視役の先生がふたりほど追加されていた。

「とにかく息は止めないこと！前回教えたようにゆっくり深い呼吸を心がけてね」

　水中マスクで鼻が覆われているため、口呼吸をしているとたまに塩辛い水が口に入り込む。唾を吐きだしふと隣を見るとゴーグル越しにでもわかるくらい不安げな表情の熊と目が合った。

「マウスピースを咥えたらまずは息を吐くんだよな」

　ずっとぶつぶつ独り言のように唱えている熊を見て、こっちが心配になってくる。とはいえ今日は浅瀬での練習だ。近くには掴まれるような大きい岩場があるし、少し泳げばすぐそこに岸もある。俺はどこかそんな余裕を持っていた。

　佐伯先生の笛の音を合図に一斉にみんなが顔をつける。まだ顔をつける練習だとは言われていたが少しだけ潜れるような気がして沈んでみたら、なんだか昔の感覚が蘇ってきてとても気持ちがよかった。

　しばらく潜っては上がるを勝手に繰り返していたら、先生たちも船から降りてきてひとりずつの指導が始まっていた。

　俺はひとり空を見上げながら自由気ままに身を任せる。雲の流れがだんだん速まっていくのをぼんやり見つめながら自分の世界に浸っていた。

　そのとき、ふと右目の端に誰かが見えた気がした。

　ちらりと顔を傾けると、大きな岩の陰にしがみついているひとりの人物が目に入る。でも休憩でもしているのだろうとそれくらいにしか思っておらず、あまり気には留めなかった。

　俺はもう一度、視線を空に戻した。先ほどより雲の動きが速くなっているのに気づき、波の揺られ方も少し大きくなっているように思えた。

「ちょっとあっちの方、雲行き怪しいわねえ」

　いつの間にか佐伯先生が傍まで来ていてぽつりと呟く。

「汐江くん、余裕なのはわかったけど頼むからそこの黄色いロープだけは越えないでね」

　そして俺にはそう忠告だけしていなくなった。

　ロープはすぐ後ろに張ってあって、その存在を知りぐるりと一回転して境界線を確かめる。まっすぐに顔を立てたとき初めて船から少し遠ざかっていたことに気づいた。

　俺は折り返すようにまたマウスピースを口にはめ、潜っていく。先ほどよりも少しだけ水深が深くなっていて広く周りが見渡せた。

　ふと右手を見たとき、目に映ったあの人物を思い出す。

　遠い岩影に隠れて誰だかわからなかったが、何となく髪はオレンジだったような気がした。俺は浮上し、傍にある黄色いロープを触る。

　岩場はそのロープの先だ。

「撤収しまーす！みんな岸に戻って」

　佐伯先生の声が聞こえたが、俺はまだいるであろう桐島の姿を探す。そのとき遠くの波が高くなっているのが見え、急がねばと焦った。

　もう一度水中に潜り岩場を目指す。目を細めながら人影を探し、頭上を黄色いロープが通過する。遠くの方からは笛の音が聞こえたが、なんとなくこのまま戻ってはいけないような気がして胸騒ぎがした。

「やっぱりいた」

　そして水面に顔を出した俺はなぜだかふたりの女子を保護する。

「海くん！」

「なんでお前までいるの」

「桐島さんがつらそうにしてたから。そしたら足がつってて動けないみたいなの」

　なぜか桐島とともに桜井月まで身動きが取れずにいた。

「とにかく風が強くなってきたからここから動かないと」

　俺は桐島の体を支えながら辺りを見渡す。

　しかしここは岩と岩の間で波の勢いがさらに増してきており、打ち付ける水しぶきが息をしづらくさせた。必死で岩肌にしがみつくものの体は流されかけていた。