変化

 四日後。新たなルームメイトを迎えたこの家にみんなが慣れてきた頃、俺たちの関係も少しずつ変わり始めていた。


 毎朝キッチンから漂ういい匂いに引き寄せられながら、一番に起きるのは俺だ。中学時代、学校へ行く前に家の周りを走っていたからか、いまだに体が勝手に起きてしまう。たまに日が昇る前に目が覚めるときは朝焼けを見ようと散歩に出かけたりする。


 それから起きてくるふたりのルームメイトのあとに続いて壇林太郎が現れる。


「海、これに水」

「自分で入れろよ」

「低血圧」


 いつも以上に低いテンションで、キッチンカウンターにもたれかかりながら冷蔵庫の前に立つ俺を使ってくる。


 いつからか〝海〟と呼ばれるようになった。


「ちょっと林太郎!マリアのスムージーは?」

「だからいらねーって。それ変な味する」

「んもうっ」


 これは毎朝の光景だ。引き留めようとするマリアを避け、リビングの椅子には座らず離れたソファに寝転がる林太郎は彼女が作る謎の特製スムージーから逃げていた。


 何が入っているかは分からない。でもとにかく体にはよさそうな味がする。見た目はドロドロとした緑色の液体で少し青臭い匂いがした。


 元々いた俺たちにとっては、初日から当たり前のようにテーブルに並んでいるものでなぜか飲まないという選択肢がなかった。しかしあとから入居してきた林太郎は口に含んだ瞬間に吐き出して、それ以来飲まないと決めたらしい。


 でも飲み続けていると意外にも慣れてくるもので、今では平然と飲めているから不思議だ。自分でも少し驚いている。


「いつまで寝てるの遅刻するわよ!」


 そんな中、叫ぶマリアの声が最後まで起きてこない熊の部屋に響き渡る。


「いい加減起きなさい!」


 林太郎とのやり取り同様、マリアが痺れを切らして部屋の扉を叩きに行くのももう見慣れた光景である。それはちょうどみんなが朝食を食べ出した頃に始まり、食べ終えた頃に半分寝ているような顔でやっと起きてくる。


 俺は朝からそんな一連の出来事を見守ってから毎日登校しているのだ。



「ねみぃ」

「さっき寝かけたろ。いつか普通に死ぬぞ」


 ウェットスーツを脱ぎながら半分しか開いていない熊の目を見て林太郎が即座に突っ込みを入れる。


 今日の午前中はスキューバーダイビングの授業が入っていて、学科講習を一通り終えた俺たちは校舎の裏手にある浅瀬の海岸で器材の使い方や呼吸法を学んできた。


「なあ、溺れたら絶対助けてくれるよな?」


 林太郎に言われた言葉が効いたのか、熊は切実な表情でしがみついてくる。俺は何とも言えず呆れたように見下ろした。


「いたいた、三人衆。今日も仲のいいこと」


 そこへウェットスーツ姿の佐伯先生が現れる。彼女はインストラクターの資格を持っているダイビングの先生だった。


「私の目に狂いはなかったなあ。いい傾向いい傾向。壇くんのお引越し作戦成功だね」


 嬉しそうに言う先生は、林太郎を俺たちの家に送り込もうと提案した張本人だ。主任教諭の朝倉も『さぼらないようになるならいいだろう』と許可を出したらしいが、俺たちと行動を共にするようになった林太郎は先生たちの狙い通り授業に出席するようになった。


 俺としては若干、朝倉の思い通りになってしまいそれだけが気に食わない。


「そうそう、熊木くん。あなただけが心配。次から潜る練習を始めていくんだけど、今のままだとひとりだけ先に進めないからね。放課後、マンツーマンで補習になるわよ」

「え?」

「当たり前じゃない。目が閉じてるようじゃ危なくて潜らせられないもの」


 佐伯先生は熊の肩にそっと手を添えると困った顔で去っていく。


 愕然として俺たちに助けを求めるように振り向いてくるが、俺も林太郎も思わず目をそらした。こればっかりは俺たちにどうこう出来る話じゃなく、睡魔と戦う自分のやる気次第だと思う。


「やっぱり座学より実践の方が楽しいね」


 そこへ同じ授業を受けていた桜井月がふらっと現れる。

 ウエットスーツを脱いで水着姿の彼女は、珍しく髪を一本に束ねていた。


「月、俺補習かも……」

「ああ、だって佐伯先生言ってたもん。一番の問題児がまた寝てるって」

「問題児!俺が?林太郎を差し置いてそんな」

「お前、殴るぞ」


 目の前で三人がテンポよく言い合いながら、ふざけて笑いあっている。最近よく見るその景色を俺は黙って見ている方が多いけれど、なんとなくこの空間が居心地よくなり始めていた。


「あの子っていっつも暑くないのかなあ」


 学校へ戻ろうと四人で歩き始めたら熊がふと不思議そうに口を開く。何の話かと顔を上げれば少し前を桐島が歩いているのが目に入った。


 彼女は黒のウェットスーツを着たまま大きめのタオルを肩にかけていた。


「半袖とかタンクトップとか着てるの見たことないんだよなあ」


 熊の言葉に桜井月はハッと気づいたように何度も頷く。俺はなんとなくテトラポットに座っていた彼女の姿を思い出し、頭に浮かべていた。


 他人の服装などどうでもよくて何を着ているかなんて今まで気にしたことがなかった。でもよくよく記憶をたどってみれば、確かあの時はキャミソールの上からふわっとした白い長袖を羽織っていたような気がする。


「熊くんって面食いだったんだ」


 すると桜井月が唐突にそんなことを言い出す。


「え、なんで?なんでそうなる?」

「だっていつも見てなきゃそこまで覚えてないでしょ?いつも目で追ってたんだよ、きっと。さすが桐島さん美人だからなあ」


 ひとりで勝手に納得している彼女に熊はあたふたと慌てだし、手の動きが騒がしくなる。


「ちょちょちょ、月ちゃん?そうじゃなくて俺はね」

「じゃあ私先に行くね。友達とお昼食べる約束してるんだあ」


 しかし何も気づいていない桜井月はそんな熊を無視してこちらに大きく手を振りながら走っていく。その光景は何とも虚しく、俺は林太郎とともに両脇から慰めるように肩をそっと手を置いた。

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