まとわりつく記憶
「ふあぁ、なんか何にもしてないのに疲れたなあ」
夕食を終えたあと、自然と熊の部屋に入った。俺の部屋からちょうど対角線上にある。ベッドで両腕を上げて背面ダイブする熊の様子を見下ろしながら、俺は回転式の椅子に深く腰掛け足を投げ出す。
「なあ海、俺らここでやってけるかなあ」
天を仰ぎながら早速不安げな声を出し、そんな熊は珍しかった。
「まだ初日だろ」
「そうだけどさ、島での生活なんて初めてだし」
「みんなそうだよ。てか、どうしても行きたいから一緒に来てくれって言ってきたのお前だし」
「それは!その、だから……」
ごにょごにょと口籠る熊に呆れながら、ここへ来て初めて携帯を開く。溜まった通知を流し見ながら俺は漆黒の髪に指を入れた。
そのとき一件のメッセージが目に入る。
【海、会いたい】
高校に入学してから告白されてなんとなく付き合ってはみたものの、一ヶ月も続かずに別れた彼女と呼べるかどうかも定かではない女の子から。
LINEのアカウント名も【あー】なんてものにしているから、〝あい〟だったか〝あき〟だったか名前も定かではない。たまに復縁を迫るメッセージが流れてくるものの、さほど興味は湧かなかった。
「うわ、またあやちゃんから?あの子本当、海にぞっこんだな」
あや……。
一瞬、そんな名前だったかと考えさせられる。
「海ってさ。人に興味ないっていうか、名前とか覚える気ないっていうか」
その名前にピンときていないのを見透かされてか、熊が半笑いでこちらを見てきた。
「てかなんで熊が覚えてんだよ」
「だって一回会ったじゃん。ほら去年の夏、お前が新人戦に出るって言うから応援行った……」
そのとき、頭の中でフラッシュバックするように記憶が駆け巡った。
風に乗って流れる雲、視界の中を通り過ぎていくカラフルなフラッグ。エコーがかかったように聞こえてくる声援の声。ツンと鼻を突き刺す感覚やぼんやりとする鼓膜。冷たい水の中でマグマのように火照りだす体。
あらゆる感覚が奥底からぞわっと毛が逆立つように込み上げてきた。
「いや、わりぃ」
慌てて起き上がった熊が口元を押さえ、言ってはいけないことを口にしてしまったと顔を青ざめさせる。
「いいって別に」
強がって笑いながら、俺は思い出してしまった記憶を忘れるように〝あや〟という子からの通知を指でなぞって削除した。
自室に戻ってからベッドの上でただただ天井を見つめていたが、内心は動揺していた。
あれから一年、思い出さないように努めてきたけれど、どうしても不意に蘇ってくる。あの感覚はもうまとわりついて離れないのだろう。
元々、俺はジュニアの中では有名な競泳選手だった。個人メドレーでオリンピックも目指していて、プロからもその実力を評価されていた。多くの選手を世に送り出している体育大の附属高校からもスポーツ推薦をもらい、進学することができた。
しかし、あの日を境に世界は一八〇度変わってしまった。
あれは高校の水泳部に入ってから力試しのように出場した夏の新人大会の日で、今日のような雲ひとつない快晴の中で行われた。
ジュニアのトップとして負けられない。期待の新星なんて言われ雑誌にも取り上げられた。部内でも先輩たちから一目置かれていつも以上に勝ちにこだわり、きっと自分の中でどこかプレッシャーを感じていたんだと思う。だから前日までひたすら練習を積み、部活が終わったあともこっそり以前通っていたスイミングスクールで泳ぎ続けた。顧問からは休むことも大事だと過度な練習を止められていたけれど俺は耳をかさなかった。
そんな中で迎えた大会当日、なんとなく体には違和感があった。でも大したことはないだろうと気にも留めず、緊張感漂う中でピストルが音を鳴らした。それからはあまり記憶がない。
とにかく無我夢中で当たり前のように首位はキープしていた、はずだった。
二〇〇メートル最後の折り返し地点で急に息が苦しくなり、思うように呼吸ができなくなった。そのまま沈んでいくのが分かり、遠のく意識の中で青い空に色づくフラッグが水面に揺れているのが見えた。慌てた大人たちが俺の体を抱きかかえたのはその直後のことだ。
次に目が覚めたとき、俺は病室のベッドにいた。
医者からは肺の機能が低下していると診断され、生活に支障はないが水泳のような肺活量を使う種目でオリンピックを目指すのは厳しいだろうと告げられた。昨日まで何の問題もなかったはずだ。さっきまで水と一体化しトップを泳いでいた。それなのに目の前の医者はいとも簡単に俺の夢を断とうとしていて、突然のことに動揺を隠しきれずにわかには信じ難かった。
でも現実は残酷だ。
退院してから迷わずプールへと向かいコーチが引き止めるのも無視して入水した。しかし、その瞬間圧迫されるような感覚に襲われ、確実に何かが違うとすぐに分かった。あのときの感覚は今でも忘れない。恐怖で泳ぎ出すこともできず、これ以上前に進む勇気もなかった。
それからは何もかもがどうでも良くなり、学校へも行かなくなった。全ての連絡を絶ち、部屋にこもりっきりの毎日を送った。
唯一、熊だけが来るなと言っても勝手に家へ上がり込んできて、一方的に話して帰ったり自分の家かのようにただただゲームをして過ごすだけの日もあった。でもいるだけで少しは気が紛れ、余計なことを考えずに済んだのかもしれない。
それから二ヶ月後。
突然チラシをもって現れた熊がこの島に編入しようと誘ってきたのだ。
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