なまずの人魚
内宮いさと
なまずの人魚
町を流れる小さな川の中には一匹の人魚が住んでいる。江戸の昔からいる大なまずがとうとう人魚になったもので、見目はなまずに似た二本の長い髭の醜男にヒレのついたのが川に潜っているような塩梅だが、その偏屈そうな顔に見合わず人懐こく頭も良い。三文文士の奥田などはよく川べりに立ってはなまずの人魚を呼び出して、話したりしていた。無論人魚であるからには声もなく、なまずは大抵うんうんと頷くばかりであったのだが。
ある日の夕刻のことである。奥田は自室の文机の前で小説の構想に唸っていた。彼は三文文士の例に漏れず、どれもこれも判でついたような話ばかり書いていて、とうとう読者に叱られたのである。近代小説はやっとこの頃その体裁が整い始めたばかりであったが、それでも目の肥えた読者はおり、よその国の作品にも目を通しているその高尚な読者から、お前の話はおとぎ話にも劣ると丁寧な文面のお手紙をちょうだいしたのだ。
――ああちくしょう、そんならお前が書いてみろ。
そんなことをつい考えているうち、女房の何か聞きに来た声にも構わず足は自室を飛び出して、突っ掛けた下駄は家々の立ち並ぶ小道のすぐそばの、柳のかかる川の方に向いていた。一町ばかりも離れていない、なまずのいる川である。
「おうい、いるか」
夕暮れも過ぎ、ガス灯もないこの辺りは薄暗くなりだしている。皆家路についたのだろう、辺りに人の気配はない。なまずは様子を確かめていたのか、しばらくぶくぶくと水泡だけ見せていたがやがてざばりと水音を立て、しかつめらしい顔を現した。それでもしばらく辺りをうかがっている様子だったが、奥田しかいないことに気づいてようやく警戒を解いたらしかった。
「聞いてくれるか」
奥田は着流しの裾のつくのも構わずなまずの前にしゃがみこむ。一言目には読者のひどいの、二言目には出版社の意地悪だの、三言目には家庭のこととぐずぐずしたつまらぬ内容だったが、なまずはうんうんと相槌を打ちながらじっと聞いてくれていた。
「お前が書いてみるか」
それは思いつきの言葉であった。何も本当に期待したわけではない。そもそも人魚にいくら手があるとはいえ字を書く学がないのを分かっていて揶揄ったのだ。しかしなまずの方は却って大乗り気で、相変わらずのしかつめらしい仏頂面のままではあるが川どころか地面まで這い上がって大頷きするものだから奥田の方が驚きその場にひっくり返った。しかし、言い出した手前ずっと驚いているわけにもいかない。何とか気を取り直すとなまずの前にもう一度しゃがみこむ。
「そうか、そうか。書く気があるか。しかし文字はどうする。お前に書けるのか」
奥田はこれを断り文句にするつもりだったが意外にもなまずは頷いて見せた。奥田が困惑している内に彼の方に手を伸ばして見せる。
「何だ? ああ、そうか。紙と鉛筆を用意しろというのだな。使えるか? ……使えるのか。そうか。すぐ家に戻って持ってこよう」
奥田は着流しの裾の砂利をぱっぱと払うと、大笑いしたいような気持を抑えながら家にとって帰して原稿用紙の束と鉛筆とをくれてやった。あんなに驚いていた奥田がどうして本当になまずに小説を書かせようと思ったのか、今となってはもうわからない。しかし彼の心の中には、人魚などに小説が書けてたまるかという侮りと、例え書けたとてきっとそれは自分よりひどいものだろうから見て嘲ってやろうとする卑しさがあったことだけは確かである。
なまずの人魚は川から体を伸ばして紙と鉛筆を受けとるとしばらくは感慨深げに眺めていた。
「じゃあ、また明日な」
奥田の声は届いたか届いていないかは分からないが、それでもなまずは地面の上に体を伸ばした体勢のまま、原稿用紙に鉛筆を走らせ始めた。
翌日の、また夕暮れ。奥田の予想に全く反して、なまずの人魚の小説は大層うまかった。文字が書けるの書けないの、そんなのは些細な問題だったのだ。惹き付けるのだ。川の中しか知らぬなまずのこと、きっと書けたとて日記程度の作文だろうと奥田はやはり侮っていたのだが、ひとつは川の中の出来事をなまずの視点で淡々と書いた小説、そして一人の人間がある日なまずになって、それからなまずの人魚になるまでを書いた自伝というべきか、小説というべきか悩ましいものがもう一つ。題材がその頃珍しいものだということもあったが、いずれも三文文士の奥田の書く薄っぺらい小説とは異なって、構成がうまく読み手を引き込んでくるし、心理描写は淡々としながらも緻密であり、気づけば奥田は三辺も通しで読んでいた。
変わらずの仏頂面でじっとこちらを見つめているなまずを尻目に奥田はごろりと砂利道に寝っ転がって天を仰いだ。
「ちくしょう!」
一言だけそう叫んで目を閉じる。
(ちくしょう。人魚までが俺を馬鹿にするのか)
しかし奥田がそう思ったのは初めだけで、元々性根卑しかったこの男はすぐに、なまずの小説を自分名義で公表することを思いついた。自分の小説がまずいから、おとぎ話に劣るなんて言われるのだ。それなら小説のうまいのを持って行けばいい。折しも自分はスランプに陥っていてお叱りをちょうだいするくらいなのだから、これを出せば鼻を明かしてやれるのではないか。
そこで奥田はその場にがばと起き上がると、彼の七転八倒と叫声に目を丸くしていたなまずに詰め寄った。
「悔しいな、悔しいがお前の小説は大変うまいよ。すごくうまい。お前さえよければどうだろう、この小説を俺の懇意にしている出版社か、新聞社に持って行っちゃあ」
なまずは少しばかり驚いたようではあったが、やがてその表情のわかりづらい顔のままで頷いた。あるいはうまいと言われたのが良くて喜んでいるのかもしれない。しかし奥田にとってはどうでもよかったから、そ知らぬふりで続けた。
「とは言え小説の正体がなまずの人魚とバレちゃあまずい。お前の存在を知っているやつは俺以外にもいるだろうが、それでも字を書ける人魚なんて貴重なんだ。大変な騒ぎになるぜ。ここに人がどっと押し寄せて寝る間もないかもしれないし、西洋科学でお前さんを解剖しようとするかもしれない。なあどうだろう、最初の内だけ俺の名前で載せちゃあ。反応が悪いなら、俺のせいにもできるだろう」
文士としての誇りを捨てた奥田の企み。その奥底に潜む暗く陰湿な感情に気づいているのかいないのか、なまずは取り敢えず了承したのであった。
それからの奥田の躍進には目を瞠るものがあった。もはや三文文士と嘲るものはない。日夜「先生、先生」と新聞社や出版社に追い回され、あの高尚な例の読者からは新作を絶賛する手紙も届いた。羽振りも良くなり女房も日々上機嫌で、家には弟子にしてくれと若者達が押し掛ける始末である。
「先生はどのようにして、あのような小説をお書きになるのですか。とても人の思いつかないような発想で」
「うむ。しかし、それを明かすわけにはいかないよ」
奥田は誰に聞かれても、得意になってそう答えた。実際、文章を書いているところは誰にも見せなかった。見せてしまえば文のまずいのが分かってしまい、一巻の終わりであると理解していたのだ。だからぶらぶら散歩に出て、なまずから原稿を回収して、それを新聞社や出版社に売りつける。あくどい商売である。
特に人気のあったのは川の中のなまずに視点を置いた小説である。視点を置くも何も、書いている当人がなまずなのだからリアリティが段違いだ。
「ははは、所詮は人魚だ。魚の脳だ。騙されていることに気づきもしない!」
そう笑いながら、実際奥田は少し不気味でもあった。奥田の才を上回るあのなまずは本当にこの企みに気づいていないのか。あんなに小説がうまいというのに。なまずの小説を売りさばき始めてから数ヶ月は経ったが、文章を書かせその原稿を回収する奥田になまずは不思議そうなそぶりも見せない。ただ、その代わりこの頃、川の中からじっと奥田の方を見つめることがある。顔は変わらず仏頂面ではあったが、そこには憐憫のような、かわいそうなものを見るような情が込められていることがあった。
(なまずのくせに)
奥田は恩も忘れて心のなかで吐き捨てる。彼にとってもはやなまずは名声のための道具でしかなかった。おとなしく、文句も言わず、ただ自分の代わりに労働をしてくれる。ああ、俺の人生はなんて楽なんだろう。
――だから頭から川の水を浴びせられた時には、まさかあの大人しい、なまずの人魚がそんなことをするとは思わなかったのである。
「やっと変われたな」
そんな声が奥田の頭の上からした。何言ってるんだ。早く川から出しやがれ。このなまずが。そう反論しようとした奥田は川の中から見上げて驚いた。水面を通した向こう側に、自分そっくりの男の姿が揺らめいている。
いったい、何が起きたのだ。自分はいつも通り、柳のかかる川の淵に立ってなまずの人魚を呼び出して、原稿と鉛筆を手渡そうとしただけだ。それが、どうしたしくじりかなまずの人魚が奥田の手を取って川へ引きずり込んだ。そうしたらいつの間にか自分の声が出なくなって、水面を通した向こう側には自分そっくりの男が立って、こちらを見下ろしている。
「何。元よりお前の小説はおれが書いていたんだ。その手間が減るばかりさ」
奥田そっくりのその男は彼の目をじっと覗き込みながら、奥田と全く同じ声でそう続けた。――こいつは何を言っているんだ。そう反論しようにも声が出ない。おかしい。それになぜ川の中なのにこうも自然に呼吸ができる。体の調子も変だ。指の感覚がない。代わりにヒレのようなものがついている。何が起きているんだ。奥田はとかくも水面から顔を出す。顔から先を出そうとして苦しさに気づく。何だ、これではまるで自分が魚にでもなったみたいではないか。
そこでようやく、自分の姿がなまずに変わっているらしいことに気がついた。しかも、人魚でもなく、ただのなまずだ。
男は続ける。
「引きずり込もうと思えばいつでも引きずり込めたんだが、お前が時々おれに話してくれた小説の構想なんかが大層面白くてな。先延ばしにしてたんだよ。でも最近お前はおれに書かせるばかりで何も話してくれなくなった」
奥田そっくりの男は大きなため息をつく。
「せっかく。せっかく良いものを作るのに。お前の話がおれは一等好きだったし、そんならなまずのままでもいいやと思っていたのに。ああ、でも礼は言わないと。面白かった、楽しかったよ。おれが小説を書きたいと思ったのはお前のおかげだ。……でも、自分で何も書かなくなったのはいけねえや。お前がそんなになるんなら、おれが『変わって』やるだけだよ」
奥田はその悲しそうな表情に、一言もなかった。このなまずは、自分より才のあるこのなまずは、自分のフアンだった。魚になったことより何よりそれが奥田を打ちのめした。
奥田そっくりの、元なまずの男はおぼつかない足取りで立ち上がった。
「さ、せめて釣り餌に引っかからないよう用心して生きることだ。おれが代わりに奥田英一郎をやってやるから。……ありがとうな」
男の声が遠ざかっていく。奥田は今までに散々、彼を相手に愚痴も話せば家の場所も家族の顔もほくろの数まで話していたことを思い出した。だからきっとなまずの彼がそれと知られることなく奥田英一郎をやるのはさほど難しいことでもないのだろう。何せああも優れた小説を書くやつなのだから。
(ああ、そうか……)
なまずになった奥田は川の中からぼんやりと薄暗い空を見上げる。そう言えばあのなまずの初めに書いた小説の中に、人間がなまずになり、やがてなまずの人魚になる話があった。きっとあれは彼自身のことで、彼は元々人間だったのだろう。そんならうまくやるのかもしれない。しかし、しかし。そんなことより。魚の小さな脳の中を色々のことが去来していた。なまずになったこと。目の前にいた一番のフアンを失ったこと。小説はもう書けないこと。人間に戻る手段に見当もつかないこと。自由の利かないこの体。
(俺は、あの時文士の奥田英一郎を殺したのだな――)
真っ暗な夜空に奥田はそう思う。
小説家であるならこの豊富な題材に小躍りし人に戻ったときにどう書いてやろうか夢想するかもしれない。しかしなまずの小説を売るだけに成り下がった、もはや文士でもない彼はただ絶望するしかなかった。そしてそんな己を鑑みて、なまずは水面に一跳ねするとやがて水中深く潜っていった。
奥田英一郎はその後、明治後期に活躍した小説家として現代の教科書に掲載されているらしい。
なまずの人魚 内宮いさと @eri_miyauchi
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