怪獣ヶ丘
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怪獣ヶ丘
『わたしは怪獣になります。いままで応援ありがとう。』
これが共同並行第62世界、
セオドア・アルベルトはゆっくりと卓上端末の蓋を閉じた。長い溜息は、広々とした殺風景な長官室に吸い込まれ、消えた。これは彼のとても長い人生において最悪の出来事だった。天上ヒカリこそは、100を超える平行世界の全てを守る、英雄中の英雄だからだ。
そのヒーローが、『怪獣』になると宣言し、消えた。
セオベア・アルベルトは思案し、コーヒーをひとくち啜った。その数秒で、第24世界が消滅し、霧散した。天上ヒカリの手によるものだ。
「あぁ」セオベアは口に出した。また消える。第14世界。第18世界。第33世界も。セオベアの故郷だ。なにもない、オレンジ畑だけが広がるセオベアの郷愁の風景は、いま完全に消え去った。平行世界のいずれかに、同じものがあるだろうか?それは、なんの取り柄のない、ありふれた田舎の風景だからきっとある。だが、セオベアの生まれ育った『そこ』はもうない。
セオベアは『また』味わった。並行世界のうちの一つだけ、同じようなものが並ぶ中でただ一つしかない何かが失われる、哀しみを。
(やはり、慣れるものではないな)
セオベアの長い人生において、何度目かの不可逆で唯一の喪失だったが、彼の哀しみは初めて失ったときと何ら変わらない。いや、むしろ『2回目』の妻を娶った時のような、無色透明な絶望も一緒になって押し寄せ、悪くなっていた。
最初は『自分』を失った時だ。第1次怪獣大戦の時、志願した各世界のセオベア・アルベルトで作られた部隊に所属していた時、特に仲の良かった『自分』がいた。
彼とは故郷の話、好きな誰かの話、常に話が合った。自分だから当然だった。だが彼が死んだ後、部隊の別の『自分』と話す時、必ず哀しみがセオベアを襲った。
あぁ、私が話した『自分』はもう死んだんだ。
そう思った。並行世界が、バンズとパティとレタスとトマトみたいに重なって、真っ平らに潰されて、一口で口に入るようになったときから、『自分』は代わりの居ない唯一の『自分』になってしまった。
自分の世界の妻が死んで、『自分』の世界の妻を娶った時も。英雄的な活躍をする『自分』が次々に死んで、残り少なくなった彼らと笑いあった時も。
平行世界は、何かの代わりではなく、絶対の唯一なのだと、味わい続けた。
「長官!」
セオベアの郷愁と後悔を打ち破るように、誰かが長官室に転がり込んでくる。ここに来れるのは、並行世界を認識し、並行世界と並行世界の間にある間宇宙へとアクセスできる存在だけ。つまり、限られたヒーローのみだ。
セオベアは見た。
「君か…」
彼女はここへアクセスできるヒーローの中でも最も弱いだろう。だが、セオベアが目を伏せたのは、失望からではない。
「私が、殺します。天上ヒカリを。」
彼女の美しい空色の目が、燃える。
彼女は”アナ”と呼ばれている。並行世界の一つの、小さな国の、小さな町を守る、ささやかだが善良でかけがえのないヒーローだ。
身長163cm、体重58kg、得意なのは光子の感知と若干の操作。露出の多くないヒラヒラとしたコスチュームに身を包んだ美少女である彼女は、老若男女を問わずに人気がある。
手に持った機械杖は、数ある並行宇宙全てを合わせても一つしか無い、貴重な遺産だ。
が、それだけでは、この長官室どころか並行世界すら知るレベルではない。だが、彼女は知っている。知らされているし、知る権利がある。
「私が、『私』を殺します。」
彼女は、『天上ヒカリ』。最強のヒーローであり、怪獣となった、”摩訶千歳”の並行体(アナザー)、最後の一人。いや、最後の二人。
セオベアはため息を付いた。また失うことになる。無数の唯一を。
無限に広がる並行宇宙も、見かけには有限である。それは干渉できる世界が観測可能定数によって並行現実学的に制限されているからだ。
その数は108。
それぞれ全てが似ていて、ちょっとだけ違う、かけがえのない世界だ。その108の世界が次々と、天上ヒカリの手によって消滅していた。
そして第78世界。中国の首都、西京。華天城塞の頂上に男が一人。いや、真実は数十名。だが、影は一人だ。
名を、ザ・ワン。彼は黒いスーツとサングラスをした小柄で平凡に見えるアジア人であったが、この第78世界全域の守護を一手に担うほど強力なヒーローである。
ザ・ワンは見上げた。空よりも高い華天城塞の頂点から、更に上を。
「哀しいわ。歯向かうのね。」
彼を見下ろすのは、研ぎ澄ましたような流麗な肉体美を、惜しげもなく薄く小さな布地で晒した女だ。その髪は、明るいオレンジ色と深い赤色をなだらかに行き来し、その目は美しい空色だった。
「…天上ヒカリ」
ザ・ワンが女の名を呼んだ次の瞬間、華天城塞の屋根が弾け飛び、瓦と木と、石くれになった。歴史ある華天城塞の頂上は欠け、瓦礫と何かのクズが空から降る。
攻撃はザ・ワンが仕掛けた。だが、それを刹那に完璧にさばき、ダメージを与えたのは天上ヒカリの方だ。
瓦礫と煙の中から、錐揉み回転で飛び出したザ・ワンは、隣の西京鳳凰ビルに着地する。衣服に乱れはなく、一見してダメージは無いように見える。だが
(一瞬で10人『死んだ』!)
ザ・ワンは驚愕とともに空を、頂点を見上げた。
天上ヒカリは相変わらず欠けた華天城塞の上に浮かんでいる。向こうは見た目通り、全くのノーダメージだ。
ザ・ワンは絶望的な彼我の戦力差を理解する。だが、サングラスを投げ捨てると、構え、手招きした。天上ヒカリを。
「それが、貴方の良いところよ。死因になるけど。」
少しだけ悲しげに、天上ヒカリは言った。それが事実になるのは、そう遠くなく、ほぼ確実なことをザ・ワンも理解してる。
それでもと、意を決して宙に飛び出したザ・ワンは二度、三度、空中で軌道を変えジャンプと捻りを繰り出す。彼の超人的身体能力と、異能のなせる技だ。
タ、タン、と、二度、空中で足踏みすると、鋭く、致命的な角度で天上ヒカリに迫る。同時、空気を切り裂く音がした。ザ・ワンの手が、音の壁を突き破った音だ。
例え相手がビルほどある怪獣であっても、容易く切り裂くであろうザ・ワンの手刀が、天上ヒカリのモデルのように細い頸部を捉える。
(殺った!)
が、その致命の確信は、虚しく覆る。
頸部を狙う致命の手刀に、たおやかな手が重なる。指は細く、危うさを感じるほど長い。その整った爪のひとつひとつに至るまで美しい。
その手が、ザ・ワンの手刀を優しく外側に押した。それだけで、確信は霧散した。ザ・ワンの全てを駆使した絶技は、天上ヒカリの何気ない手技の一つに負けた。
ザ・ワンの眼前に、ゆったりとした動作で、目視できないほど疾く、天上ヒカリの手のひらが迫る。その手のひらが、ちら、と光った。それは天上ヒカリの異能。それが放たれることはザ・ワンの死を意味している。もう防御も回避も間に合わない。
ザ・ワンが出来るのは、目を閉じることだけだった。最後に、ザ・ワンは感謝した。
(…ありがとう、本気を出してくれて。)
明らかに格下の自分に天上ヒカリが、その極致の異能を行使してくれることに。敵として葬ってくれることに。
眩しすぎる光が彼を包んだ。死が訪れた。
身を焼く光は、優しく、無慈悲だった。108の並行した自分と融合し、その知識と経験、また力と異能と命そのものをも、ひとときに行使出来る『ザ・ワン』であっても、その全ての命が焼けるほどに。
無数に重なった『自分』焼けていく。一人ひとり、剥離していく。あんなに遠かった死が、目の前にあった。
焼け落ちたザ・ワンは、背が地面にぶつかったのを感じた。
「…!あっぁぁ…」
息を吸った。生きている。『並行融合』した殆どの『自分』は死んだが、唯一、自分だけが生き残っている。
その理由が、光に焼けた目にも、おぼろげに見えた。
華天城塞の頂上に浮かぶ影は2つ。片方は天上ヒカリ。対するのは、髪を金に染め、光の漏れる機械杖に寄りかかった、『天上ヒカリ』。
「”アナ”ッッ!!」
そのアナはザ・ワンの声に反応して、天上ヒカリを前にして隙だらけに振り向いた。
「だ、大丈夫です!ワンさん!わた、私が守りますから!」
「前を見ろ!」
天上ヒカリは、二人のやり取りをゆったりと見守っている。彼女にとって”アナ”は敵として認識するレベルの存在ではない。
だが、彼女は驚くほど厄介そうな表情を作ると、”アナ”に話しかけた。
「来たのね。セオベアは何をしてるのかしら」
「私の意思です」
「知ってるわよ。…知ってるわ。」
ふぅ、と天上ヒカリは息を吐いた。焼け付いていた空気が弛緩する。そこで、アナが問うた。
「どうしてこんなことを?」
「秘密」
天上ヒカリは、無表情だった。
彼女は手を振り上げる。光があった。二人の頭上に、純光子の巨球が生まれる。それが起こす科学現象を人類は知らない。まだ解明されていない。意思によって操作される光子の束が起こす異常の現象の過程など。
ただ、世界が滅ぶという結果だけは確かだった。
「ヒカリ!なんで!?」
天上ヒカリは答えた。ただ、変哲のない願いだけ。
「ちゃんと逃げてね」
巨球が落ちる。光が世界を埋め尽くした。だが、”アナ”には時間があった。天上ヒカリほどでなくても、光子を操る力があったから。宇宙と宇宙の隙間に逃げる時間が。誰かだけ逃がす時間が。
間宇宙掘削船『ペーパーフィッシュ』。
間宇宙掘削船とは宇宙にある、宇宙ではない領域を掘り進む船のことだ。これが実用化されたのは、並行宇宙観測より前のことになる。その頃は、間宇宙ではなくダークマターとかダークエネルギーとか言われていた。この船こそ常軌の科学である宇宙物理学の粋の結晶。宇宙の糊を掘り進む、人類の英知といえる。
その人類の英知は、今、難民船となっていた。
天井に張り付いた明かりが見える。太陽はない。見回すと嫌でも目に入る壁が閉塞感を生む。安全な閉鎖環境は、たたでさえつもる不安を、更に掻き立てて仕方がない。
その空間は長大な長方形だった、そこに六角形のテントが、みっちりと詰まっている。ここはいかなる広場であろうか、空き地だろうか。否。四方を見れば分かる。巨大なコンテナの中だ。
これまでに、天上ヒカリの手によって4つの宇宙が消えた。4つの宇宙に合わせて数百億人は人間が住んでいただろう。だが、難民船に逃げ込めたのは、ここにいる僅か数万人だ。
これが幸福なのか、それとも地獄の続きなのか、誰にも分からなかった。
コンテナのベタっとした明かりの下で、六角形の黄色い難民テントが所狭しと列び、うなだれた生気のない人々が、道の端に座っている。そこらを歩いているものも居るが、目的地を持つものは稀だ。これを雑踏と呼ぶべきか、人は言葉を持たない。
だが、その中に、しっかりとした足取りで歩くものが居た。焼けただれた皮膚をコートに隠した小柄なアジア人。ザ・ワンだ。隣には、光の漏れる機械杖を持った金髪の女。顔を隠しているが、美貌は間違いなく『天上ヒカリ』。その並行体。”アナ”だ。
二人は連れ立ち早足で歩いて、『ペーパーフィッシュ』の難民区域を迅速に抜けようとしている。が、ザ・ワンの足がもつれる。
「あっ!ほら、気をつけてください。」
「すまん…」
「少し休みましょう、ワンさん重症じゃないですか!あの、すいません!」
「…駄目だ。おい、馬鹿っ!」
ザ・ワンが止めたのは、アナが前に座っている人物に無造作に話しかけた後だった。その人物は老人だった。
「……ぁ」
焦点の合わない目で地面を見つめていた老人は、”アナ”の顔を見た途端、顔をくしゃくしゃに歪めて、音が出るほど息を大きく吸った。
「っぁあ、ああ!て…てんじょう、天上ヒカリ!おっ、おぉぉッッ!!!オオッッ!グググ…ウゥー」
そこから先に言葉はなかった。だが、老人の慟哭が、膿んだ人々の間に、ゆらゆらとしたさざ波のように広がった。
人々が振り返った。『天上ヒカリ』を見た。声が上がった。悲鳴だ。つられて、叫び。怒号が続いた。どよどよと、重なった声が大気を揺らす音がした。
「逃げるぞ!」
「そんな、でも…」
人々の声に、動揺に、それでも”アナ”は向き合おうとする。
「お前に何が出来る!」
ザ・ワンは声を荒げたが”アナ”は構わずに、老人の前に膝をついた。
「おじいさん、私は『天上ヒカリ』です。ですが、彼女とは違う世界の『天上ヒカリ』なんです。」
”アナ”の真摯な目と声が、老人を僅か正気に引き戻す。
「ぁっ!あ…?あんた、なにを言っとる…」
”アナ”は、にこり、と笑った。それは天上ヒカリとは違う笑顔だった。
「双子の姉妹みたいなものです。同じ顔の、もう一人の私。」
「…?」
”アナ”の言葉の意味を老人は理解できなかった。だが、老人の目に哀れみが宿った。何かを感じ取ったのか、眉根が下がり”アナ”の手を握り返す。
「…ああ、あんた、そうかい。そうなんだろうな…」
「はい」
「そうか…そうだなぁ…ふっ、ぐ、うっ…」老人は言葉を繋がないうちに、泣き出した。アナは何も言わず、彼の手に握ったまま、背に手をおいた。
しばらくそうしていると、二人を中心にした喧騒の声は段々と緩やかになり、叫びや怒号は聞かれなくなって、ささやき声だけが残った。
『天上ヒカリ』が言った。
「私が、天上ヒカリを止めます。必ず。」
老人は下を向いたまま、頷いた。老人がそれを可能だと思っているかは分からない。並行世界のことなどつゆほども知らぬ一般人であっても、天上ヒカリがとても強いことは幼児ですら知っている。
だがそれでも老人は、慟哭の奥の何かを”アナ”に託すことを選択した。ザ・ワンも同じだ。
アナは立ち上がった。
「ワンさん、すいません。行きましょう」
「ああ、そうしよう。時間がない。」
二人はまた歩き出した。喧騒はまだ去ってはいなかったが、アナを悪し様に罵るものは居ない。行く手を遮るものも。
足を引きずるザ・ワンと、アナは難民コンテナの端の端、どん詰まりの壁の際にたどり着いた。壁にへばりつくようにびっしり設営されたテント達の間に、『隙間』がある。
それは3次元的には全く存在しない隙間だったが、並行現実学的には明らかに空白だ。アナがその『隙間』に機械杖をかざす。
「すまんな」「いえ」
二人は光に包まれた。
共同並行第4世界、
この世界にはなにもない。あるのは、一面に広がるただただ平らにならされた大地、波一つ立たない鏡面の海、それだけだ。朝が来ても、夜が訪れても、その景色は一切変わらない。きっと、もう一度シャカかキリストが生まれるほどの時が流れても、この世界には何も起こらないだろう。
昔は違った。ほんの40年ほど前までは。並行世界が観測されて、交流が生まれて、怪獣が出現するまでは。
怪獣が、この世界を蹂躙し尽くして全てを真っ平らにするまでは。
この世界は《平面世界》。最初の怪獣が現れた世界。負けて、滅んだ、唯一の世界。ヒーローが生まれる前の、ヒーローが皆、心に刻む、世界の傷跡。
月の浮かぶ鏡面の海に、波がたった。
「うわ、冷たい!」
「水の上にも立てんのか、アナ」
水面に落ちかけて浮かぶ機械杖に取り付く金髪の女。水面に奇跡のように立つ黒い服の男。”アナ”とザ・ワンだ。
ザ・ワンは呆れたようにため息をつくと、アナを見上げながら言う。
「これから、お前を鍛える」
「はい」
「並行宇宙の全ヒーローは、そのための遅滞戦闘に入る」
「…はい…あっ」
「そしておれはいえにかえるかえる」
ザ・ワンの後ろに人影!空中に人が立っている!
「混ぜっ返すなマッドフード」
ザ・ワンは宙に立った男を、マッドフードと呼んだ。
「なにもないなにもない、いみもないいみもない」
マッドフードはボロ布を顔に巻き付けた物狂いだが、紛れもなくヒーローだ。
《平面世界》が滅んだ後、この世界を経由して怪獣が他の世界へ侵攻する危険があった。それを押し留めたのが彼、マッドフードだ。
宇宙がガラスのように罅割れて、散った欠片のように生まれたヒーロー達。その最も勇敢で、最も儚い第一世代。その殿。狂気の頭巾。
彼は由来が知れず、古く、強い。世界が滅んだから発狂したのだとも、世界を守るために発狂したのだとも、元から狂っていたのだとも、様々に言われる。その狂気ゆえ、人々から、時にはヒーローからも恐れられる。
だが、彼がこれまで世界の危機を見過ごしたことはない。怪獣戦争も、大龍事件も、同時侵攻戦も、全て最前線で戦った。
狂気に塗れていようと彼はヒーローだと、少なからず共に戦った”アナ”は信じている。
「こんにちは、マッドフードさん。」
アナは丁寧に挨拶した。だがマッドフードは、くるり、と宙に逆さに立つと、その挨拶を無視した。
「まーだだよ、まーだだよ。おわりのまけるのいっこまえあしたのよるのひからないみちみちみち」
ザ・ワンは呆れたように肩をすくめると、アナに向き合った。
「はじめるぞ」
「はい!」
「くるくる」
マッドフードは宙を蹴り、走り出した。その遠方に影。怪獣だ。平面の大地には比較物がなく、大きさは分からない。いや、大きい。マッドフードはまだ走る。まだ。まだだ。遠い。大きい!
腫を揺らす赤い怪獣の大きさは、山程はあろうか。マッドフードは粒ほどにも見えなくなった。
突如、怪獣が弾けた。二足歩行するオオトカゲの背と首より、キラキラと血と肉と臓が飛び散り、霧のように平面世界に混ざってゆく。
ザ・ワンは怪獣の死を見届けると、アナに言った。
「お前には、光度が足りない、身体能力も、何もかも。」
パキ、とザ・ワンの手が鳴った。複雑で凶暴な形を作る。「前向きなのは良いことだ。誰かのために約束をすることも。だが、それを実現することが出来ない者は、ヒーローじゃない。」
「はい!」
ザ・ワンは水の上で静かに構える。
「よし。…殺す気で来い」
「え、でも…」
ザ・ワンはため息とともに、機械杖に蹴りを見舞った。アナは空中で体勢を崩し、面白いようにクルクルと回る。
「100年早い!」
第11並行世界、《秘匿世界》。肥え太った政治家と、マフィアと、狂ったヴィランの作り上げた、絢爛なる大都市、ニューヨークは燃えていた。
帳を被った一匹のカラスが、燃えるNYの上をぐるりと旋回した。《秘匿世界》の守り手、クロウだ。
眼下では、何度、滅べばいいと願ったかわからないNYが燃えていた。腐敗と退廃の都。愛すべきゴミの山。結局は、自分の手で壊すことも直すことも、守ることも出来なかった。
他のヒーローはもういない。今ちょうど、最後の一人だったシュラウドが燃えて灰になったところだ。
あぁ、唯一の友、シュラウド。よくポテトをくれたし、陰鬱な多弁に愛想笑いをしてくれた。ポテトは一人前を食べきれないだけだったし、きっと皮肉には辟易としてただろうが。
だが友だった。クロウにとっては唯一の。それでいい。
涙を流せぬクロウは一声鋭く鳴いた。帳が消え、黒いカラスが一匹、太陽の下に出た。すると美しい太陽は、影を咎めた。
「あら、ようやく出てきたのね」
天上ヒカリは、太陽は、燦然と輝く。NYを焼きながら。
「太陽が苦手でね」
「あれ、カラスって夜行性?」
「親に聞け。まだ殺してなければ。」
天上ヒカリの顔が歪む。
「あなた、嫌いよ」
「気が合うな」
クロウは加速した。後ろを追うように、二条の光が翻った。
後ろ。NYを象徴する女神の巨像の顔と胸が、光条によって輪切りになって落ちていく。クロウがマンハッタン島のシンボルが失われたことを嘆く間もなく、また光条が降り注ぐが、ロールしてなんとか躱す。
「やっぱり強いじゃない。今までサボってたの?」
「もう死ぬから安心しろ」
クロウが光の速さを回避しているのは、光を見ているわけではない(見えるわけがない。見えると思うなら小学校に入りなおせ)。ただ天上ヒカリが光条を放つ時の目線や身体動作等の癖を掴んでいるからに過ぎない。
光条が予備動作なくクロウをかすめた。
「クソ!」
天上ヒカリの目線と光条の角度がズレている。動作と、目線が。動作と光が。なんの予備動作もなく。大きな予備動作とともに。感覚が乱れる。光がまた黒い身体をかすめる。
だがクロウは必死に身を捻って光条を躱す。まだ。もう一条。まだだ。もうクロウには何もわからない。勘だけだ。隙が見えた。が、攻撃する気はない。まだ躱す。さっきのは罠だったかも知れない。罠。誰への?
「…そう」
天上ヒカリは悲しい声で言った。
「待ってるのね。」
クロウは否定しようとした。刹那、天上アヒカリの周囲全てに、濃厚な死の気配。回避。出来ない。
光。
天上ヒカリを中心に光が爆発し、数キロの範囲が空間ごと焼けた。
煙を上げて燃えながら、カラスが落ちてゆく。目は白濁し、嘴は反り返り、断末魔はなかった。だが、その舌だけが最後の言葉を紡いだ。
(恐れたな)
刹那、世界が震える。天上ヒカリの鼻腔を、光子が空間を焼く、独特の硫黄臭がかすめた。
光を散らして裂ける空間から進み出る人にも、天上ヒカリは振り向かない。ただ、穏やかな声をかけた。
「間に合うのね。…それもそうか。『私』だもの。」
裂け目から現れた、機械杖を持った金髪の女は、天上ヒカリと同じ、美しい空色の目で、眼下の焼け落ちるNYを見た。
「間に合い、ませんでした。ですが、貴方を止めます。私が。」
「そう。頑張ってね。」
天上ヒカリが言葉とともに放った光条を、”アナ”は機械杖を傾けただけで払った。そのまま、機械杖を空に掲げると、光子の収束に空間が軋んだ。
「はい」
焼けるようなNYの空を、極光が包んだ。
ーーーーー
サイケデリックな色合いとなったNYの空を、何度もフラッシュの如き光が瞬く。それを瓦礫の中に立つ壁から見上げる、黒いコートのアジア人が一人。ザ・ワンだ。
彼は《平面世界》での修行において、アナに天上ヒカリ以上の異能の強度を求めた。並行世界史に刻まれる最強のヒーローを超える力を。全く不可能に思われたそれは、達成された。なぜなら彼女は紛れもなく『天上ヒカリ』だったから。
もう一人の自分。『並行融合』したザ・ワンには長らく馴染みがない言葉だ。だが、『並行融合』の異能を持つ『自分』は108名中僅か5名だったし、今、こうしている自分は確か、融合する前はピザ屋だったはずだ。
何の因果であろうか、格闘技術どころか、空中歩法の異能の一つも持たなかった自分が、世界の終わりか、新たな夜明けを見ることになる。ザ・ワンの身体はもう言うことを聞かないが、まだ見届けなければならない。
サイケデリックな空が切り替わる。瞬きが止んだ。
「そうだ…!」
ザ・ワンは壁に持たれ、肩で息をする。焼けた身がずくずくと痛み、命が漏れ出しているのを感じる。だが、まだ目を閉じるわけにはいかない。
満点の極光が揺らいだ時、天上ヒカリの手が空を切った。
「?」
天上ヒカリが異変を分析するまもなく、アナが光線を放つ。天上ヒカリの本能がその光線を受けることを選択しなかった。躱す。
「そこ!」
だが、アナの光線が曲がる。通常、光速を曲げる意味など無い。着弾にプランク秒ほどの違いしか生まれ得ない。だが光子の揺らぎを読み、着弾軌道を予測しうる光子操作能力者相手ならば!
「くっ!」
3発の光線のうち1発が天上ヒカリの身を捉えた。が、全力の散逸防御で逸らされた。天上ヒカリが笑う。
「やる」
「まだです!」
NYの天を覆うサイケデリックな極光が切り替わる。これが『対光子戦闘術 天変万華』。空間ごと光子の確率分布へ干渉して乱し、光子操作を妨害する、天上ヒカリ殺しの外法。
アナは確かな手応えと同時に、恐怖を覚えていた。天上ヒカリは、天変万華を受けても、なお光子を乗りこなし飛行している。天変万華の影響下で、なおも散逸防御を成立させている。
アナは振り上げた機械杖に手をかざした。
「対光子戦闘術、鬼灯!」
滲み出るように、べったりと光を吸い込むような光が機械杖に張り付く。それは全く見たことのない、見えないような光だった。
「シッ!」
アナが踏み込んだ。天上ヒカリは余裕を持って受ける。体術のレベルは隔絶している。天上ヒカリが、機械杖の光に触らないように技でさばこうとした刹那
極光が、色を変えた。
ふっと天上ヒカリの足元から光子が消え、膝が沈む。アナの腕を制しようとした手が流れ、アナの腕がすり抜けた。機械杖が天上ヒカリの胴を捉える!
みしり、と骨の軋む音がした。
機械杖に張り付いたそれは光ではない。確率が収束した、物質としての光だ。重く、確かな光だ。
機械杖の一撃をまともに受けた天上ヒカリが吹き飛んだ。天変万華が切り替わる。空中で体勢を整えることは不可能。胸から下だけになった女神像の内側のむき出しの鉄骨にぶつかって、そのまま内部へ落ちた。明らかなダメージ。並行世界史において初めてであろう。だが
「浅いっ!」
アナは追撃を選択する。鬼灯以上の打撃はない。天変万華以上の小細工はない。これで仕留めない限り、天上ヒカリには勝てないのだ。急げ!光子ジャミングが通じるうちに!
だが、天上ヒカリは鉄骨の下でつぶやいた。
「…なるほどね」
アナは、それを聞かなかったことにした。静止した光を纏う機械杖を振りかぶる。極光の万華が、2度、3度と切り替わる。
「鬼灯!」
天上ヒカリは無造作に腕を振り上げる。防御ではない。早い。攻撃ではない。収束はない。ゆるい波はアナの背へ抜ける。
アナは見た。NYを覆う万色の極光が2つに裂ける様を。天変万華が破られる瞬間を。しかし、止まらない。
届く。鬼灯が。天上ヒカリの頭を捉える。振り抜ける。燦然と輝く太陽。108ある並行世界、108いた『自分』。最後の並行体を。この手で。
「…殺っ」
指が震えた。
それは”アナ”の、押し殺した優しさだった。迷いと呼ぶには余りに僅かで、もたらしたのは刹那より短い涅槃寂静の一瞬に過ぎない。だが、光ならば!
次の瞬間には”アナ”の左目が焼け付いていた。天上ヒカリの極地の技芸。予備動作も、収束も、光条すら見えない、点の光子操作。
痛みと網膜の焼け付きによって、機械杖の軌道が意図せずにブレる。天上ヒカリの手が躍る。いかなる技か、”アナ”の手から機械杖は弾き飛ばされ、中空で分解四散した。
無数の機械部品が散らばる。歯車。バネ。得体のしれぬ金属板。アナは、散らばる機械杖の部品越しに、天上ヒカリの美しく哀しい空色の目を見た。なぜ、彼女がこんなに悲しい目をしているのか、アナはまだ知らない。
柄が落ちる。音とともに”アナ”は敗北を悟った。
「…”アナ”、貴方は強い。私が保証するわ」
天上ヒカリはそう言うと身を押さえた。鬼灯のダメージは深い。
「きっと、もう2,3日ほど時間があったら私を殺せたでしょうね」
それはお世辞でもなんでも無い。天上ヒカリは”アナ”を舐めたことも格下だと思ったこともない。『自分』を甘く見たやつは、常に地に伏してきたことを知っている。
”アナ”は吐く息と共に問うた。
「…私を殺して、世界を全て滅ぼすんですね」
その問に、天上ヒカリは首を横に振った。血と髪を掻き上げると、NYの上空を指差した。
「丁度いいわ。見なさい」
上空では、明らかな異変が起こっていた。夕暮れを包んでいた極光よりもおぞましく、遥かに危険な異変だ。
『何か』が子供が悪戯でビニール袋を突き破るように、天そのものを突き破って、この世界に生まれ出ようとしている。暗くなり始めていた空はグロテスクに赤く染まり、血のような雨が降り落ちる。
NYにサイレンが鳴り響いた。世界全てに鳴り響く、並行世界統治機構からのサイレンだ。意味する事は唯一つ。
「アナ!逃げろ!怪獣だっ!」
いつの間にか女神の足元にまで来ていたザ・ワンが叫ぶ。
天を突き破って、腫を伴った大腸のような、ぬらりと光る細長が生まれ落ちる。竜だ。かつて大龍事件でヒーローの半数を食った、竜型の怪獣だ。NYを一巻きで囲えるようなそれが、まだ。まだ。2匹、3匹。
大都市そのものを飲み込もうとするように、その滴る赤い肉の長大な身体をしならせて、煙の上がるタワービルを、ぐるりと巻いた。押しつぶされたいっぱいのガラスが割れ、崩落したNYにキラキラと降り注ぐ。
ウウウウゥゥゥーーーーーー………
サイレンの音が大都会を包み込むが、逃げるものはもう居ない。立ち向かうものも。ただ見上げるのは勝者と敗者だ。
「怪獣……!」
アナが立ち上がろうとする。が、天上ヒカリが手でとどめる。
「”アナ”。私達はいつまでアレと戦う必要があるの?」
「いつまで…?」
「そう、怪獣の襲撃はどんどん増えている。どんどん強くなっている。きっと、遠くない未来、私でも勝てなくなるほどに。」
アナは驚きとともに天上ヒカリを見た。それは、天上ヒカリの弱音だった。
「でもっ…!」
「ええ、貴方となら…いいえ。貴方なら。私より、怪獣より、早く強くなる。きっと。でも、『私よりは保つ』」
在りし日ならば並行宇宙滅亡級の災厄が3匹、ゆうゆうとNYの上を泳いでいる。だが今なら天上ヒカリ、そしてアナが居る。十分に勝てる。
今なら。アナが強くなった今なら。だが次は。その次は?『天上ヒカリ』の次は?
天上ヒカリは指差した。竜ではなく、竜が出てきた、冒涜の裂け目を。
「第0基底世界。」
それは、並行物理学上で予言される、観測不能の『元』世界。全ての世界のオリジン。無数にある並行世界で、ただ一つだけの、本当の本物。天上ヒカリは、冒涜の裂け目の更に向こうを、指差している。
「そこから怪獣は来る。私達から奪うために。」
「そん…」
アナはそれ以上言葉を出せなかった。もしも、並行歴初頭頃に盛んだったらしい『本当の世界』議論に答えがあったら。そこが『何処か』だったら。叫びたいほど恐ろしい。もしも、
『何処かの世界が、他の世界より、偉かったら!』
血が天上ヒカリの目尻から滴った。
「私は、怪獣になる」
「18個の世界を圧縮崩壊させて重力場を形成し、間宇宙に干渉して、基底世界までの道を作る。光子の速度なら、その道を抜けられる。私なら。」
天上ヒカリは、『怪獣』になる。並行世界史、いや。全宇宙史で最初の、基底世界の怪獣に。
天上ヒカリの手に、光子が宿る。世界を圧縮崩壊させるつもりだ。だが、アナは何も出来なかった。ただ聞いた。
「ヒカリはどうして泣いてるの?」
天上ヒカリは笑った。
「忘れちゃった」
赤い雨が降る。サイレンは止まない。
光。崩壊。黒い影。硫黄の臭い。アナにとって天上ヒカリは親友だった。きっと、まだそうだ。
”アナ”が見たのは、光が透ける、くすんだ黄色の布地だった。
薄暗い。口が乾いている。自分は生きているらしい。ザ・ワンは、と思い身体を起こそうとして、痛みが走る。手で身体を押さえようとして、手が握り込んでいるものを見つけた。
黒い切れ端。多分、コートの裾。
息を飲んだ。負けた。何も守れなかった。何も決断できなかった。《秘匿世界》とともに、”アナ”に全てを託したザ・ワンも、他のヒーローも、全て消え去った。
”アナ”の美しい眉根に、慙悔と哀しみが深いしわを作る。
「起きたか」
誰かが”アナ”に声をかけた。それは、ツギハギの服に色濃い疲労を詰め込んだ、険しい顔の老人だった。くすんだ黄色は、難民テントの色。
ではここは、間宇宙にある掘削船『ペーパーフィッシュ』の難民コンテナの中であろうか?
「ぁ、私…」
”アナ”が起き上がり姿勢を正そうとするのを、老人はとどめた。
「いい、寝て、泣きなさい」
老人は命令口調で言った。”アナ”は瞬間、怒りになった。
「…ッ五月蝿いっ!……ぁ…」
”アナ”は自分の口から出た言葉に、自分が一番信じられないという顔をした。そしてそれに笑えた。カマトトぶっている。自己憐憫に嫌気が差す。
「…私…私…」
強くなった。守るだけの力を手に入れた。それなのに、心に甘さが残っていた、その甘さが全てを壊した。ヒーローなのに。それを証明してくれる機械杖も消え去った。守るべき世界と共に。
”アナ”は泣くことすら出来ず、顔を手のひらで覆うと、ただ手の裏の暗闇を見た。彼女は、このままここで無為に時間が流れることを恐ろしいと思ったが、何をすることに意味があるのか、全く分からなかった。
「…食べなさい」
老人が言葉とともに何かを差し出した。”アナ”は指の隙間から見た。プラカップに入ったシチューだ。ひとつ。
「あなたのは…」「もう食べた」
明らかな嘘に思えた。だが老人の目は、その嘘を咎めることも、礼を言うことも、辞することも許さないというような、厳しいものだった。
「……いた、だきます」
痛む体を少し起こして、手に取った。シチューはぬるい。老人はいつからこうやって待っていたのだろうか。その目も口も、余計なことを語らない。
”アナ”が具の少ないシチューを飲むと、張り詰めた糸が切れたように、鼻の奥がむず痒くなる。音が戻ってくる。喧騒だ。人々の声がテントの外から無数に聞こえる。
長い息が出た、その息が、つまる。視界が滲んだ。怒りは、自分へのものだ。負けて、逃げて、情けを受ける、自分への。ヒーローだったはずの。
「……ごめんさい…」
「いい、食べなさい」
「…ごめんなさい……ごめんなさい…」
老人はそれ以上は何も言わず、ただそばにいた。”アナ”が泣くことも、謝ることも、咎めなかった。
それからしばらくは、ゆっくりと時間が流れた。”アナ”は難民コンテナで医者をしているという老人のテントから出て、家族で暮らしているというアミンダさん一家のテントで寝泊まりした。
子供が5人も居る騒がしい一家だ。
配給は日に2回、1杯のシチューと2枚の硬いビスケット。それで育ち盛りの子供達が満足するはずはない。アミンダさんは、晴れ着などを闇市で処分して、子供らの食事を確保していた。
世界を失ってもなお、人間には生活がある。薄いシチューに文句を言う元気もあるし、硬いビスケットをできるだけ少しずつ食べたり、たまに手に入る飴に喜んだりできる。まだ生きている。
3男のテルグくんは5才。遊び盛りでボロ布を丸めたボールを使ってサッカーをするのが好きだ。年の割にしっかりしていて、よく母親を手伝っている。
テルグくんは好奇心が強く、その話は大抵「どうして」から始まる。その日もそうだった。
シチュー、ビスケット、幾つかのりんご。食卓というにはささやかだが、家族と会話があれば食卓というには十分だと思える。
子供らは皆シチューとビスケットに夢中だ。だがテルグくんが、”アナ”の方を見て、口を開いた。
「どうして、お姉さんは天上ヒカリと同じ顔なの?」
食卓が沈黙する。1才のエケンテちゃんだけが、あうあうと言いながら水に溶かしたビスケットをプラスプーンで食べていた。
アミンダさん夫婦は絶句していたが、”アナ”は少しだけ悩んで、結局は隠すことも、噛み砕くこともやめてありのままを話した。
「…私が、『天上ヒカリ』だからです。別の世界の、同じ人間。双子の姉妹みたいな…もうひとりの私」
テルグくんは少し考えると、スプーンを手の中で弄りながら言葉を探し、言った。
「…だったら、お姉さんも、怪獣になるの?」
テルグ!と父親の声がした。”アナ”は大丈夫、と言って続けた。
「分からないです。でも、怪獣にはなりたくないな」
そっか、と言うとテルグくんはまたシチューを食べ始めた。
その夜。コンテナ内に夜があるというのは面白いが、ただ灯りを消灯するだけだ。だからだろうか、せめてもの慰めにとコンテナの天井にはプラネタリウムが投射される。その慰めの星空の下に、人影がある。
金髪の女。”アナ”だ。
”アナ”は一際明るい星に目星をつけて方角を確認すると、少ない荷物を担ぎなおし、黄色いテントに向かって一度おじぎをした。
「急だな」
”アナ”が声の方を見れば、老医者が路端に座って酒を飲んでいる。
「はい。これ以上居ると、動けなくなってしまいそうで」
「それでは駄目か?」
”アナ”は少しだけ考えた。迷っているからではなく、言葉を探して。
「やらなくちゃいけないことが、まだある気がするんです」
「そうか…そうだな」
老医師は星を見上げる。彼も責務を負う人間だ。
「これ…皆さんで分けてください」
”アナ”が差し出したのは指輪だ。幾つかある。治療費の分も。
「いいというのに……では、これは皆からだ」
テリケルホが返しに差し出した包には、布が入っているようだ。”アナ”がそれを開くと、衣装だった。ツギハギだが決して粗雑ではなく、様々な柄と模様が緻密に交錯する、美しいドレス仕立ての装束。
ヒーローのスーツ。
「渡したくはなかった」
「…はい」
「難儀だな、ヒーローは、とても」
「はい」
老医師は酒を煽るように飲んだ。もう振り向かなかった。
「…達者でな」
「皆さんも」
別れはそれで済んだ。しかし”アナ”が向かう先も、並行難民らが向かう先もきっと同じだ。共同並行第4世界、
資源は枯渇し、山は削りとられ、海は凪ぐ。毎日のように怪獣が他の世界へ侵攻せんと現れる、死の世界。
そんな世界にもヒーローがいる。ただ一人、守るものもなく。世界全てを守っている。正気か、狂いか。
マッドフードに会わねばならない。
”アナ”は黄色いテントのいつまでも続くとも知れない列を潜りながら『隙間』へと向かった。
私が狂って、一体どれほどの月日が経っただろうか。長かったようにも思えるし短かったようにも思える。
あぁ、綺麗な花が咲いた。赤く、散った。花びらは水面に吸い込まれて溶けて消えていく。ぐらぐらと、もげらの靴も、地をはっている。
鏡の上で永遠に踊り続けるのは、ひどく楽しいが、ときどき不安になる。私は正気なのではないかと。狂えていないのではないかと。
今日も、日が西から登って、東へ沈んでいく。太陽の運行と同じように、決まりというものが世の中にはある。
日は昇り、回り、歌って、沈む。モグラは踊り、花はかがるし、星は三十の四だ。そしてなにより、罪には罰が。
鏡に新しいものが映る。花ではない。黄色いからだ。前に見た。何度も見た。誰かは知らない。知ってる。”アナ”。
「マッドフードさん」
それが声を出す。なんだろうか、自分も出す。楽しい。
「あなたが、天上ヒカリの『協力者』ですね?」
正解。
マッドフードの蹴りは、何の前触れもなく”アナ”の腹に刺さった。ぶつかったような重さに”アナ”は体ごと飛ばされ、数秒息ができなくなる。
息ができなくても追撃は来る。”アナ”は目だけでマッドフードを捉えると、彼の眼前で光と音を爆発させた。スタングレネード。
数瞬だけでも時間が稼げるはず。嘘だ。光と音の爆発を食らったはずのマッドフードは、なお怯みすらせず、さらに”アナ”の顔面へアクロバティックな蹴りを見舞う。
「ぎっ、ぃぃぃ!」
”アナ”が前腕で必死にガードするも、まるでカバやサイのような重さに、押し返せずまた吹き飛ばされる。いや、ゾウだ。
着水。水しぶきが上がる。
「ひかりより、あとにくる、ひかりより、はやいもの」
水に濡れながら”アナ”はマッドフードを見る。マッドフードはぶつぶつと繰り返す。彼の言葉に意味はない。本当に?
マッドフードは踊っている。狂ってる。いや、もしかしたらあの動きにも意味があるのかも知れない。”アナ”の思いもよらぬ何かが。
”アナ”の想像が正しければ、天上ヒカリに第0基底世界の実在を確信させた情報を彼が持っているはずなのだ。あの踊りがそうなのだろうか?
いや、天上ヒカリなら、基底世界仮説を自力で証明できるかも知れない。だとすれば踊りは全く意味のない行動ということになる。”アナ”の行動も。
本当に?
「ひかりより、あとにくる、ひかりより、はやいもの」
そもそも彼が『協力者』である証拠はない。ただ天上ヒカリ遅滞戦にいなかったのと、意思の疎通が取れないから。ただそれだけが疑う理由だ。
後は状況証拠か。”アナ”は痛みを堪えて立ち上がろうとする。
その動きを見て、マッドフードがひらりと手を上にあげる。すると、その手に合わせて、”アナ”と、その周りの水が浮き上がった。
「ひかりより、あとにくる、ひかりより、はやいもの」
重力操作。
『グレイトフル・ギフト』と呼ばれる、異能種別の一つ。世界の基本的なルールに関する異能。その中でも重力とは最も基本的で、謎めいた力だ。
”アナ”は不自由な中空で体勢を整え、光線を3つ放つ。しかし光線は3つとも、マッドフードの眼前で、ぐにゃりと歪曲して外れた。重力干渉。光といえど重力からは逃れられない。
マッドフードの足が水面から離れる。浮遊している。加速した。空中をジグザグに動きながら”アナ”に迫る。牽制の光線は弾かれる。軌道変化を一つ見逃した。
「がっ…!」
衝撃。”アナ”の視界が回る。ドン、という衝撃が全身に響き、グルグルと砂かも土かも分からない《平面世界》の地面を転がった。
”アナ”の光子操作も極地のレベルだ。だが、ひとえに戦闘経験という面では、天上ヒカリやマッドフードなんかには到底かなわない。光の速度で進むのは光だけ。人間の認識は、それと比べればカタツムリより遅い。
「ひかりより、あとにくる、ひかりより、はやいもの」
「五月蝿いっ!」
”アナ”は癇癪を起こし、ふらつきながら身体を起こす。
はやさだと?私がもっと速ければ!もっと早く強くなっていれば!もっと違う結末があったはずなのに、全部遅すぎた!もう、光でも、遅いのだ!
”アナ”はとうとう、自分が『天上ヒカリ』であることにすら、絶望する。
無意識に『唯一』を探して、手が中空をさまよう。いつだって傍らにあった機械杖は、かつて”アナ”を唯一のヒーローにしてくれた、”アナ”が唯一のヒーローである、ただ一つの証だった。
あるわけがない。バラバラになり、世界とともに圧縮崩壊したのだから。ザ・ワンや、他のヒーローや、宇宙中の生命とともに。胸が痛む。”アナ”はそれを弱さだと思った。だがそれは願いだった。
「ひかりより、あとにくる、ひかりより、はやいもの」
マッドフードのボロ布から覗く目が細く薄まった。
”アナ”の手が何かを掴んだ。金色の柄、かつて家の納屋にあったモノだ。”アナ”の祖父の遺品。”アナ”の冒険の始まり。なぜここにあるのか。自分が狂ったかと思う。
次に浮かび上がったのは、オルテウスの円弧。オーパーツ。機械杖の2つ目の部品。偉大なる王との謁見で手に入れた。リガテラの遠見。文化財。博物館で。オーエンの悪魔の角。邪悪な祭壇で。ハッシェルのネジ。太形母の王冠。小縁洞のサファイア。クアンテコの歯車。アンティキラの機械。無空の鏡。アルキメデスのスクリュー。三千公のバネ。
機械杖は姿を取り戻す。光より早く。
重み。
”アナ”の手の中には、『唯一』があった。
「ひゅる。」
顛末を見届けたマッドフードは腕を大きく振りかぶると、宙を思い切り殴りつけた。殴られた空間から重力の波が起こり、空間の亀裂とともに光と同じ速度で”アナ”に迫る。だが”アナ”には、迫りくる波が見えた。
波を『横からいなす』。できた。
”アナ”は、光より速くない。だが、光より早かった。
バリバリと《平面世界》の海と大地を割り裂いて、空間の亀裂は”アナ”を裂けるように2つに割れた。静寂が訪れる。
機械杖が、偉大なる音を立てながら回転している。その機構が、ガチッ、ガチッ、ガチッ、と音を出す度、世界が一つ進む実感がある。
「ひかりより、あとにくる、ひかりより、はやいもの」
マッドフードの両腕がダラリと下がり、戦意が薄れる。彼の試しは終わった。いや、彼の主張は。
「ありがとうございました」
”アナ”は礼を言う。マッドフードはふらふらと逆さに立つ。彼の主張を”アナ”は理解した。重力こそは何者も逃れられない、ただ一つの標。由来なく戦い続けるヒーローの唯一の武器。そして
「あなたは、《基底世界》から来たんですね」
「くるくるむこうむこう」
マッドフードは身体を傾け、恐らくは、肯定を伝えてきた。
この世界に全くの由来が無い彼の存在こそが、基底世界があることの証明。その彼の力こそが、基底世界へ行くための理論の裏付け。それを知らせるために、彼は待っていたのだ。”アナ”を。
「もぐらすべて、かなしい。だいじ。だいじ」
マッドフードは、深い色の空を見上げたまま、動かなくなった。
「マッドフードさん?」
アナは問いかけるが、構わずマッドフードはぐるぐると目を回しながら空を見上げている。それが意味がある行動かどうか、”アナ”には分からなかった。
そして、何かを見つけた。
「みち」
マッドフードは、”アナ”に目配せをした。”アナ”は意味がわからなかったが、とりあえず頷いた。
マッドフードが体を反らせる。引き絞るように、力を貯め、放つ。
平手が天を叩いた。
音はしなかった。だが特大の重力震が起こり、宇宙全てを揺らした。
「みち!」
マッドフードは叫んだ。”アナ”は、その波の先に目的地があることを理解した。機械杖と共に『光より速い重力波に飛び乗った』。天の色が赤く、青く、黒く。間宇宙へ到達する。
全ての距離が圧縮される。機械杖を握る。”アナ”はヒーローだ。助けを求める人がいる限り、戦う。それがヒーローだと、”アナ”は信じている。だから、”アナ”は絶対に諦めたりはしない。
そして、『光に追いつく』。”アナ”はもう、光より早いから。
第74共同並行世界。《宝華世界》。それの何処か、花畑。”アナ”は星々の光に紛れて、空間の波とともに音もなく降り立つ。
花畑の中心に立つ女は、それに振り向きもせずに声をかけた。
「生きてたのね…いや、そうか、『私』だからか。」
「はい」
今から壊されるはずだった世界、《宝華世界》の満面の花畑で、天上ヒカリと”アナ”は再度相まみえた。”アナ”が震える声を出す。
「私が、助けに来ました。天上ヒカリ。」
「バカね…」
2条、拒絶するように光条が走った。”アナ”はそれを身体を少しずらして回避する。
「また、強くなったのね」
「そうです」
”アナ”の言葉は強く、暗に天上ヒカリに自らのほうが上だと伝えていた。だが、天上ヒカリが手を挙げると《宝華世界》の晴天は一変した。
極光が晴天を覆う。
「!」
「良い技ね、これ」
何重にも。グロテスクな色彩が、フラクタルのように重なり合い、毎秒に変化する。
天変万華。かつて”アナ”の使った技。それよりもはるか上の規模。これではもはや光子操作どころか、電子部品さえまともに動作しないだろう。
「私はもう逃げない。あなたから殺す。」
”アナ”は瞬間、身を躱した。何か?光。条ではない。設置してあった機雷が爆発するように、”アナ”のさっきまで居た場所で、光が炸裂したのだ。花と大地が焼け焦げる臭いがする。殺意
「ヒカリ!どうして!?」
「あなたには分からない!」
強い拒絶。身を翻す”アナ”を追うように光が炸裂する。3つ。6つ。12。無数。速度と密度が上がる。”アナ”は躱す。まだ躱す。
「反撃しなさい!躱してるだけではーーー」
天上ヒカリの脳裏に、なぜ躱せるのか、と疑問が湧いた。この技には予備動作も、光子の分布変化も、軌道も、何もない。そも極光で光子感知も役に立たないはずだ。ならば
「シッ!」
天上ヒカリに、もう手心など無い。光は隙間なく弾け、極光は全てを乱す。だが、その乱舞の中でも”アナ”は、ただ一つの手順も間違わない。不可能の中を平然と泳ぎ、当然の顔をしている。異常だ。
花は焼け、大地が焦げる。だが”アナ”にはかすりもしない。
天上ヒカリの攻撃が次第に少なくなっていく。止んだ。花畑は焼け焦げ、一面はすっかりと無惨な焼け野原となっていた。
「”アナ”…本当に強くなったのね」
だが、焼け野原に立つ”アナ”は、美しいドレスの裾に焦げ目すら付けずに、天上ヒカリの攻撃を躱しきっっていた。彼女の力が何か、天上ヒカリには分からなかった。ただ、事実として”アナ”はもう、天上ヒカリより強いことだけが分かった。
”アナ”はまだ天上ヒカリに言葉を投げかける。
「…ヒカリ。話を聞いて」
それでも天上ヒカリは、手のひらを”アナ”に向けて、言葉を遮った。その目は、哀しみではない。
「…きっと………」
天上ヒカリは目をつむり、髪をかきあげた。言葉を飲み込み、指先では爪をこすり合わせ、カチカチと音がしていた。
絞り出すように言った。
「……きっと、素晴らしい解決方法があるのでしょうね。誰も傷つかずに、全員が幸せになる方法が。」
”アナ”はその問いかけに安易に頷けなかったが、天上ヒカリと一緒ならば必ず思いつくだろうと信じていた。だから、頷いた。
「はい」
「……そう」
また少し間が空いた。《宝華世界》の風が二人の間を抜けた。
天上ヒカリは思案した。迷いからではなく、言葉を探して。そして出てきたのは言葉ではない、飾るものなく、ただの感情が、音になったものだった。
「いらないの、そんなものは」
柔らかい表情。だが、焼けるような声。
「ハッピーエンドも」「大団円も」「デウスエクスマキナも」
「愛の奇跡も」
「…いらないのよ、”アナ”。そんなものでは解決しないの」その目は、怒りと、憎悪だ。「何度、血の雨を潜っても、何度、世界を救っても、失ったものは帰ってこない。忘れたものを思い出せないように。きっと、あなたの力でも。」
”アナ”は機械杖を握りしめる。どれほど願っても、それが叶わないことを”アナ”自身が一番良く分かっていた。
「私は、私は…」
天上ヒカリの言葉は形にならず、意味だけになる。「……私は、もう、もういいの。全部。いいのよ、”アナ”。」
優しく哀しい笑顔だった。
「ヒカリ……」
”アナ”は言葉を探すが、見つからない。もはや。
天上ヒカリの胸の内側から、光が漏れている。何かの予兆。”アナ”にさえそれは分からない。
「もう許せない。もう受け入れられない。憎いの、どうやっても、全部。」
言葉とともに、激しい光が天上ヒカリの身体を破いた。溢れ出す光は光条となって地と天を割り、光子が確率臨界を起こし、あちこちで虚空が生まれる。
暴走。天上ヒカリの最後の選択。
「お願い」”アナ”は光に伴う爆風に飲み込まれ、大きく吹き飛ばされるが、見た。その光に飲み込まれる前に、口が言葉を形作ったのを。
「助けて」
それに続く最後の言葉は、光の波だった。
(怪獣になってしまう前に)
天上ヒカリは光となった。
”アナ”は奥歯を食いしばる。
機械杖が、ガチッ、と鳴いた。世界が静止する。光の奔流も、割れる大地も、焼かれる木々も、虚空の穴も、歪んで割れた空さえも。
”アナ”も。停止した時間の中で、”アナ”の意識だけが自由だった。この先の時間に行けるほどに。無数の可能性を見るほどに。
これが機械杖の本当の力。いや、もしかしたら”アナ”の本当の力なのかも知れない。説明することも難しいこの力によって、光も重力も空間も、世界の全てが”アナ”の敵になったとしても、可能性だけは”アナ”の味方になった。
時間が動き出す。
一塊の光となった天上ヒカリが、爆発した。滅ぼすための太陽のように。世界全てに光と光条と虚空を振りまいた。”アナ”の散逸防御が辛うじて威力を殺す。
だが、光は収まらない。なおも強まる。宇宙全てを焼き尽くすほどに。
この災害を放置すれば《宝華世界》だけでなく、他の世界も巻き込み連鎖崩壊するだろう。そして、その崩壊の連鎖は予め起こされていた重力波によって誘導され、絶対の壁を超え、《基底世界》にまで到達する。
”アナ”はそれを止めなくてはならない。なぜなら、ヒーローだから!
虚空が大地を割り、”アナ”の着地点が狂った。転ぶ。
「くそっ!」
莫大な光子の確率振幅が、可能性の確定を大幅に制限しているせいだ。
(”アナ”、干渉可能区域に入った。何か援護できることはあるか?)
間宇宙掘削船『ペーパーフィッシュ』より通信。並行世界統治機構のセオベア・アルベルト長官だ。機械杖が音を立てる。
”アナ”が叫ぶ。
「干渉領域0,0,0,0、絶対座標指定!」
(その座標は存在しない。)
「する!」
”アナ”は前へ走り出す。目指すべきは、太陽の中心。肌が焼ける。だがなおも進む。
(了解した。この干渉で私の存在確率が0%になる。よって、今後の援護は不可能になるだろう。)
”アナ”は唇を噛みしめる。長官が死ぬ。いや、消え去る。その痕跡すらを残さずに。一体どれほどの犠牲を払えば、未来に届くのか。
「長官、別の方法を…」
予定調和の言葉。長官は断る。そして私はショックを受けた顔をする。知っている。運命も、宿命も、もう”アナ”の敵だ。
(否。君の作戦を肯定する。むしろ、私の存在が無為に無くなるよりよほど良い。この殺風景な長官室にも飽き飽きしていたところだ。)
「…っ長官」
光条を弾き、身を焼く光を捻じ曲げる。極致の光子操作をもってしても両手の皮が赤く爛れる。
(礼を言う、”アナ”、これで『私』達にも、顔向けできる。)
”アナ”はなお、光の中心へ進む。目の前の自分の手すら、光で見えない。
光だけで出来た太陽の中心近く。もはや目は役に立たず、光子感知でも何も感じない。それでも可能性は”アナ”をここへ連れてきた。
「重力波来ます!」
(5秒前、3、2、1…)
重力波が届く。この世界に。四方より起こる空間の波によって光が圧縮され、ありえない方向へと押し出される。その不可能のベクトルの先に、《基底世界》がある。
(干渉。ではな、”アナ”。)
驚くほどあっけない言葉とともに、セオベア・アルベルト長官は存在確率の向こう側へと消えた。それでも”アナ”はまだ、絶望してやらない。前へ進む。
光、光、光。太陽の中のほうがまだ優しいだろう、絶対の光の中。その何かの中で、”アナ”は掴んだ。それは形があった。そして、名前も。懐かしく、初めて見るもの。
ヤハトの心核。美しく哀しい光の玉。”アナ”が何かを思う前に、偉大なる機械杖が、その魂を飲み込んだ。覆い尽くす光と共に。機械杖は偉大なる道程の終わりを告げるように、ガチッ、と音を立てた。光が止み、視界がひらける。
”アナ”が見回すと、世界があった。星のように瞬き、それぞれが光っている。108だった世界。心核となりきらず、漏れ出した膨大な光が、その宇宙と宇宙の間を川のように流れていた。
機械杖に呼びかける。
「ねえ、ヒカリ…、ああ、もう、私がヒカリなのね」
機械杖が、ガチ、と時間を刻む。眼下の並行宇宙に光の川が流れない場所がある。そのことによって何かの形を浮かび上がった。108の宇宙の中心。存在しない絶対座標。そこに、《基底世界》がある。
「力を貸して」
機械杖が回り始めた。
光の川が流れる。全ての流れが迂回し、分かれ、合流して、宇宙の中心に集まる。光の川が浮かび上がらせる、本物の世界、その輪郭。
その『絶対の壁が崩れだす』。
何の変哲もない都会。何の変哲もない午後。誰もが平穏と信じる、繁栄を謳歌する世界。
誰もが聞いたことがないサイレンが鳴った。誰もが体験したことのない赤い雨が降った。
携帯端末で撮影する者、世界の終わりだと叫ぶ者、緊急の対応に忙殺される者、世界の真実を知る者。誰もそれを予想できなかった。
ウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥーーーー………
団地。マンション。ビル。歩道。
赤い雨を浴びて、誰かが世界に降り立つ。金色の機械杖を持った、ツギハギの美しいドレスを着た女だ。
彼女を見つけた、赤い雨に濡れた少女は聞いた。
「お姉さん、だれ?」腕に抱く人形の肌は雨を吸って赤く染まっていた。美しい女は答える。
「私は…天上ヒカリ。」
少女は目を見開いた。
「私とおなじ名前?」
女は薄く笑った。
「ええ、そうよ。」
赤い雨が、その目尻を伝って、頬へ流れた。
少女は聞いた。
「どうして泣いているの?」
唯一の彼女は、『唯一』の彼女に答えた。
「ヒーローだから」
【終】
怪獣ヶ丘 d5d2b8d7b9de @yumekurage0120
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