第60話 これで終わりだ!

 闇の中で、自分になにが起きているのかさえ判別できなかった。

 おぞましい死の恐怖だけが全身を包んでいて、身じろぎするだけで肌が焼けるような気がして――美里は丸まったまま動かずにいた。


 思考を止めれば、恐怖を感じずに済む。

 最初は必死に抗っていたように思う。けれど、無限に続くとすら思えた地獄は精神力を奪い、闇がすべてを閉ざした。


 …………………………………………

 ………………………………

 ……………………

 …………


 ……わずかに、光が差した。

 朝、目を覚まし、眼球を覆うまぶたに投射されたカーテン越しの日光のような、かすかでやわらかい光だった。

 それがなんなのかは分からない。ただ、掴まなければいけない。

 手を伸ばそうとする。瞬間、焼けるような痛みが襲う。


「…………隆吾」


 まどろんでいた思考の中から、その名前が浮かんできた。

 そうだ。彼を助けなければ。

 なぜ好きになったのかは思い出せない。たぶん、特別な理由などはない。一緒にいるうちに、自然とそうなってしまったのだ。


 ここから出なければ。


 隆吾ならば、いつまでもこんな場所にいない。


『むかつくヤツはぶん殴る』


 それが彼の信条だ。

 感情にすなおで、なのにどこか理性的で、ふたつの人格が共存しているかのようにも見えて、それでいてシンプルな人間性を持っている。

 そんなふうに生きられたら、と憧れていた。


『ぶっ飛ばそうぜ、美里。おまえがむかついてるヤツを』


「そうね……」


 全身が粟立つような恐怖。総毛立つ。


「私だって……あいつをぶっ飛ばしたい……」


 本能的に手を引っ込めたくなる衝動を抑えて、光に手を伸ばし続ける。


「だから、だから……待ってて……」

 

 この光はどこに通じているのか、絶対に確かめなくてはならない。そんな使命感に突き動かされ、閉じたままの闇から、


「……隆吾!!」


 飛び出した。


          ◇


 美里に頸部を圧迫されながら、愛羅はできるだけ気道を確保した。


「ぐっ……うぅ……!!」


「隆吾!!」


 美里が渾名ではなく、本名で呼んだ。

 それがどのような作用を働いたのか定かではないが、痛みに震えていた彼の足にわずかながらエネルギーが注ぎ込まれたようだった。


「う……おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 こちらに悪鬼羅刹もかくやというほどの形相で向かってきた。

 どっちだ。どちらを止める。

 美里を止めれば、隆吾にやられる。

 隆吾を止めても、美里に首を絞められている状況は変わらない。

 催眠が可能である時点でこちらが有利なのは間違いないのだ。冷静に……冷静に、正解を導き出せ。

 いや、確実な勝ちを狙える道がひとつある。


「リュウくん! スマホを破壊して!!」


 命令と同時に、持っていたバットを彼に投げ渡した。


「ッ!?」


 受け取った隆吾は、自分がなにをやらされるのか理解したらしい。

 とはいえ、それに抵抗できるだけの猶予はない。


 これで終わりだ。

 落ちた円華のスマホを彼が破壊すれば、ゲームオーバー。軽やかな曲と流れるエンディングのあとに、晴れて愛羅が望む世界がおとずれる。

 願いの成就は事前に設定してある。アプリには、ゲーム終了と同時に願いが叶うという説明書きがあった。

 つまり、望んでいる『愛羅がなにをしても許される世界』になれば、美里は愛羅を拘束から解放するだろう。

 そして、スマホを破壊している隆吾の隙をついて、命令をおこなう。


 勝った。


「止めっ……」


 円華が制止しようと飛び込むも、距離がまるで足りていない。

 隆吾は茫然とした顔のまま、高々とバットを振りかぶった。円華のスマホへと確実にロックオンされている。


「終わった……!」


 振り下ろされたバットが――


「……げぶ」


 ――愛羅の脇腹を殴打した。


 明らかなフェイントが加えられた軌道によって、バットがカーブし、勢いを殺しつつも威力は出たまま、愛羅を攻撃したのだ。

 激痛が走り、肺に残っていた空気を吐き出す。

 ただでさえ首を絞められて呼吸困難だったところにこれだ。視界にバチバチと火花が弾けて、意識にもやがかかった。


 美里の手から解放されて、受け身もとれずに倒れる。

 内臓まで届く鈍痛は声を上げることすらできないほどだった。


「……一言、少なかったなァ!!」


 隆吾がクックッと喉を鳴らして笑っていた。


「ひと……こと……!?」


「『スマホを破壊しろ』って言われてよォ……おれは終わったと思った……だけど、あるじゃねえか。もう一台、スマホが」


「あっ……」


「愛羅、おまえのスマホを破壊するように命令を“解釈”してやった」


          ◇


 命令の解釈。

 隆吾自身、それにはずっと気を遣っていた。相手が『命令』を間違って解釈していたら意味がないからだ。

 だが、そこに意識が行くのはアプリを長く使っていた経験者だけ。

 愛羅は最近手に入れたばかりで、しかも使ったこともほとんどないだろう。土壇場でミスをするのも当然だった。


「あっ……うぅぅぅぐぅぅぅ……!!」


 愛羅が倒れた拍子に、彼女のポケットからスマホが顔を出した。

 画面がバキバキに割れており、中心から折れ曲がっている。どう見ても使用不可レベルの故障……いいや、損壊だ。

 さっきまであったとてつもない恐怖も消えている。


「やっ……たぁ……」


 愛羅のスマホは破壊できた。アプリは消えた。

 ダブルスーツにも手出しはできない。

 ゲームを続行することは不可能。


「これで……ほんとうに終わり……だぁぁぁぁぁぁ……ハハハハハハッ!」


 全身を宙に投げ出して、床に仰向けになって倒れる。

 筋肉を通う神経の一本一本が千切れそうなほどの激しい痛みを訴えており、精根尽き果ててしまった。


「は~~~~……もう……立てねえ……」


「クソ……が……!!」


 愛羅が悔しそうに呪詛を吐いた。


「クソクソクソクソクソッ!! クソ……はぁ……はぁ……クソッ!」


 痛みと苛立ちで怒り狂っている。地面をガンガンと殴りつけては、意味のない罵詈雑言を喚き散らすだけだった。

 腹の底から笑ってやりたかったが、もう体力はちっとも残っていない。


「ったく……手間かけさせやがって……」


「うあああああああああああああああああああああああああ!!」


「へへ、叫べ叫べ……胸がすくような気分……だ……」


 そういえば、光輝と誠人はどうなっただろうか……。

 彼らの心配が脳裏をかすめたが、もう意識がもちそうにない。自我が希薄になっていく感覚がある。脳の限界による強制的な昏倒がおとずれる。


「よっ……しゃ……」


 まぶたを閉じた瞬間、刈り取られるように意識が消えた。



 目が覚めたとき、はじめに見たことのある天井が視界に入った。

 ベッドに寝かせられているのだろうか。低反発で包み込んで来るような感触がある。たぶん、高級品だろう。

 重たい首を動かして、あたりを見回した。


「……美里?」


 最後の最後で窮地を救ってくれた親友は、ベッドを支えにして眠っていた。おそらく、隆吾のそばにつきっきりでいるうちに、寝落ちしてしまったのだろう。

 だったら、ここは美里の家か?


「いや……おいこれ……愛羅の家じゃねえか」


 以前来たときのままの光景だった。見間違えるはずがない。


「起こしたらまずいか?」


「うぅん……タヌキ……?」


 パチパチとまばたきしながら、寝ぼけ顔で見上げてくる。


「いまは……あぁ、もう十一時か。結構眠ったね」


「光輝と誠人はどうなった?」


「あぁ、それならバニースーツが助けてくれたよ。エクスペリメンツ……いや、ゲームだっけ? が終わったからさ。っていうか、呼び名を変えられたらややこしいっての……」


「そうか。無事か……よかった」


「全治二週間のケガだけどね。ちゃんと生きてるわよ」


「……謝りに行くか」


 かなりのムチャをさせたのだから、恩返ししないとバチが当たりそうだ。たぶん、焼肉を奢れと迫られるだろう。

 そういえば……。


「み、美里はなんともないか?」


「うん、だいじょうぶ」


「ほんとか? 無理しなくていいんだぞ」


「ちょっと、なんで過保護になってんの? アハハ、タヌキがちゃんと助けてくれたでしょ?」


 愛羅の辱めについてはどうなったのか。正直、なにかあったにしては晴れやかすぎる笑顔だ。

 ……愛羅はおれを怒らせるためにわざわざあんなウソをでっちあげた?

 実は止めてほしかったんだ、とかいう悲しい過去を持った悪役みたいな行動ではないはず。そんなつもりならもう少し手心があっただろう。


「愛羅ってね」


 と、唐突に美里が語り始めた。


「私のことをけっこう気に入ってたみたいでさ。よく甘えてきたのよね。だからかな。縛られはしたけど、それ以上のことはなんにもされなかった」


「人の心があったんだな、あいつにも」


「思い出してみてよ。愛羅をバットでボコボコにしたのは私でもあるのにさ、あの子ってずっと円華だけを敵視してたじゃん」


「そうだっけ?」


「そうよ。まあ、愛羅だから実は違ってたりもするかもだけど」


 どちらとも言い切れないのがあの女の怖いところだ。


「で、愛羅は? あいつも病院か?」


「この家だよ。脇腹を殴られたけどスマホがクッションになってそれほど重傷じゃなかったから。いまはめっちゃ拗ねてる」


「あぁ、そうか。じゃあ、円華は……」


「愛羅を監視してる。アプリがあるからね。任せたほうがいいでしょ」


「そうか……」


 どうやらほんとうに終わったようだ。実感はないが、足の筋肉痛がこれが夢ではないことを証明している。


「――目が覚めたか」


「うおおおおおおおッ!?」


 突然、バニースーツが部屋にあらわれた。前触れもないから、ヘタな心霊映像より心臓に悪い。


「驚きすぎだ」


「ふざけっ……いや、いい。なんの用だ」


「おまえの願いを叶えに来た」

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