第35話 愛羅の家出
部屋に戻ると、バニースーツは姿を消していた。
干渉しないようにするとは言っていたが、ほんとうに重要な場面にしか姿をあらわさないようだ。
春義……ダブルスーツとは正反対の行動だった。彼はペナルティさえ
「パジャマに着替えるから出てってよ」
「イヤだ。ここで着替えるつもりならガン見してやるからな」
「座右の銘が“反骨精神”だったりする?」
「“きつねうどん”だけど」
「なぜ……?」
昼間引っ叩いたばかりだというのに、よくこの態度でいられるものだ。
いや、この女の頭の中身を推し量るなど誰にもできまい。考えるだけ無駄というものだろう。
愛羅のパジャマはプルオーバータイプの半袖だった。色は薄い水色。首元にボタンがあるが、留めておらず、胸の谷間が垣間見える。
「そういえばタヌキ、お母さんにリュウって呼ばれてんだね」
ベッドに寝転がりながら、ニヤニヤしている愛羅。
隆吾はパソコンのそばにある回転イスに座っている。
室内はこれといって特徴がない。ベッド、パソコン、勉強机、クローゼット、本棚とか、それぐらいだ。入室した愛羅がすぐつまらなさそうな顔をしたことが、この部屋を物語っている。
無趣味というわけではないが、なにかにハマっても収集したいと考えたことがないのだ。
「親からリュウちゃんって呼ばれちゃ悪いか」
「似合わないって。タヌキはタヌキって感じだもん。ねえ、愛羅もリュウくんって呼んでいい?」
「やめてくれよ……」
「アハハハ! 嘘だって! だって、キモいもん!」
玄関で騒がれたらまずいから、と家にあげたものの、泊めるかどうかはまだ決めていない。
両親も最初こそ邪推するような真似をしてきたが、彼女が家出してきたことを教えると、心配する様子を見せた。お人よしだ。
「さっさと理由を話せよ。なんで家出してきた」
いい加減辟易して本題に水を向けると、愛羅は枕をギュッと抱えた。
「あのバ……えっと、ママがまた彼氏候補とか連れてきて、いい加減に嫌だって怒ったの」
「それで家出か」
「ううん。それもあるけど、その連れてきた彼氏候補がね、愛羅に言ったんだ」
「『トイレどこですか?』って」
「ぶっ殺すよ?」
「やってみろや」
「……愛羅のパパが浮気してますよ、って言ったんだよ」
沈痛な面持ちで語った彼女に、隆吾は「あー」と二の句を告げられなかった。
家にはほとんど帰らず、娘には金だけ渡す父親。
母親とは会話もない。
そんな人が裏でちゃっかり浮気していました、なんてドラマでも定番すぎて使われないレベルだ。
「なんでその彼氏候補は父親の浮気を知ってんだ」
「その浮気相手が芸能関係者だから耳に入ったんだって。まあ、たぶんアイドルとかモデルとかなんでしょうけど」
嫁がまだ芸能界で働いているのに、チャレンジャーがすぎるだろ。
愛羅はふつふつと怒りが沸き上がってきたようで、だんだんと眉間にしわが寄ってきていた。
「……だから、家にいたくなくて出てきたの」
「生まれて初めておまえに同情したよ」
母は自分を道具として見て、父はまるで興味なし。
たとえどれだけ恵まれていたとしても嫌になってくるはずだ。
「っていうか、よく住所がわかったな」
「なにかに使えるかもと思って、誠人に調べさせてた」
まーくん、とすら呼ばなくなったか。彼女からすれば裏切り者だから、もはや以前のようになれ合う必要もないのだろう。
というか、調べられていたという事実にゾッと寒気がした。
いったいいつからだ。
「調べてなにするつもりだったんだよ。おれの家族にまでなにかする気か?」
「そこまでやったら警察沙汰じゃん。あくまで保険だよ、保険」
はぐらかすつもりらしい。
下手に深堀して鬼か蛇を出す気はないから、追及はしないでおく。
狡猾だとは思っていたが、愛羅という女はどこまでも油断できない。ただの非力な少女だと侮れば、足をすくわれるのはこちらだ。
どれだけの人間がこの女に虐げられてきたことか。
「わざわざおれの家に来たってことは、アプリが目当てなんだろ?」
本題に入ると、愛羅は片方の口角だけ上げて、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「手伝ってくれる?」
「内容による」
即座に突っぱねてもよかったが、いちおう話だけでも聞いておきたい。純粋な好奇心として。
「パパが浮気してるのはどうでもいいんだけどさ。まあクズはクズだから嫌いではあるけど」
愛羅は予想外に冷たい声でそう言うと、話を続けた。
「それより、ママが芸能界に入れようとしてくるのがほんとにきついんだよ」
「だから、おれにどうしろって……」
「アプリを使ってママが愛羅に逆らえないようにしたいの」
物騒ではあるものの、想像よりは平穏な策だった。殺せ、とまで言われたら、さすがに蹴り飛ばしてでも追い出していた。
「おれはこのアプリをそんなことに使う気はない」
「じゃあ、代わりに愛羅がひとつ、なんでもしてあげる」
愛羅の瞳が妖しく輝いた。不敵な笑みの奥には、自分という存在の価値の大きさを知る小悪魔が見え隠れしている。
少し前の自分ならば少しは揺らいだかもしれないが、いまはいろいろあって頭が混乱してしまっている。
正直、いますぐにでも愛羅を追い出して眠りたいぐらいだ。
「どうする?」
「断る」
「なんで?」
ぐいっと愛羅が顔を寄せてきた。目鼻立ちの整った面が、鼻がぶつかりそうなほどの至近距離にある。
ふわりと果物のような甘いにおいがした。年頃の女子特有のにおいだ。
「……ねえ、タヌキ。じゃあ、なにが欲しいの?」
囁き声が
さすがに理性が揺らぎそうになるが、やはり心の底の部分は冷めきっており、表には出さなかった。
愛羅の手が隆吾の首筋をすーっと撫でる。
「愛羅に催眠かけたこと、みんなに言いふらすよ?」
「誰も信じねえよ」
「だろうね。でも、喧嘩をけしかける理由にはなる」
「そうなったらアプリを使って、おまえをボコボコにする」
話は平行線をたどる。
女の子を傷つけることに躊躇はある。それがたとえ愛羅であってもだ。
けれど、やらなければやられるという状況になったとき、迷わずアプリを使うだろう。
「正直、おまえが真実を知ったとき、もっと怒り狂うと思ってた」
「だって、割と楽しかったからね」
屈託のない笑みを浮かべる愛羅から嘘は感じられない。
「なあ、愛羅」
「うん? なに~?」
「おまえの母親を改心させるのを手伝ってやる」
「え! いいの!?」
「代わりに、二度と誰かを奴隷扱いするな。理不尽に虐げるな」
こんなことをわざわざ語ることすら恥ずかしいが、こうでもしなければ愛羅の悪逆非道は止まらない。
光輝への謝罪も考えたが、いまの彼女が素直に聞き入れるか怪しかったから断念した。
「……………………」
なぜか、彼女は難しい顔で黙り込んでいた。
「……どうかされました?」
「いや、催眠アプリ使ってるタヌキが言えることかなって思って」
「ハハハハハハハハ!」
隆吾は腹の底から大笑いして、スンと真顔になった。
「まったくもっておっしゃるとおりで」
「それで、どうやってママを改心させてくれるの?」
「さらっとおれの取引をスルーしやがったな。解決法は明日おまえのママに会ってから考える。話をしてみないことには
「なるほどOK。で、次に愛羅の寝るところなんだけど」
「床」
「このベッドがいい」
愛羅が枕を抱きしめて、上目遣いでこちらを見てくる。
彼女は人の心の掴み方をよく分かっている。自分がとびきりの美少女であることも自覚しているし、それを行使することに躊躇がない。
その効果も絶大で、隆吾でさえこのまま彼女の願いを聞いてやりたくなってくる。
まあ――
「どけ」
隆吾は愛羅を引っ張って床に落とした。
「ぐえーっ」
彼女は顔面から床に激突し、潰れたカエルのような苦鳴をあげた。
――だからといって、ベッドは譲らないが。
「なにするのタヌキ!」
「ベッドで寝るのはおれだ!」
大の字になって寝転がると、愛羅が不満げに頬を膨らませた。
「……わかった。じゃあ、こっちにも考えあるから」
なにをするつもりだ、と薄目を開けて様子をうかがう。
すると、愛羅は隆吾のそばに体をあずけて、抱き着く恰好で添い寝をした。大きな胸ががっつり密着してくる感触がある。
困惑と興奮で、リアクションすらできなくなってきた。
「……これでいいよね」
得意げに笑う愛羅。
少し前の彼女なら……いいや、そもそも敵対関係にあった人間とのあいだに、こんな態度は取らないはずだ。
隆吾はスマホをそっと取り出して、アプリから『好感度閲覧』を起動した。
以前、愛羅の好感度は『72』だった。
最大値が『100』よりもずっと上にあるものだと考えていたが、光輝の語ったとおり『100』が本来の最大値であったのなら……。
計測の結果が出た。
好感度『78』。
上がっている。
仮に“好きでも嫌いでもない”が『0』か『50』だったとしても、この『78』という数値はかなりの大きさだ。
抱き着いている愛羅が少し嬉しそうにしており、その頬がやや朱に染まっているのを見るに、並々ならぬ感情が生まれていることは間違いない。
だが、好かれる要素などあっただろうか。
一度助けただけでオチました、なんてマンガのヒロインじゃあるまいし。
……いや、ひとりいたか。
最大値であろう『100』を超えている彼女が。
そういえば『命令レベル3』に上がったのだから、質問に対する強制回答の消費レベルも引き下げられたはずだ。
試しに使ってみよう。
「なんでおまえはそんなにおれに好感を抱いているんだ」
アプリの『命令』を発動。
消費レベルは『1』だった。さすがにゼロにはできないが、以前よりもはるかに使いやすくなった。
愛羅はその双眸に憂いを滲ませた。
「どうしてって、タヌキだけが愛羅と対等に接してくれたから。いままで学校で出会う人たちってね、みんな形はどうあれ愛羅と一定の距離をとってたんだ。
女子はわざとらしく担ぎ上げるか、腫れ物に触るみたいな感じ。
男子は下心ありきで接してくるか、愛羅をバカにして他の女子の点数稼ぎに使ったりとか」
すらすらと自己分析を述べる愛羅。消費されたレベルは『1』のみだった。
コミュニケーション能力は最低レベルなのに、容姿は抜きんでている。そんな彼女にとって、世間の反応は歯がゆいことだろう。
だからといって、所業が許されるわけではないが。
「愛羅もね、自分があいつらを利用してるのと同時に、あいつらが愛羅のことを利用してることには気づいてたよ。誠人と付き合ったのだって、お互いに利益になるからだったし」
「その割にはこき使ってたみたいだが」
「まあね。あんま役に立たなかったからさ。でも、タヌキと光輝、それに円華はそういうの抜きにして向かって来てくれた。タヌキたちに関してはめちゃくちゃイラついたけど、いま思うと、結構楽しんでた気がするんだよね。あんだけ対立する人間って初めて会ったもの」
「じゃあ、光輝でもよかったんじゃないのか?」
「そうかも。でも、タヌキはデートのときに真剣に愛羅と向き合ってくれたからさ、嬉しかったんだ。アプリがきっかけとはいえ、ね」
「誠人となにが違うんだ」
「あっちはいつも愛羅の機嫌をうかがって、怯えてた。まあ、愛羅がそうさせてたんだけど」
続けて質問を三回おこなってしまったが、消費したのは最初に使った分のみだった。さすが『命令レベル3』。かなりコスパがいい。
などと考えているあいだに、愛羅がさらにぐっと密着してきた。
「タヌキ~狭いからもっとくっつけよ~」
「暑いよぉ……」
ニコニコしながらくっついてくる彼女を押しのけられず、悶々とした夜を過ごした。
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