第32話 ゲロ入りラッパ
もう話は十分だ。
この事件の首謀者が度し難い存在であり、無邪気な邪悪とでもいうべき思想によって、隆吾たちを巻き込んだ。
そして殺し合いにまで成長しかねない
それだけ分かれば、もういい。
「話は終わりだ」
こぶしを手のひらに打ち付けると、パシンと小気味のよい音が鳴った。
「いまからテメェらをぶん殴る」
「ダメだよ、タヌキくん」
円華が余裕げな笑みを浮かべて言った。
「私たちの戦いはここじゃなくて、現実でやらないと」
「おれはハナからルールに従う気なんてない。キミのスマホは破壊させてもらう」
「いい決意だけど」
と、円華はこちらに背を向けた。
対面には黒い穴……彼女たちが通ってきた侵入経路が存在している。
おれたちがなにをしようと、ものの数秒とたたずに、彼女たちは現実へと帰ることができるだろう。
「じゃあね、タヌキくん」
勝ち誇ったように笑う彼女に、隆吾のなかにある理性の糸が一本――プッツンと切れた。
昔から、敵キャラがおめおめと逃げ出す展開が嫌いだった。
主人公たちがなにかしらの理由があって敵を追えないのだと分かっていても、もし追いついたら物語が終わるのだとしても、せめて一矢報いるぐらいはしてほしいといつも思っていた。
もちろん、そんなことを考えていたわけではない。
なぜなら、隆吾が行動に出るまでの時間はわずか〇・五秒。
完全に反射的なものだったからだ。
近くにいたウサギのラッパを掴み上げると、
「逃げんじゃねえええええええええええええええええええ!!」
あらん限りの力でぶん投げた。
狙いは円華。
もはや相手が女の子だから暴力はどうこうという、基本的な倫理観は頭から抜け落ちていた。
ただ「むかつくからぶっ飛ばす」だけが己の行動理念となり、それを実行すべく体が勝手に動いただけだった。
「そんなの投げても……」
と、円華が回避の姿勢を見せたところに、
「それ、ゲロ入りラッパだ!!」
「え!?」
光輝が叫び、それに驚いた円華の動きが一瞬だけ止まった。
カツン、と床に激突したラッパは吐瀉物を撒き散らして転がっていく。それはちょうど侵入経路のすぐそばだった。
「なっ……!?」
慌てて飛び退いた円華を、
「フンッ!!」
隆吾は駆け足の勢いのまま、体当たりで押し倒した。
「ぐっ……!?」
円華は慌てて右手を差し出してガードしようとするが、間に合っていない。手のひらは宙を掴んだだけだった。
「取った!!」
両足で彼女の上半身を抑え込み、とっさに抱き着くように彼女の右腕を極める。
腕十字固めだ。
完全に技がかかっている。円華はジタバタと足を振っているが、体勢を変えるにはまるで至らない。
隆吾はそのまま、棒立ちのダブルスーツを睨んだ。
「どうだ? ここでこの子を助けてまたルール違反をするか?」
「いいや。これ以上の優遇を与えてしまったら、それこそ勝ち目がない。円華には己の力で現状を打破してもらうよ」
「その言葉を期待してたんだ」
これから円華のスマホを奪い、破壊すればいい。それだけでこのエクスペリメンツとかいうふざけたゲームは終わる。
体の下で、彼女の
理由があるとはいえ、女の子に暴力を振るえば少しは心が痛むのがフツウだろう、とは思う。
だが、実際はどうだ。
微塵も罪悪感を覚えず、このまま腕をへし折ってもいいとすら考えている。
おかしくなったわけではない。
もう他人に失望することに疲れた、という気持ちのほうが強かったからだ。
頼むから、これで終わらせてくれ。
長いようで短かった戦いだった。
円華が調子に乗ってここに来てくれなかったら、さらに長引いていたことだろう。
あとは光輝にスマホを破壊してもらうだけでいい。
「ねえ、知ってる?」
ふいに、円華が言った。
朗唱でもしているかのように通った声が、このふざけた空間によく響く。
体を拘束されているというのに、苦しさをみじんも感じさせない。
「アプリを排除しても、催眠は解除されないんだよ」
「だからどうした」
「そして上位レベルの『命令』は一部永続させることができる。つまり、私がそのアプリから催眠解除をしない限り、もしアプリを排除してしまったら、催眠にかかっている人は一生そのまま生きていくことになるわけだね。
それは所有者も例外じゃない。
『態度』の催眠は所有者になった時点で解除されるけど、永続効果のある『命令』をかけた場合、所有者であっても解除されないんだ」
「説明ご苦労さん。検討してみたところ、ここで終わらせたほうが被害が少なくて済むと分かった。これ以上被害を増やすぐらいなら、おれの記憶に関しては諦めるしかないな」
次にこれだけ接近できるかすら定かではない。
それに、もう無駄に走り回るのはうんざりだ。
「光輝! 円華のスマホを破壊しろ!」
「あぁ――――がっ!?」
光輝の呻き声で、ハッと顔を上げた。
ぐらりと倒れる彼の後ろで、
「……ッ!」
美里がラッパを振り下ろしていた。
それが直撃した位置は光輝の後頭部だろう。あぁ、なんでこんなに冷静に観察しているんだ。
呆然としていながら、認識だけはハッキリしていた。
バタリと倒れる親友。
迫ってくる美里を見て、隆吾は自分も狙われていることを察した。
しかし、避けようがない。
ならば、
「フンッ!」
全身を使って体をねじり、円華の細腕をへし折った。
「イ……ッ!!?」
ここで逃がすぐらいなら、後々追い詰めやすいように怪我を負わせてやる。
パキッ、という背筋が凍るような感触が伝わる。肉体内部で起きている恐ろしい破壊に、加害者である隆吾自身も震えた。
いや、違う。
肩が外れただけだ。
いまになって思い出す。
こっちはバイクと衝突したときに外れかけていた肩!
円華は隆吾が体当たりをしかけた瞬間、わざと右腕を差し出したのだ。おそらく、腕を極めるのを読んでいた。
あの廃工場で一度、隆吾は彼女の体を拘束している。だから、また同じ行動を取ると予測したのだろう。
だからといって、寸前で体勢を変えて腕をへし折るのを回避するなんて。折るまでに若干の躊躇いがあったとはいえ、とんでもない判断速度だ。
やられた。
「タヌキ!!」
美里のフルスイングがこめかみにぶちこまれる。
目の奥でパチパチと火花が散るような感覚とともに、
「ぐぁっ!」
衝撃で力を緩めてしまった。
続いて、美里のがむしゃらなタックルが隆吾を弾き飛ばした。床に背中をしたたか打ちつけ、呼吸をひとたび忘れる。
まずい。手を離してしまった。
ここまでされて、ようやく彼女の目的に気づく。
円華を助けるためにこんなことをしているのだ、と。
しかし、なぜ?
そういえば、どうして美里は円華に従っていたんだ。
横槍のせいで聞けなかったが、そこが重要だったんじゃないのか。
「待っ……!!」
急いで立ち上がろうとするが、
「じゃあね」
円華、ダブルスーツ、そして美里の三人は黒い穴の向こうへと消えていた。
訪れる静寂。
すでに誰もいなくなった虚空を眺めて、隆吾は深くため息をついた。
失敗した。
徐々に力が抜け、膝立ちになり、寝そべる。
天井を仰いだまま深呼吸を繰り返す。
「……ふざけんな」
よくよく考えてみれば当然の結果だった。
いろいろありすぎて追及を後回しにしていた問題が、めったにないチャンスをこうして潰したのだから、笑える話だ。
美里は初めから言っていた。円華に従わされていると。
こうなることは予測できた。
判断ミスだ。
「なぁ、バニースーツ」
「なんだ?」
「おまえはこんなものを楽しんでいるのか?」
裏切り、裏切られ、騙し、騙され。
自分もその一端を担っていただけに他人事のようには言えないが、ウンザリするような下劣さだ。
「お望みのものは観られたかよ」
「そうだな。当初の予想からは大きく外れた結果になったが、なるほど、これもまた人間らしい行動といえて興味深い」
「予想?」
「人は身の丈に余る自由を得たとき、本性をあらわす。使い切れないほどの金を手にして豪遊する人間もいれば、逆に病気の子供たちを想って募金をする人間もいる。窮地に立ったときに本性が出るとのたまう人間がいるが、とんでもない。ほんとうの善性は絶対的強者になったときにこそあらわれる」
バニースーツがその場で腰を落とすと、近くにいたウサギが慌てて四つん這いになり、イスの代わりになった。
「おまえたちはもっと自由に、自分の欲望のままにアプリを使うと思っていた。蓋を開けてみれば、意外にもお行儀のよい争いが繰り広げられていた」
「おれは最初から自分の欲望に忠実に動いてる。むかつくヤツをぶん殴りたい、っていう一心で」
「怒り、か」
「あぁ、正義とか悪じゃない。おれはひたすら怒ってたんだ」
ゲスな人間ならば愛羅たちに関わることなどせず、アプリを使って酒池肉林の理想郷でも作り上げていたことだろう。
だが、隆吾はそれをしなかった。
自分はそこまで高潔な人間ではないと思っていただけに驚きの事実だ。
その理由はなんとなく分かっている。
アプリを愛羅たちへの反逆に使うと決断した瞬間、隆吾の背後にはいつも光輝の目があった。
いいや、そこにあると幻視していた。
友に誇れる人間にならなければならない、と無意識に考えていたのだ。
「それと一番大きな理由は……」
「なんだ?」
「善行をおこなわなければレベルが上がらないっていう仕様のおかげかな。あれのせいでいつも『善悪』を意識させられていた」
誰になにをすれば喜ばれるのか。反対になにをすれば嫌われるのか。
レベルに関係してくる部分ゆえ、常に念頭に置かなければならない要素だ。だから、たとえ
「あれを入れたのは私だ。おこないには因果があるべきだろう。善いおこないをした者には、それに値するだけの悪が許される」
「逆もまた然りか」
「私もこのエクスペリメンツを開催できるだけの善行を積んできた。干ばつの地に雨を降らせ、疫病が蔓延すれば
最後のは、万引き犯に出会った日のことか。
未来視か、それとももっと概念的な現象を掴んでいるのかもしれない。どうでもいいことだが。
「タヌキ、落ち着いてるな」
光輝が腕を組みながら言った。
「もうなにも考えたくないだけだ」
隆吾は天を仰いだまま、ぽつりとこぼした。
◇
美里はビルの薄暗いオフィス内で、自分の手に残っている打撃の感触を振り払おうとしていた。
やるしかなかった。
光輝を後ろから殴り、隆吾を突き飛ばして、エクスペリメンツを終わらせる最大のチャンスをフイにした。
やるしかなかったのだ。
ダブルスーツはすでにこの場にはいなかった。
エクスペリメンツの進行に、ゲームマスターが直接かかわってはいけない。おそらく、もっと高みでこちらを観察しているのだろう。
「上出来」
コンクリむき出しの柱の裏から、円華が拍手をしながら出てきた。
「利害関係として完璧な立ち振る舞い。ありがとうね」
「ふざけんなッ!!」
美里は壁を力任せに殴りつけた。ズキズキとした痛みが骨にまで到達して、肌を冷たい血がツーッと流れ落ちる。
それだけで頭に登った分が消費されるわけもなく、むしろ憎悪を余計に燃え上がらせただけだった。
「最初からこれが目的だったんでしょうが!」
「なんのこと?」
「私があんたを助けるところをタヌキたちに見せて、仲違いさせる。そうでなきゃ、わざわざあそこに来たりしない!!」
「ひどい言い方だなぁ。美里ちゃん、そういう約束だったじゃない」
「そうね……私がタヌキに完全に嫌われれば、あいつの記憶を戻してもらう。そういう約束だったわよね?」
あの日。
光輝は転校して、隆吾は美里との記憶を消されてしまった。
昨日までの友人を理不尽に奪われ、抵抗する手段も持たなかった美里は、円華の最悪の提案を飲むしかなかったのだ。
愛羅のイジメに加担して、隆吾を突き放すこと。
だから、さっき円華のスマホを破壊されるわけにはいかなかった。
記憶を戻してもらわなくてはならない。
そのために自分の感情を殺して、きょうまでやってきたのだから。
「美里ちゃんにはね、タヌキくんの敵になってほしかったの。だから……」
パンッ、と弾ける音がして、美里はビクッと肩を震わせた。
円華の手にはパーティークラッカーが握られていて、その穴からカラーテープと紙吹雪が舞っている。
鮮やかな色とりどりのそれらひとつひとつがグロテスクに見えた。
「きょうから美里ちゃんは正真正銘、タヌキくんの敵だよ」
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