第30話 憐れなウサギ

 あの日。

 光輝がこの催眠エクスペリメンツアプリを手に入れたのは、高校の入学式の日だった。

 窓から桜の木が見下ろせる四階の教室で、僕はこれからの高校生活に思いを馳せていた。

 友人であるタヌキと美里が同じクラスになったということもあり、表面ではクールを装っていたが、内心浮かれていたのだ。


「部活なにすんの?」


 美里の質問に、隆吾は寝ぼけた様子で答えた。


「おれは別にいいわ。中学で陸上やったけどだるかったし」


「ふーん。私もなんにも考えてないなぁ。光輝は?」


「僕もないな」


 毒にも薬にもならない会話を続けていると、扉がガラッとひらく音がした。

 室内を覆っていたざわつきが掻き消える。

 遠慮がちに顔を出したのは、整った顔立ちの美少女――円華だった。

 人間のなかには存在しているだけで雰囲気を変えるほどの力を持つ者がいるが、その例にあてはまるのが彼女だろう。

 おしとやかな立ち振る舞いは、浮ついたクラスメイトたちの心を静め、舞台演劇の客席に座らされたような緊張感を与えてくる。


「こんにちは」


 円華は視線をクラスじゅうに巡らせ、あいさつした。

 彼女が隆吾と目を合わせた瞬間、かすかに嬉しそうに口を歪めたのを見て、光輝は背筋に寒気を覚えた。

 なにか、よからぬものを敏感に感じ取ったのだ。


「……ちっ」


 聞こえよがしに響いた舌打ちの犯人は愛羅に違いなかった。

 彼女は顔立ちだけならば円華よりもいい……が、カリスマ性に関しては圧倒的に劣っていた。

 この頃はまだ、その凶暴性はまだ抑えられていたが、すぐに化けの皮が剥がれることになる。


「では、委員長と副委員長を決めたいと思います」


 ホームルームで、担任教師が言った。

 誰もやりたがらない役だったが、光輝と円華だけは挙手していた。


「どっちがやりたいの? 委員長」


「僕が副委員長でだいじょうぶです」


 あくまで内申点稼ぎのためだったから、委員長は譲っても問題ない。やりたいのならやらせておけばいい。

 こうして決まると、次は雑用だ。

 当番表などの作成に使う紙を職員室から持ってくるよう命じられ、光輝と円華は廊下に出た。


「よろしくね」


「あぁ、よろしく」


 円華の握手に応じて、はてこの顔を見たことあるな、と記憶を探った。

 そうだ。受験日に遭遇した子だ。たしか、ナンパされているところを隆吾が助けたのだが……当の本人は覚えていない。


「前にキミの友達に助けてもらったの、覚えてる?」


 円華の問いかけに、僕はうなずいた。


「あぁ。タヌキは覚えてないけど」


「タヌキ?」


「綿貫。キミを助けたヤツのあだ名だ。綿貫だから、わを抜いてタヌキ」


「へ~……かわいいね。私が呼んだら、怒られるかな?」


「断りは入れたほうがいいな。仲がいいヤツの間で使っているとはいえ、人によっては侮辱の意味合いで使うかもしれないだろ」


「あー、分かる。そういうことする人いそうだもんね。私が悪い意味で使ってると思われたらイヤだし、ちゃんときいてみるよ」


「そうしたほうがいい」


「でも、タヌキかぁ。面白いなぁ」


 けらけらと笑う彼女は第一印象とは反対に、明るく楽しいフツーの女の子といった感じだった。

 さっきの寒気を覚える笑顔は勘違いだったのだろう。そう考えなおすほどに晴れやかで、裏などないように思えた。


 職員室で「大きな紙はないか」とたずねると、倉庫にあると教えてもらった。左奥にある扉がそうらしい。


「じゃあ、光輝くん。私はこれ持って教室に戻っておくから、そっちお願いね」


「あぁ」


 紙束の入ったダンボールを抱えた円華が職員室から出て行くのを尻目に、光輝は倉庫の扉をひらいた。


「失礼します」


 誰に聞こえるわけでもない断りを入れながら入室すると、


「…………あれ?」


 目の前に、バニースーツの少女がいた。

 パイプ椅子に座ったまま腕を組み、紅い瞳でこちらをじっと睨みつけている。

 その姿には現実感がまるでなく、作り物と疑うほどに精緻。人を模した美の極致とすら思えた。

 そこに存在するはずがないものを見て、光輝はあらゆる考えが脳から弾き出された。

 思考が停止するというのは生まれて初めての経験だった。


さぁ、実験を始めましょうかNow, let's start the experiment.!!」


 突然の叫び。

 いつの間にか、周囲の空間が白く染まっていた。

 果てなどないように見えるほどの虚無の世界。

 ファンシーすぎる異物たちに囲まれ、ただただ困惑と恐怖で足を震わせていた。


「ようこそ」


 尊大な口調で言ったのは、先ほどのバニーガールだった。


「我が名はミス・バニースーツ。百通りの名を持つ者。おまえは我らのエクスペリメンツの被験者に選ばれた」


 ひどく困惑する光輝に対して、彼女は淡々と説明を繰り返した。


「私とは別の存在からエクスペリメンツアプリを受け取った人間がおまえのクラスにいる。そいつはきっとおまえの平穏を脅かすだろう。早急に見つけ出し、アプリの消去もしくはダウンロードされているスマホを破壊しろ。これはいわば、おまえたちの言葉でいうところの“ゲーム”だ」


「な、なんだよいきなり……なんでそんなことをしなきゃいけないんだ」


「すでに始まってしまったからだ。その敵から身を守る方法はこれしかない。無論、報酬はある。そのアプリの永遠の所有権と、願いをひとつ叶える権利だ。どうだ? 実にすばらしい提案だろう? なにも殺し合えと言っているわけではない。どうしてもイヤならばいつでも断っていい。期限もない」


「ゲームって……キミにメリットはあるの?」


「私は人に興味がある。だが、ただ見るにも飽きは来るものでな。いっちょ水槽を掻きまわして混乱する魚たちを見てやったれ、というわけだ」


「あ、悪趣味なことを……」


「ちゃっちゃと決めるんだよ。人間の思考速度は遅すぎる」


「迷ってるのはあんたがあまりにも怪しいからだよ……」


 なんだかどんどん俗っぽい話し方になってきている気がする。

 魅力的な提案であることには変わりない。

 それに、面白そうだという気持ちにもなってきていた。人を操るアプリ。それが世界にどう影響を及ぼすのか見てみたい。


「分かった。やらせてくれ」


          ◇


「それがあの変な女との出会いってわけか」


 話を聞き、隆吾は言った。


「効果が本物だと分かった時点で、バニースーツの言葉の信ぴょう性が増した。それからだ。僕がキミたちに隠れて、ひそかにアプリを使って他の所有者を捜していたのは……」


「そこは詳しく話さないのか?」


「省かせてもらうよ。それに、問題はここからだろ」


 話を聞いていた美里は、あごに手をあてて考えていた。


「円華も……そのときに……?」


「違うな。あの時点で明らかにレベルに差があった」


「それで、どうやって円華だってわかったの?」


「スマホを覗いた」


「は?」


「体育の授業中はスマホは持っていけないだろう。だから、ズル休みをしてひとりひとり確認させてもらった」


「でも、ロックがあるでしょ?」


「意外とかけない人は多い。かけてる人は『命令』でロック解除するところを見せてもらう。できるだけ、無意識にやってしまった風になるよう指示を出すんだ。そしたら、円華だけが従わなかった」


「ゴリ押しがすぎるでしょ……」


「次の体育の授業中、隠れてスマホを破壊することはもちろん考えた」


 隆吾は肩をすくめながら「間違ってたらどうするつもりだったんだ」と呆れた。


「ただね、時間をかけすぎたんだろう。おそらく円華の『命令』によって辺りを巡回していた生徒に見つかり、追いかけまわされた。そして、互いにアプリ所持者だとバレたわけだ」


「もうちょっと計画的に動け」


「バレたらバレたで、ぶっつけで破壊すればいいと思ってたからね」


「脳筋メガネ……」


 話を聞いていて、ふと疑問に思った。


「待てよ。円華が光輝みたいに誰かにアプリを譲渡じょうとする可能性はあるんじゃないのか? そうしたらどうする? また一から捜さなくてはならないぞ」


「その点は問題ない。バニースーツ、教えてやってくれ」


 呼ばれたバニースーツは、階段を優雅に下りてきた。

 髪がたおやかに躍り、うさぎたちがラッパを吹き鳴らす。どういう意図があっての演出なのかは知らないが、うるさいからやめてほしい。


「その疑問、答えてやろう」


 無駄に尊大な言い回しに引っかかりを覚えたが、言葉を呑み込んだ。


「このエクスペリメンツは、自由に他者へ譲渡できるものではない。それが可能なら、そもそもの終了条件が達成されなくなるからだ」


「じゃあ、どうして?」


「相手側がひとつルール違反を犯した。代わりにこちらはルールをひとつ破っていいことになった、というだけだ」


「違反? っていうか、円華にもキミみたいのがついてるのか?」


「それについては後で語ってやる。いまはまず、過去の話に耳を傾けることだ。でないと、どんどん話が脱線していくぞ」


「むっ……まあ、そうか……」


 口を噤む。

 正直ききたいことだらけだが、物事には順序がある。あちこち枝葉を広げたら、戻ってくるころには元の話を忘れているか。


「僕は円華を敵視しながらも、積極的な戦いは避けていた。レベルがまだ十分ではなかったからな。彼女が愛羅たちの横暴を通しやすく工作していても、微力で抗うしかなかった。

 だが、そろそろ我慢の限界だったのだろう。あの日、円華は僕を排除することに決めたようだった」


「あの日?」


「僕が掃除箱に閉じ込められる直前、僕らと誠人が睨み合いになったことがあったろ」


「ありゃさすがに忘れられんわ」


「後ろで美里が『やれー! タヌキー!』って声援を送ってたな」


「え?」


 あのときの声は美里だったのか。いや、記憶が消されているから、その声が誰かも分からなかったのか?

 だんだん、胸が苦しくなってきた。

 そんなことまで忘れているなんて。


「おれ、ほんとうに記憶が消されているんだって思ったら、なんかすげえ嫌な気分になってきた……美里、ちょっと吐きそう」


「タヌキ……」


「めまいと頭痛もしてきた……」


「熱中症ね」


「うぶっ……おえええええええええええええええ」


 隆吾は我慢できず、近くにいたウサギからラッパを奪い取り、音の出口――ベルに胃の内容物を吐き出した。

 周りがドン引きしている中、吐き終えた隆吾は異臭を放つラッパを返した。

 楽器を汚された怒りで足を蹴ってくるウサギ。

 そして、素で引いているバニースーツ。


「うわぁぁ……」


「ずんばぜん……床汚しちゃいけないと思って……」


「だからって楽器に吐かないだろ」


「これって悪行になるんですかね……」


「この空間で起きたことはカウントされん。だからレベルについては問題ない。だが、それとは別にウサギに謝ってやれ」


「すみませんでした……」


 ウサギは相変わらず蹴ってきていた。

 許してもらえなかったらしい。

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