第29話 記憶の消去

 酷烈の陽光など、とっくに意識の外にあった。

 脳がこの状況の処理に困って出力することすらできず、唇を無様に震えさせるだけに留めている。

 この場にいるほぼ全員が吐息すらこぼさず、口と閉ざしている。


「タヌキ……これ、どういうことなの……?」


 肩を震わせている美里に、答えられるようなものはひとつも持っていなかった。

 悪夢でも見ているのか。

 冬のように凍りつく寒気がぶわっと背中を駆けていく。


 運転手はいったい誰なんだ?

 なんで円華は連れ去られた?

 証拠隠滅でも考えたのか?

 疑問は尽きないが、まずは通報しなければならない。明確に誘拐が起こり、見ていた人のうち何人かも警察に一報を入れるだろう。


 死人が出て、交通事故が起きて、さらに誘拐。

 数年分の厄日が集まったみたいな日だ。

 なんてことを考えていると、スマホに着信が入った。

 相手は光輝だった。


「もしもし」


『無事だったか。こっちは片付いたぞ。催眠にかかっていた人たちが正気に戻った』


「そうか」


『だが、代わりに大変なことになった』


 神妙な様子で語る声に、隆吾は鼻で笑った。


「なんだ? もうなにが来ても驚かん」


『蛇澤春義の死体が消えた』


「……………………はぁぁぁぁぁぁ?」


 さっきのこと以上の事件は起こらないだろうと高を括っていた直後に、この異常事態。

 沸騰しかけている頭は、もはや理解を拒もうとしていた。


「どうして?」


『誰も触れていないはずだが……忽然と消失したんだ』


「死体が歩き回るわけねえんだぞ。誰かが持っていったに決まってる」


『俺は死体のすぐそばにいたんだ。誰かが近づいて持っていったならすぐに分かる』


「あれが偽装だった可能性は?」


『キミも見ただろ? 包丁が刃の根元まで刺さってた。あれで生きてると思う? よしんば超精巧に作られた人形だとしても、一瞬で消えるのはおかしい』


「だよなぁ……」


 隆吾の目からも、あれは本物にしか見えなかった。

 もしも作り物だというのなら、とんでもない技術だ。ただの女子高生ができるようなことではない。

 いくら道筋を変えて推理しても、最終的に「死体が動いた」という結論に到達する。

 覆しえない事実。


「なにが起きてんだよ……」


『とにかく戻ってこい。話をしよう』


「あぁ」


 通話を切り、つぎに電話番号の入力画面を開いた。

 誘拐があったと通報しなくては。

 一、一、〇……あとは通話を――


 ――いや、そもそもあのバイカーの目的はなんだ? 

 ほんとうに誘拐か?


 ふいに生まれたちいさな疑念。

 奇妙に引っかかる部分が、指が画面に触れることを拒絶している。


 おかしいじゃないか。

 わざわざ円華を轢いてまで回収しようとするとなると、催眠アプリのことを知っている人間だろう。

 いま思えば、円華の逃走経路には迷いがなかった。最初からここでバイカーと合流する予定だったのなら合点がいく。

 あの事故はほんとうにただの事故だった……のかもしれない。よそ見をしていたせいで接近に気づけなかったか。


「とりあえず戻るか……」


「そうね」


 工場ではさきほど円華に操られていた人間たちが軒並み倒れていた。一応、意識はあるようだが、疲れきって立ち上がる気力もないらしい。

 相対していた愛羅の私兵たちはヘトヘトになっており、柱などにもたれかかりながら息を整えている。


「戻ったか」


 光輝が立ち上がり、肩をすくめた。


「円華は……逃げられたみたいだな」


「バイクに乗った人間に連れ去られた」


「は? なんだって?」


「誘拐か、それとも共犯者か……サイドカーのついたバイクだった」


「それで、警察には?」


「すまん。まだ通報していない」


「――あぁ、やめておいたほうがいい」


 突然、背後からかけられた声に振り返る。

 見覚えはないが聞き覚えはあるバニースーツ。人の物とは思えない美貌。そして、空気に溶け込んでいるようでいて声高く主張している存在感。

 尊大に微笑む表情には、かえって感情が入っていない。


「おまえ……ミス・バニースーツか?」


 十メートルほど離れた場所に、その異様な少女は立っていた。

 彼女はスッと紅い目を細め……、


さぁ、実験を始めましょうかNow, let's start the experiment.!!」


 やにわに叫んだ。

 瞬間、工場の景色が紙吹雪のように消し飛び、代わりにファンシーでメルヘンな世界へと移り変わっていく。


「え!? え!?」


 宙には巨大なフラスコ、三角形に囲まれた目、赤々と熟したリンゴがぷかぷかと浮かんでいる。

 床は赤と青のまだらタイル。それが円形のステージのようになっており、その下は底無しだった。

 周囲をラッパを持ったウサギたちが取り囲んでいる。


「は……あぁ!?」


「どういうこと……?」


 隣にいた美里が怯えた様子であたりを見回している。

 これが誠人の言っていたものか。

 まるで現実感がない。


「時間と空間を超越した場所、ポケットディメンションだ」


 知った様子の光輝が、メガネをクイッと持ち上げた。ちょっとむかつく。

 周囲には隆吾と彼ら含めての三人しかいない。愛羅たちと、彼女の私兵。そして倒れているはずの催眠兵もここにはいなかった。

 さらには、夏の熱気すらどこにもない。

 春か秋のような心地よい空気のなかにいる。


「ポケ……なんだよ、それ」


「神隠し、アブダクション……人が突然消える事例は数多くあるが、その答えがこれだ。彼ら上位者は固有時空間ポケットディメンションを持ち、生み出すことができる、らしい」


「……らしい?」


「僕も以前、聞いただけだからな。そのミス・バニースーツに」


 そういって水を向けられ、隆吾と美里はふたたびバニースーツへと向き直る。彼女は階段の一番下に腰かけていた。


「光輝とあなたは知り合いだったの?」


 美里の質問に、バニースーツは軽くうなずいた。


「あぁ。そもそも、そやつと私は、このエクスペリメンツによってパートナーの契約を結んでいる。だが、現在はそこの綿貫隆吾に所有権が移っているようだな」


「僕が彼のスマホにアプリを送ったからな。しかし、なぜこの空間に?」


「暑かったからだ」


 ごもっとも。


「それと、このエクスペリメンツに関わる人間は極力減らしたい。第一の所持者であった光輝、第二の所持者である隆吾、そして深く事情を知る美里。おまえたち三人ならば、話ができる」


「だったら、なぜタヌキの周りにあらわれた? キミはエクスペリメンツには直接干渉はしないはずだろ」


「所持者が交代したのだからアイサツぐらいはするだろう。とはいえ、近くにずっと円華がいて接触できなかったのだがな。夜のあいだも、あやつは一般人に催眠をかけて隆吾の家の周りを監視させていた。それにしても、なぜあやつに私がいることがバレたのだ。完璧に溶け込んでいたはず……」


 溶け込んでいたのではなく、誰も関わり合いになりたくなかっただけだと思う。

 隆吾が「そんな恰好してたら嫌でも目につくだろ……」と答えると、バニーは大きな目をさらに大きく丸めて驚いた。


「ば、バカな……これは人間に大人気の服装だと教わったぞ!? 女子ならば誰でも着ていると!」


「人気っちゃあ人気……だけど誰でもは着てねーよ」


「なんと……そういえば、私以外にこんな格好をしている者はひとりも見なかったような気がする……」


 教えたヤツは相当ないじわるだろうが、こいつもこいつでボケすぎている。

 真実を知ったバニーはギリギリと歯噛みしながら「ゆ、許さんぞあやつめ……!」と唸っていた。


「で、モールに入っていったのは……?」


「暑かったからだ。あと暇つぶし」


「あ……そう」


 驚くぐらいにつまらない理由だった。

 暑がりなんだな。

 光輝は腕組みをすると、こちらに険しい眼差しを向けた。


「まあ、バカウサギは置いといて……タヌキ、キミはなにが知りたい?」


「そうだな……美里が事情を知ってるってどういうことだ?」


「いいだろう。まずは身近なところからだな」


 そう言うなり、光輝はスマホを操作し始めた。

 ……説明するために、なにか写真でも見せるつもりか?

 若干恐ろしくはあったが、こちらとしてもなにも知らないまま戦わされてムカムカしている。一から百まで教えてもらおうじゃないか。


「あれは僕たちが高校に入学した日だった」


 表示されたスマホの画面に目を通し――言葉を失った。


 そこには隆吾と、光輝……そして美里が仲睦まじい姿で写っていた。三人とも屈託のない笑顔を浮かべ、肩を寄せている。

 そこに一切の曇りはなかった。

 一緒にいられることがこれ以上ないくらい幸せだとでもいうように、青春のひとときを謳歌している。

 記憶にない光景だ。


「僕ら三人は小学生のころからの親友だった。なにをするにも一緒で、親同士も仲がよかった。よく遊びにも行った」


「だ……え……待て……待てよ……」


「だが、キミは美里のことだけは忘れてしまっている」


「は……?」


 いくら過去を思い出しても、そこには光輝の姿しかない。

 頭が痛い。

 脳の奥底に、釘を打ち込まれてしまったような激痛が走る。血流が熱を帯びて、頭蓋を焼くように燃える。


 いるはずがない。

 家にいたとき、一緒にゲームをしていた相手は光輝だけのはず。

 テーブルに置いてあるコップはみっつ……コントローラーも、座布団も、みっつある。

 なのに、ひとりいない。


「あぐッ……!!」


 痛みに喘ぎながら、記憶の回廊を進む。

 壁に投影された写真には、見覚えのある光景が映し出されている。

 しかし、隆吾と光輝と一緒に映っている誰かだけは黒く塗りつぶされていた。


「なんだよ……これ……」


「円華の『命令』によって記憶の改竄をされているな。エクスペリメンツ所有者になったことで催眠に対する抵抗が可能だが、消えた記憶は完全には戻らない。わずかな反応のみが起きる」


「なんだってんだよ……」


「タヌキ、円華といるときに奇妙な感覚にならなかったか?」


 その質問の答えは、すぐに頭に浮かびあがってきた。

 初めてアプリを手に入れた日。

 保健室で、円華から「友達」だと言われたときに違和感を覚えた。そこまで親しいとは思っていなかったはずなのに。


「あれは『態度:友達』の催眠か……」


「おまえはずっと、円華に操られていたんだよ」


 信じたくはないが、それならすべてに納得がいく。


「だが、なぜ円華はそんなこと……」


 その疑問に答えられるものなどいないだろう。

 ふと、美里が表情を曇らせ、うつむいたのが横目に見えた。

 それにかすかな意味を感じとり、たずねようとした瞬間、


「では、真山美里。おまえの罪を懺悔しろ」


 バニースーツが声高らかに言うと、美里は目を丸くして戸惑った。


「は……えっ?」


酌量しゃくりょうできぬ罪障。言葉にし、悔いるのだ」


 美里に罪?

 そういえば、なんで美里は敵対していたんだ。

 記憶を消されたんだとしても、また仲良くなったり、事情を説明したりといくらでもできただろうに。

 そうしなかったからには、事情があったに違いない。


「待て」


 隆吾は彼女をかばうように前に出た。


「誠人に聞いていた話と同じだ。このバニースーツ、おまえのことを勝手に裁くつもりだぞ。神様気取りの化け物だ」


 それに対して、バニースーツが答えた。


「話さえすれば罰したりはしない。罪を憎んで人を憎まず、だ。それに、私の裁量は決して軽すぎず重すぎない塩梅だ。間違いないなく」


 なんとも信用できない語り口だ。

 背後の美里に「黙っていろ」とジェスチャーをしたが、


「わ、私……」


 美里は隆吾を一瞥すると、喉を絞って声を発した。


「あの日……光輝が転校して、タヌキが記憶を失った日からずっと……円華が教室を操る手伝いをしてた……」


「それで?」


「愛羅が階段から落ちたって話。あれ、ほんとうは円華に命令されて私がやったの。バットで何度も殴りつけて……」


 どんどん蒼褪めていく美里は、それでも悲しみを顔には出さなかった。苦痛に歪ませてもなお、涙を噛み殺し、耐え忍んでいる。

 自身は加害者であるという意識が強いのだろう。

 下手に同情を買われたくないという気持ちは分かる。


「タヌキ、車に轢かれた人のことは覚えてる?」


「おい、マジかよ……」


 なんの話をされるのかすぐに察し、頭を抱えて天を仰いだ。

 美里は構わず続けた。


「あれも円華がやったわ。私があんたたちの後をつけながら、あいつに逐一報告してたの。そしたら、あいつがアプリで自転車の男が轢かれるように操った」


「どうして?」


「ああいうのは死んだほうがいい、ってさ」


 そのときも本気で人を殺そうとしたというわけか。

 円華はもはや神様気取りだ。

 あの自転車の青年はたしかに素行がいいとは決して言えなかったが、だからといって死ななければならないほどの悪ではなかった。

 春義だって、おそらく死に値するようなことはしていないだろう。彼のすべてを知っているわけではないから、もしかしたら驚きの真実があるのかもしれないが、九割ぐらいの確率で“やりすぎ”の側だろう。


 人殺しに躊躇しない人間か。

 考えるだけで恐ろしい。

 だが、対抗できるのはおれだけだ。止めなければ。


 話を聞いていた光輝が人差し指を振った。


「さて、いいかな。過去になにが起きていたのか、タヌキにきちんと説明したほうがいいだろうね。とはいえ、僕が知っているのは転校するまでだ。そこからは……美里に話してもらおうか」

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