第14話 謎の声
これはなにかの冗談だろう。
と、目を疑ってみたが、そこに表示されている文言は依然として同じだった。
『対象はすでに催眠中です!』
眼をこすり、まぶたを
「はぁ!?」
脳は混乱の窮みにあって、その文字の意味に到達することを拒んでいた。
手の中にあるものは事実ではないと断ずる根拠を求めて辺りを見回すが、無論、学校の廊下に落ちているわけがない。
「おいおい……嘘だろ……」
まったく身に覚えのない内に彼に催眠をかけた可能性は、隕石に頭をぶつけて死ぬレベルで低いだろう。
朝からここに来るまで一度だって誠人とは遭遇していない。
それでも万が一を考えてアプリの履歴を見たが、誠人の名前はなかった。
ならば、答えはただひとつ。
「まさか、おれ以外に……」
プルルルルルルル――――
「ッ!?」
不意の着信音に心臓が跳ねた。
画面に目を落とすと、そこには無機質な文字で『非通知』と出ている。
まるで見計らったかのようなタイミングに心胆を寒からしめた。肺腑が痺れて、呼吸を忘れる。
どうすればいいか分からないまま時が過ぎても、相手はまだ通話を切らない。こちらが対応できる状態にあると知っているかのように。
「クソ……」
意を決して、通話ボタンにタップした。
繋がったことを確認し、スマホを耳にあてる。
「……もしもし」
『おはよう』
ざらざらとした音声だった。
ボイスチェンジャーか。
抑揚も抑えてあり、男女の聞き分けがつかない。背後で音がしていないあたり、どこかの個室で電話をかけているのだろう。
隆吾は恐る恐る訊ねた。
「誰だ、おまえ」
『私はそのアプリをキミに渡した者だ』
「おまえが?」
『そうだ。うまく扱えているかな?』
「クソみたいなもん渡しやがって。こっちはおっぱいすら見れ……いや、なんでもない。聞かなかったことにしてくれ」
『否定するのが遅すぎるし、キミがくだらない使い方をしたことはよく分かった』
「ただの副次的な結果だ!」
『まあいい。初日からマトモな使い方ができるとは思っていなかったからな』
妙に演技じみた言い方をするやつだ。
自分の立場に酔っているのか、はたまた素性を隠すためか。
後者ならば、十分に効果を発揮していると言っていいだろう。事実、相手に底知れなさを感じているのだから。
「なぜ、おれにこんなものを渡した?」
『キミだけが愛羅たちに屈していなかったからだ』
「は? 目的はそれか?」
『それもひとつ。もうひとつあるが、まだ話せない』
「なんでだよ」
『キミの身を守るためだ。これから先は非常にデリケートな問題になる。
アプリを手に入れたキミはいままでもかなり怪しい動きをしてきただろうが、私の情報を知ったあとは、動揺して良からぬ行動に出る可能性がある。なればこそ、これはまだ秘密にしておかなければならない』
「おれ、おまえみたいに重要な情報を出し渋って、問題が起きてから後悔するタイプの人間嫌いなんだよね」
『知ったあとの方が後悔するぞ。やめておきたまえ。いまはアプリの使い方に慣れるための期間だ』
「そうかよ。じゃあ、ご用向きを承ろうか。なぜ、おまえはこのタイミングで電話してきた?」
『キミのスマホに――いや、アプリに少し細工をしてあってね。こちらが指定した段階に到達した時点で、通知が来るようにしてある。キミに発生した問題もね』
「最初から言っておけばよかっただろう?」
『先ほど申し上げたとおり、下手に情報を与えすぎると、キミの行動によっては周囲に怪しまれる』
「小出しに情報を渡して、試薬を投与するみたいに観察する気か?」
この声の意図がどこにあるやら知れたものではないが、利用されているという事実にはいささか腹に据えかねるものがある。
『
「なぁ……」
『なんだ?』
「そろそろ教室がヤバイ感じになってきたから、また今度にしてくれない?」
『え?』
扉の窓から覗いた先では、机をひっくり返された麻実が顔を手で覆い、さめざめと泣いていた。
床にぶちまけられた弁当箱から、手作りらしき料理が転がり出ているのを見て、血管まで沸騰するような怒りに目の奥を焦がした。
「ぶっ飛ばしてくるから、また後でかけてくれ」
そんな突然の要求に対して電話の声は、
『……分かった。好きにしろ』
想定内であったかのように落ち着いた様子で了承した。それを奇妙に思う気持ちもあったが、いまは優先すべき事項がある。
通話を終了し、こっそりと教室に侵入する。
誠人はこちらに背を向けており、気づいていない。周りの生徒たちの視線がいくつか刺さったが、誰も声を上げなかった。
隆吾が攻撃のために手近なイスを掴むと、ちょうど座ろうとしていた男子の尻が床に激突した。
息を殺し、凶器を振りかぶる。
「……ッ!!」
が、突如放たれた蹴りに妨害された。
隆吾は体を開いて回避し、
「クソ……!」
「テメェ、後ろから殴りかかろうとしやがって」
誠人は歯を剥き、肩をほぐすために腕を回した。
「テメェの撲殺アタックはもう効かねえぞ」
「おれの攻撃にダセェ名前付けんじゃねえ!!」
「おまえが付けたんだろうが!?」
隆吾はイスを捨てて、こぶしを握った。
眼はまっすぐに敵を正視し、パンチを打ち込む軌道をシミュレートした。彼我の距離を計算し、破壊することのみを思考する。
対して、誠人は泰然とした態度を崩さず、構えも取らない。自然体に両腕を
だが、瞳に宿る害意だけはハッキリと表出していた。
その妖しい輝きは、おれの肝を冷却するだけの迫力を備えていた。
「きょうこそぶっ殺してやる。やってもいいよなぁ? 愛羅」
誠人に問われて、愛羅はつまらなさそうにスマホを眺めながら首肯した。
「……いいよ」
「んじゃあ、昨日の分も返してやるとするか」
勝てるとは思っていない。
けれど、抗うことを諦めた自分を過去にするためには、ここで戦わなくてはならないのだ。
挫けて、牙を抜かれた自分。
催眠アプリなどというもので増長しつつあり、それはいずれ身を滅ぼす一手になるかもしれない。
これは、そうならないように自らを戒める戦いでもある。
麻実がこちらを見て首を横に振った。
「……も、もう、いいよ……タヌキ、くん。やめて……わ、わた、私、全然だいじょうぶだから……」
「いいや、おまえがどう言おうとおれはやる。おまえの母親の弁当を台無しにした罪は、こいつにきっちり取らせる!!」
「タヌキくん……」
涙で目尻を潤ませた彼女を一瞥し、隆吾はつま先をつつつと滑らせた。
「シャアッ!」
裂帛の気合いと共に腰だめに構えたこぶしを発射したが、幼子をあやすかのように軽々と受け止められる。
「フ!」
あごを狙ったフックが飛んでくる。
「くっ!」
胸を反らして避けたものの、体勢が不利になった。
よろめいて、足の踏ん張りが効かない。
「はっ!」
誠人にこぶしを引っ張られ、隆吾は前かがみにさせられてしまった。
そこに、上から背骨を潰すような肘打ち。
「がっ……!?」
肺腑から酸素がすべて抜けたような息苦しさが襲う。
内臓の血流が逆巻き、口から苦鳴がこぼれ出た。
視界でパッと光が弾けたが、どうにか正気を取り戻す。
追撃を
誠人はすかさず距離を詰めてくると、
「どうした! そんなもんか!?」
胸倉を掴み上げ、持ち前の腕力で隆吾の体をわずかに宙に浮かせた。つま先が床と接面し、ギリギリで体勢を支えている。
勝ち誇った
「タヌキ、また前みたいに玉を蹴り飛ばすか? 同じ手は通じないがな」
「ぐっ……いいや……必要ない」
「あぁ?」
隆吾は自分を掴んでいる五指に手を伸ばし、親指を選ぶと、
「……っ!」
勢いよく捻った。
ゴキャッ
指の内部構造を破壊するゾッとした感触が伝わるとともに、
「ぎ……ッ!!」
誠人は苦痛の呻きを噛み締め、
「あああああああああああああああああああああああああああ!!」
恥も外聞もない叫びをあげた。
顔の筋肉が強張るほどに歪ませ、苦渋を口端から漏らし、痛みから逃れようと必死に身をよじる。ひとかたならぬ激痛は彼の目を血走らせ、そこから小さじ一杯の涙を溢れさせる。
「は、離せぇっ!!」
「相手を脅すときに胸倉を掴むのはダメだ。こうやって指を折られるからな」
本来ならば片手で相手の顔を押して横を向けさせたあとに、もう片方の手で指を折るのだけれど、そこまでする余裕はなかった。
とはいえ、誠人もまた素人。
付け焼刃の護身術でも十分に効果を発揮する。
喧嘩に慣れた者は胸ではなく腰のベルトを持ち上げるらしい。そうすることで相手はバランスが取れなくなり、安易な反撃を食わらずに済む。
隆吾は手を解放し、間合いをとった。
「その指はまだ、きれいに折れてるだけだ。だけど、これ以上はガチで取り返しのつかない折れ方になるぞ」
「タヌキ……殺す……」
誠人の
今回はたまたま持っていた知識が役に立ち、不意打ちが成功しただけだ。次に万全の状態で向かい合えば、こちらが負けるだろう。両者の戦力差は片皿が墜落した秤のようにアンバランスだ。
だからこそ、隆吾は昨日まで牙のない腑抜けに堕ちていたのだ。
タイマンの喧嘩でこの男に敵わない。
「タヌキィィィィィィィィ!!」
「――もういいよ」
愛羅の淡々とした声が遮った。
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