第15話 後催眠
「もういいって」
愛羅の言葉に、その場にいた全員が固まった。
隆吾たちあれだけ大騒ぎしていたというのに、彼女はスマホに目を向けたまま、墓石か仏像の如く動じていない。
「いつまで騒いでんの。たったひとり相手に」
「けど……ッ!」
「さっさと保健室行ってらっしゃい。悪化したら指切ることになるよ」
誠人は逡巡した様子を見せたが、やがて周囲の視線に背中を押されたか、
しんとした静寂が教室に染み込むが、詰めた緊張は緩和していない。平穏を拒む異物である愛羅がいる以上、生徒たちは安心できないのだ。
隆吾の責める眼差しすら意に介さず、愛羅は柳に風といった態度のまま、この世の王のように鎮座を保っている。
反省の色は毛の先ほども見られない。
「ちっ……」
隆吾は舌打ちすると、ゴミ箱を持ってきて、散らばった弁当を集めた。
「あ、え、えっと……」
麻実がわたわたと手を振っているが、構わず続ける。
「あ、あた、あたしがやる、から……」
「分かった。でも、手伝わせて」
「あの、あ、ありが、と……」
ふたりで片付けながら、むかむかとした気分をどうにか抑え込む。
苛立ちの半分は自分自身に向かって吠えていた。
電話などに気を取られていなければ、彼女の弁当は無事だっただろう。力を持っていながら、それを行使せずに腐らせることは愚行だ。
「終わり……っと」
最後のひとかけらをゴミ箱に放り込み、手をティッシュで拭う。麻実にも分け与えて、床の汚れもふき取った。
「麻実さん、大変だったね」
「わ……そ、その……」
「お昼ご飯、どうするの?」
「買って……きます……」
「そう。できるなら、その金は誠人に払わせたいところだけど」
「あう……」
麻実はこちらの言葉に返事を迷っているらしい。
そりゃそうだ。
隆吾が口から吐くのは愛羅と誠人に対する反抗だ。
下手に同調すれば、自衛手段を持たない麻実に対するいじめが過熱してしまう可能性がある。
本人としても、もちろんこちらとしてもそれは避けなければならないだろう。
配慮が欠けていた。もうこの話題はやめよう。自分のせいで麻実が傷つけられでもしたら寝覚めが悪いどころの話ではなくなる。
「やるよ。千円。おつりは持っとけ」
「え、い、いいの……?」
「拾った金だから」
これは愛羅からもらった一万円から崩したものだ。元凶のものなのだから、あげても心は痛まないし、惜しくもない。
「あ、あの、タヌキ……くん……」
「なに?」
「前も、助けてくれた、よね……お礼、言いそびれちゃったけど……」
「あれは光輝のおかげ。おれはいままでも何度かいじめを見過ごしてきたし、今回だってすぐに助けていれば、麻実さんの弁当は無事だった……」
苦い記憶を振り返りながら、そのひとつひとつに胸を痛める。悪行を己が可愛さで黙過してきたツケは、これぐらいで返せるわけがない。
自分が光輝の代わりにならなければならなかった。なのに、円華だけが救いになるような状況を作った責任がある。
「おれは褒められるような人間じゃない。
「それでも、ね。怖い相手に、ゆ、勇気を出せるのって、すごいって思う、な……。あたし、尊敬する、よ。かっこいい」
「……ごめん、もっかい言ってくれる?」
「タヌキくん、すごい」
「もっと」
「タヌキくん、かっこいい」
「もっと!」
「タヌキくん、えらい」
「もっと言ってく――」
「――やかましい!」
スパァン、と頭を引っ叩かれて、小気味よい音が響いた。
美里だった。
「褒められる人間じゃないって言ったそばから褒められたがるな!!」
「手のひら返し記録、四秒。世界記録だ」
「ギネスも鼻で笑うわ」
「っていうか、なんの用なんだよ」
「愛羅様がお呼びですってよ」
「はぁ?」
辺りを見回したが、件のクソ女がどこにもいない。
「場所は?」
「別校舎だってさ。早く行かないと蹴り飛ばすよ」
「断る」
「なんで?」
「クズの呼び出しに応じる義理はない。どんな理由であれ、おれは――」
「昨日のつづきがしたいって」
「行ってきます!!」
「オイッ!!」
風を切って駆けだし、床を蹴って飛ぶ。人の限界を超えた驚異的な走りは、チーターの如き跳躍によってなされる神業であった。
別校舎、とだけ聞かされても普通の人間ならば見当もつかずに
だが、愛羅と別校舎のふたつのワードが導くところはひとつしかない。
そのあいだに、催眠アプリのレベルを確認していた。
さきほど、美紀を助けたのだから当然レベルアップしている。
レベル『30』。
獲得したのは『大人しい』『ツンデレ』だった。
やはり、だんだんと取得できる効果が少なくなってきている。この使い道の分からないものの用途は追々考えるとして、
「昨日手に入れた、この『好感度:閲覧』っていうのが気になるな……」
言わずもがな、といった印象の項目だが、これはもはや催眠ではないだろう。
昨日と同じ薄暗い踊り場にたどり着くと、愛羅がぽつねんと階段に腰かけて、窓から差し込むベールのような光明を浴びていた。
隆吾は彼女を見下ろす廊下側に立ったまま、話しかけた。
「なぜ呼び出した?」
昨日のつづき、などという甘い誘いを信じたわけではない。催眠はとっくに解けているのだから、愛羅が好意的な行動に出るはずがないのだ。
こうして間合いを保ち、周囲を警戒しながらいつでも逃げられる位置にいれば、あるていどの安全は確保できる。
愛羅が振り返り、明眸にわずかな苛立ちを浮かべた。
「タヌキさぁ、わざわざ言わないとダメ?」
どうやら、もう“綿貫くん”とは呼んでくれないらしい。
期待していたわけではないが、少しだけ心に来る。
昨日、愛羅を改心できるんじゃないかと抱いた淡い期待が、泡のように弾けて消えていく。
「ハンカチ返せよ」
そっけない一言で、失念していたことに気づいた。
ちょうどポケットに入っている異物感に手を伸ばし、取り出す。
「ほらよ」
手先から触り心地のいい布が垂れて、風に揺れる。
しかし、愛羅は微動だにしなかった。
むっつりと口を尖らせて、
「こっち来て渡せよ」
「断る」
「はぁ?」
「信用できない」
現在、愛羅がいる場所は踊り場の中央から見て、登り階段の一段目だ。こちらからは下り階段側が見えず、そこに誰かが潜んでいても気づけない。最悪、さらに上の階からも人が来て挟み撃ちということもあり得る。
警戒しすぎ?
いや、愛羅の家から逃げたという前科がある。
その仕返しを考えていてもおかしくない。
「テメェ、こんなところに呼び出しやがって、なに考えてやがる」
「……………………」
不穏な静寂が包む。
愛羅が纏っている悪鬼の風格――錯覚かもしれないが――を感じ取り、隆吾は生唾を呑み込んだ。この張り詰めた空気そのものが針となって肌をハチの巣にでもしているような気分だった。
この場を収めることに拘泥せず、ひとまず逃げるべきかと案が浮かんだ。されども、誠人が戻ってきたら状況は複雑になる。
そのようなことをぐるぐる思案すること一分余り。
「……あぁもう!」
愛羅が立ち上がり、肩をそびやかして大股で階段を駆け上がってきた。
「返せ!」
やにわにひったくられ、一歩たじろいだ。
愛羅は先ほどよりも険しく眉間にシワを刻み、じっと湿っているような怒気を双眸に孕ませている。
「愛羅がここを指定したのは、あんたにハンカチ貸してたって誰にも知られたくなかっただけなんですけど!?」
「そんな風に思ってるんなら『昨日のつづきがしたい』なんて意味深なセリフ残してくんじゃねえよ!」
「言ってないし! なに嘘ついてんの!?」
「言っただろうが! 美里から聞いたぞ!」
「はぁぁぁぁぁぁぁ!? それ騙されてるから! バカじゃないの?!」
「別に信じてねえよ! おまえも美里もどっちもな!」
「嘘つけ! 昨日だって愛羅が『服の下見せてあげる』って言ったら素直に信じてたでしょうが!」
「騙されたフリだろうが! フリ!」
「そんな言い訳が通じると思ってんの!?だいたい、昨日だって綿貫くんは勝手に――――」
と、愛羅の口から転がり出てきたセリフに、おれだけでなく彼女も呆然として、石のように硬直した。
こいつ、なんて言った?
数秒の間があり、
「ッ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
愛羅は首から頭頂までをグーンと羞恥の朱色に染めていった。耳までもホオズキのようになり、潤んだ唇をふるふると震わせている。
「わ、わ……」
そして、
「忘れろ~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
「いてェッ!!」
愛羅は隆吾の
その速さはなかなかのもので、まばたき三回のあいだに視界から消失していた。
「いたいよぉ……」
なるほど。
催眠の効果……いや、影響が残る場合もあるわけか。
ちょっとだけホッとした。自分のおこないが無駄ではなかった証拠を、確かな現実として受け止めることができたのだから。
それに、さっきの愛羅のちょっと乙女っぽい反応はかなり面白かった。
「やはり、いまのところ降りかかる危難を強引に突破しているだけのような気がするな――」
プルルルルルル
と、折よく通話がかかってきた。
非通知。
先ほどの謎の声だろう。
「もしもし」
『話をする時間はできたか?』
「ジャストタイミングだ。どこかで見てるのか?」
『いいや、私はその学校にいない。それよりも、最初に発生した疑問に対する答えを知りたくはないか?』
ゴタゴタがあって中断されたが、誠人がすでに催眠をかけられている、という事実に関する話だ。
一切手を出していないはずなのに、どういうわけか『すでに催眠中』と表示され、かけることができなかった。
予想だにしていなかった事態。
まさしく青天の霹靂だ。
大変に謎多き事態であることは確かだが、いちいち教示されずとも、答えはすでに出ている。
「……ほかに催眠アプリを持っている奴がいるんだろう」
『正解』
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