第9話 激突

 小さく手を振る愛羅を背に、隆吾は自販機に駆け寄った。


 ペットボトルタイプの炭酸ソーダをふたつ買って、まぶたの裏に浮かぶ愛羅の巨乳に思いを馳せる。

 制服がパッツパツに張るほどの胸となると、はたしてサイズはいくつだろうか。


 などと妄想を膨らませ、ふと気づく。


 いや、そんなうまい話があるだろうか?

 相手は愛羅だぞ?

 約束を反故にされてもおかしくない。


「……………………まあ、いいか!」


 どうせ百円そこらの出費だ。なにもなくても大した額ではない。

 そもそも一万円ももらったのだから、なにがあってもプラスだ。

 これでさらに儲けものがあれば、大喜びすればいい。


 二本のペットボトルを手に愛羅のところへ戻る。


「買ってき――」


 瞬間、隆吾はソーダを落として駆け出していた。


 愛羅のポカンとした顔。


 その背後で、スマホを触りながら自転車をフラフラと漕いでいる青年が見えた。挙動は明らかに不安定で、歩道を走っておきながら注意は散漫。


 そして、このままでは愛羅とぶつかることは必至だった。


 仮に青年の体重を六十キロと仮定して、自転車はだいたい十キロ。スピードは平均して十五キロ。

 衝撃力を計算すれば、およそ四百キロ重のダメージが愛羅に襲い掛かる。そうなればただではすまない。

 打ちどころが悪ければ骨折、最悪の場合は死に至る可能性だってある。


「危ない!!」


 愛羅の体を抱え込み、壁に押し付ける。

 隆吾の背中を、ながら運転していた自転車のハンドルがゴツッとぶつかり、抉れるような痛みをもたらした。


「ぐっ……!」


 こらえながら、青年を睨みつける。彼もこちらの様子に気づいたようだったが、謝りもせずに立ち去っていった。


「待ちやがれクソ野郎!! 謝れ!!」


 夏日より沸き上がった頭で、怒鳴りつける。


 スマホ使用しながらの運転は道路交通法違反だが、警察の取り締まりはあまり効果が出ているとは思えない。

 隆吾自身も、いまこの瞬間まで大して問題視していなかった。


 だが、さすがに人をケガさせかけたとなれば話は別だ。


「てめっ……」


 追いかけようとしたが、腕を掴まれた。


「っ……! なにすんだ、愛羅!」


「行っても追いつけないでしょ」


「おまえ、危うくケガするところだったんだぞ!?」


「っていっても、綿貫くんが守ってくれたから、無事だったし……」


 愛羅の頬に朱が差す。

 その少女然としたしおらしい態度と、透けた前髪の奥で揺れる瞳の虹彩に、一時、心を奪われた。

 彼女は口角を小さく上げて、つぼみのように薄いくちびるを開いた。


「ありがと……」


 その感謝の言葉を聞いた瞬間、隆吾の頭はスッと冷めていった。


 なんでおれはこの女を我が身も顧みず助けたんだ。

 そりゃあ、女の子が危ない目に遭いそうだったんだから助けるだろ。

 でも、愛羅だぞ?

 だからって、むざむざ見過ごせるかよ。


 そんな脳内会議が繰り広げられたが、冷静になって、考えのすべてを思考のゴミ箱へと投げ捨てた。

 考えても無駄だ。体が勝手に動いたのだから。


 自分が分からなくなりながら、落ちた炭酸ソーダを拾う。汚れをパッパッと払い、比較的マシな方を愛羅に手渡す。


「ほらよ」


「さんきゅ」


「怒鳴ったら余計に喉乾いた。飲もう」


 蓋を開けた瞬間、プシュッ、と炭酸が抜ける音と同時に、


「おぅわっ!?」


 真っ白な泡がとめどなく溢れ出てきた。

 際限なくこぼれては、手を濡らしていく。


「あちゃー。さっき落としたときか……やっちったぁ……」


「愛羅のハンカチ、貸そうか?」


「頼む。洗ったら返すわ」


「ほい」


 素直に好意を示すなんて、ほんとに別人みたいだ。

 とはいえ、人格が変わるわけではないから、これも愛羅なのだろう。


 スマホを見ると、やはりレベルが『6』に上がっていた。

 得られたのは『態度』の『息子・娘』『部下』『他人』だった。

 ここまでレベルを上げたのに、こんな使いどころが分からないものばかり手に入るとは、よくよく運のない日だ。



 あれから陰は多少西に傾いたが、酷烈な夏日もまだ賑わっている。

 開ききった汗腺から水滴がこぼれるが、顎から落ちるのを店側から流れてくるクーラーの冷気が辛うじて防いでいた。


 愛羅はどうだろうか。

 女性は脂肪が多く体温の変化が遅いという。

 ジュースで冷やしてはいるが、熱中症にでもなられたら困る。


 だが、その心配は杞憂だった。


「ふぅ~……」


 まるで本当の恋人のように肩と肩をくっつけて、暑さも気にせず隆吾のそばに寄り添っている。

 炭酸飲料で桃色の薄いくちびるを瑞々しく濡らし、人騒を眺める様は余裕そのもの。

 とはいえ、汗はしっとりとかいていた。濡れた制服からうっすらとピンクの下着が見えている。


「まだ見つからないの? 困ってる人」


「下手に関わろうとすると、さっきみたいに怒られる」


 ほんの数分前、重そうな荷物を持ったおじいさんに「大変そうですね。持ちましょうか?」と申し出てみたものの、


「そこまで老いておらんわ、ガキども! みくびるな!!」


 と、怒声をかまされて撤退したところだ。

 彼のひーひー言っていた姿は矍鑠かくしゃくとした様には到底見受けられなかったが、自己評価は他人には推し量れまい。


 そもそも、いきなり「荷物を持ちましょうか?」なんて不審者同然だった。

 以前、そうやって老人から荷物を盗んでいく犯罪者がいたという話もある。あの警戒しきった反応も至極当然といえるだろう。


 愛羅が忌々しそうに舌打ちをした。


「あのジジイ。親切にしてやったのにあの言い方はふざけてるよね。マジでありえなくない? 車に轢かれて死なないかな」


「しゃーない。そうそううまくはいかんよ」


「でもさぁ! 言い方はあるじゃん! 怒鳴ることないし!」


「同じ話を繰り返してんぞ。過ぎたことをいつまでも言うな」


「だって……怒んないの綿貫くん!? 普通キレるでしょ?」


「そのはずだけど、おまえがおれよりキレてるせいかな。冷静なのは」


「なにそれ……意味わかんない」


「フィーリングで理解しろ」


 この手の感覚的な話を敷衍ふえんして説明したところで、逆に分かりづらくするだけだ。

 だいたい、一度怒鳴られたぐらいでへこんではいられない。塞翁さいおうが馬、と気持ちを切り替えよう。


「なんかさ……」


 愛羅がさっきよりも自若した様子でこぼした。


「いいね、こういうの……」


 その言葉の影に若干の喜悦が混じっていることを、隆吾は聞き逃さなかった。

 おそらく、こんなふうに他人とお互いをかばい合った経験がないのだろう。

 悪魔でも、少しは善性があるようだ。


 ただの催眠の効果だろうに、わずかに期待を覚えてしまった。

 もしかしたら、このまま行けば改心させられるんじゃないか、と。

 その腐りきった性根を浄化できると。


「うん……」


 気のない風を装い、返事をする。


 愛羅という女の像は、つい数時間前に完成したと思っていた。彼女は決して他人に譲ることを知らず、自分から誰かを助けることはせず、たとえするにしても有益であるかが基準。


 だが『恋人』である隆吾に対して、少なくとも気持ちだけは送ろうとしてくれている。

 無論、彼女に対して愛を見せなければ癇癪かんしゃくを起こすことに変わりないが、作り上げた人物像からは離れつつあった。


 いつもこんなふうに大人しかったらカワイイんだけどな……。


「ねえ、人助けなんてやめて、一緒に遊ばない?」


 愛羅の人差し指が、隆吾の人差し指にからみつく。

 紅潮した頬を見せ、屈託のない笑顔をあらわす。


「愛羅ねぇ、綿貫くんと遊びたいなぁ」


「本気か? 面白くないだろ。他の取り巻きのヤツとか誘えよ」


「ううん。綿貫くんと一緒がいいの」


 愛羅の愛情には穴がある。

 それはこの状態が催眠アプリによるものだということ。


 ――これは一時的なものにすぎない。


 自らの心を叱咤しったした。

 目的はただひとつ。愛羅たちに罪を認めさせ、親友に頭を下げさせること。

 それ以外は考えなくていい。


「いいや、おれはここで人助けをする」


「そっか……」


 しかし、他人を悲しませられるほど冷酷になれなかった。


「だけど、横でそんな暗い顔されても困る。早めに終わったら、少し遊んでやる」


「うん、ありがと」


 なんともバカなことをしている。

 小さい子を相手にしているような気分なせいか、愛羅に落ち込まれると胸が痛んでしまうのだ。


 深く考えすぎるのをやめて、人と自転車と車が混然としている道路に意識をやった。


「ん?」


 ふと、視界の端に見覚えのある姿を捉えた。


 さきほど、愛羅にぶつかろうとしていたスマホの自転車だ。手提げているビニール袋を見るに買い物帰りだろう。

 あんなことがあったというのに、青年はまだスマホをチラチラ見ながら運転している。スマホを持つ腕に袋を引っかけている状態だ。

 あれではバランスも危うい。


「うわ、あいつ……」


 愛羅も気づいたようで、露骨に顔をしかめた。


「まだやってる。いい加減、マジで死ぬんじゃない?」


「車道を走ってるから、おれたちとはぶつからないけど」


「こっち来たら、横から蹴り入れてブッ倒してやろうかと考えてたのに」


 なんとも威勢のいい話だ。

 まあ、ああいう人間は一度事故にでも遭わないと改めないだろう。


 自転車はそのまま視界を横切って、


 ゴンッ


 固い鋼鉄同士がぶつかる、戛然かつぜんとした重々しい音とともに、転がりながら戻ってきた。


「…………え?」


 もんどりうった主から離れた自転車と袋がスライドしていく。それに続いて彼も皮肉を路面で削って横転した。

 塗装された路面を鮮血が点々と赤く染め、自身もまた血濡れていく。うつぶせに停止したころには全身を擦り傷だらけにして、病葉わくらばのように痛々しい姿へと変貌していた。

 右腕があらぬ方向に曲がり、ピクピクと痙攣している。


 続いて、彼が持っていたであろうスマホが宙を舞い、歩行者の足に激突して苦鳴くめいをあげさせた。


 キィィィィィィ――――


 遅れて、甲高いブレーキ音。

 黒いセダンが停車し、中から中年男性がおっとり刀で飛び出した。


 事態を理解した誰かが悲鳴をあげたのは、そのすぐあとだった。


「きゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 隆吾はポカンと口を開けて、この事態に茫然と立ち尽くした。


「誰か!!」


 男性が青年に駆け寄り、どうしていいか分からずに周囲に呼びかけた。


「誰か助けてください!!」


 自分は確かに誰かの助けになるべくここにいた。

 それは事実だ。

 あにはからんや、目の前で人が死に瀕するような事態に遭遇するなんて、毛ほども思っていなかったが。


「綿貫くん。その人、助けを求めてるよ」


 愛羅がすげなく言った。


「あ、あぁ……」


 現実感が喪失したまま、とりあえず成すべきことをしようと青年に近づいて、その有様に絶句した。


 傷の程度は知れずとも、重傷であろうことは解る。

 骨折した手足だけでなく、吹き飛ばされたときに負ったであろう頭部の損傷と、顔面の深い擦過傷さっかきず

 うつ伏せになっており、呼吸も喘鳴ぜんめいとしていた。

 たまに口から血をこぼしているところを見るに、内臓にまで被害が行っている可能性がある。


 つまりは、瀕死だということだ。

 確かに「事故ればいい」と願ったが、まさかこんなことになるなんて。

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