第7話 三発の蹴り

 円華は自前のペンの芯入れケースを愛羅に手渡した。


「私のでよかったら、どうぞ」


「ありがとー。マジ助かる~」


「どういたしまして。でも、これからは人を脅して物をもらおうとしちゃダメだからね? 分かった?」


「はいはい。分かりましたよ~」


 やけに素直に返事をした愛羅に対して、脅されていた麻実はまだ怯えたままだった。そんな彼女にも円華は優しく語りかけた。


「麻実さん、ごめんね」


「そ、そんな……円華ちゃんが謝ることじゃないよ」


「ううん、ごめん」


 人に安らぎを与える天使のような声で囁かれれば、誰であろうと信頼したくなる。そこに中身も伴うのなら、それはもう母神だ。


「誠人くん、光輝くん、それとタヌキくんも」


 円華は不満げにこちらを見ると、分かりやすく怒りの表情を作った。


「すぐに暴力を振るってはいけません。まずは話し合わないと。遺恨を残すようなやり方じゃあ、後悔するのは自分なんだから」


 ごもっとも。

 ここで誠人と本気でやりあったところで、愛羅に恨まれてなにをされるか分からない。おれの鬱憤が晴れるだけだ。


 誠人は一言も発しなかったが、ちゃんと話は聞いているようだった。小刻みにうなずいて、反応だけはしている。


 唯一、光輝だけは彼女を睨んでいた。


「話し合いで解決か。キミにはそれができるんだな」


「できるように努力してるからね。いろんな人と仲良くして、仲を取り持って、困っている人を助けて……そういう努力がいつか実を結ぶの。キミも私とだと思ってたんだけど」


「あぁ、同じだ。けど、キミのが気に食わない」


「どうして?」


「理由は分かるはずだ」


 光輝の敵意をひしひしと感じる話し方に、隆吾はムッとして肩を掴んだ。


「おい! なんでそんな円華に突っかかるんだよ」


「スゥゥ……さあね……」


 煮え切らない返答にモヤモヤしたが、当の円華は微塵も気にしていない様子だった。


「いいよ。そういう人もいるって理解できるし。ただ、私の話はちゃんと覚えていてほしいな」


 彼女のふところの深さはマリアナ海溝より深いようだ。こんなにも失礼な言葉をぶつけられたというのに、ああも平然としていられるなんて。


 光輝の友人として、ここは謝っておくべきだろう。


「ごめん、円華」


「な、なんでタヌキくんが謝るの?」


 困惑した様子の彼女に、頭を下げた。


「こいつとは友達だ。おれにも責任がある」


「いいってば! ね? ちょ、や、やめてぇ……タヌキくんに謝らせるつもりはなかったのに……」



 騒ぎはあったが、その日は無事に終わった。

 こんなのはただの喧嘩だと思っていた。

 日が過ぎれば忘れ去られる青春の一ページだと。



 それからほんの数日。

 大雨の降った日。

 掃除用具入れの中で死にかけている光輝が発見されるまでは。


 服を脱がされ、手足を縛られた状態で警備員に発見された彼は、すぐさま救急車で病院へと運ばれた。

 脱水症状と殴打の痕があり、衰弱しきっていた。幸い、命に別状はなかったが、あのまま発見されなければ確実に死んでいただろう。


 その主犯は捜し出すまでもなかった。


「いや、あいつ入院したんだって」


 愛羅が下品な大声で話しているのが聞こえてきたからだ。ゲラゲラと笑いながら、スマホを見ている。


「昨日さぁ、まーくんと他の奴とか呼んでアイツをボコってもらって。そんで掃除用のロッカーにぶち込んだんだよね。全裸にしてメガネ叩き割って。っていうか生きてんのかぁ。死んでてもよかったんだけど。アハハハハ!」


 他人事のように笑う姿に、隆吾の沸点は限界を突き抜けた。

 嚇怒かくどが思考を火の海へと叩き堕とす。

 許せない。


「おまえええええええええええええええええええええええええええ!!」


 喉が割れんばかりの怒声に、愛羅たちがビクッと顔を上げた。


「えっ……なに……?」


「人を殺しかけておいて、なにヘラヘラ笑ってんだァ!!」


 隆吾は怒気を孕んだ双眸で、心底憎いクズどもを睨みつける

 殺人未遂。

 それは今まで隆吾が彼らに抱いていた“鼻持ちならない”などという安っぽい感想で済ませていい罪ではない。

 実行した人間は明確に犯罪者であり、そのとがそそぐぐことはまず不可能だ。


「ねぇ、まーくん」


 愛羅が猫なで声で呼びかけると、


「こいつ黙らせてよ」


 すぐに鋭い氷柱のような声へと変わった。


「あ、あぁ……」


 誠人は明らかに乗り気ではない顔でゆっくりと立ち上がる。

 さきほど話をしているときも、彼は思うところがあるように視線を泳がせていた。人を殺しかけたという事実は、このクズにも並々ならぬ精神的なダメージを与えたらしい。


 それでも反抗せず、命令されるがまま阿諛追従あゆついしょうするのは、その骨身に悪が浸透しているからだろう。


「テメェ、相方がいないのによく盾突こうって気になるな」


「その相方のためだ、このクソ野郎どもが」


「なら次はテメェを半殺しにしてやるよ」


「あいつに謝らないと後悔するぞ」


「誰が謝るか!」


 隆吾は誠人の大ぶりのスイングパンチをしゃがんで回避すると、彼の股間をつま先で蹴りあげた。


「オラァ!!」


「アアアアアアアアアアアオウッ!!」


 白目を剥いて悶えている誠人に、隆吾は言った。


「あいつに謝らないと後悔するぞ」


「だっ……誰が謝るか!!」


 隆吾は誠人の大ぶりのスイングパンチをしゃがんで回避すると、彼の股間をつま先で蹴りあげた。


「オラァ!!」


「アアアアアアアアアアアアアアアアオウッ!!!」


 白目を剥いて悶えている誠人に、隆吾は言った。


「あいつに謝らないと後悔するぞ」


「だっだっ……誰が謝るかああ!!」


 隆吾は誠人の大ぶりのスイングパンチをしゃがんで回避すると、彼の股間をつま先で蹴りあげた。


「オラァ!!」


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアオウッ!!!!」


 誠人はもはや立つ気力すらないようで、股間を押さえたままうずくまり、脂汗をだらだらと流していた。


「て……テメェ……金的ばっか狙いやがって……」


「右の玉を蹴られたら左の玉も差し出せって名言を知らねえのかよ」


「何もかもちげぇ……ぐぅ」


 大変苦しそうにしているが、知ったことではない。天がこいつらを裁かないというのなら、おれが裁くまでだ。


 春義が「おいだいじょうぶか!?」と誠人に駆け寄るが、それを愛羅が「待って」と制止した。


「タヌキなんかに負けないでよ~まーくん」


「ぐぅぅぅ……」


「立てるよね~? たかが股間蹴られただけだもんね~?」


 たかが、では済まないのだが、女の身で分かるわけもないか。


 その応援かどうか怪しい声を受けて、誠人はふらふらと立ち上がった。すがめられたにはまだ覇気が残っており、憤怒に燃えている。口端は震えながらも鋭い犬歯を晒し、歯の隙間から擦るような音が響いていた。


「タヌキィィィ……」


 ぐっと握られたこぶしと、構え、そして視線にさっきまでの隙はない。


「ぶっ殺す!!」


 本気で飛び掛かってくる誠人に、隆吾は成す術もなかった。


 そりゃそうだ。


 こちらはただの高校生。

 相手はおそらく喧嘩なんてやり慣れているヤンキー。

 純粋な力量にかなりの差があるのは当然のことだった。


 こぶしが全身を殴打する。

 顔面。喉。胸。腹。脇。足。股間。

 さっきまでの鬱憤を十倍にして返すとばかりに、容赦ない連撃が加えられる。


 隆吾は床にうずくまり、ダンゴムシのように体を丸めて、必死に防御することしかできなかった。


「うぐっ……ぐっ……がはっ……!!」


「くたばれ!! このザコが!! クソ野郎!!」


 個人の力では敵わない。それを最初に身体からだに叩き込まれた日だった。足掻こうとしても、必ず上を行かれる。


 対抗するために体を鍛えたが、短時日では差はほとんど縮まらなかった。筋肉がついたところで、サンドバッグにされても多少は痛みが和らぐだけだ。喧嘩に勝てなければ意味がない。


 自分の弱さに打ちのめされ、半ば諦めていた日々。


 ――けれど、今のおれには手段がある。


          ◆


 現在。

 昼休み。


 隣で、傲岸不遜ごうがんふそんな美少女が豊満な体をこすりつけて、心の底から「彼と一緒にいられるなんて倖せすぎて死んでしまいそうだわ」なんてセリフでも言いかねないぐらいウキウキ顔をしている。


 羞恥を覚えた。

 愛羅にではなく、自分自身に。


 催眠アプリなんてものを使い、他人を操り、虚ろな愛情を自分に向けさせている。いじましい話だ。

 隆吾たちはさっきと同じ、別校舎の人気のない踊り場にいる。

 できるだけ人目につかないよう、時間をずらして食堂でパンを買い、階段に隣り合わせに座っていた。


「綿貫くんって最近ハマってることとかあるのー?」


 愛羅が大げさなぐらい体を横に傾けた。

 桜色の髪がはらりと垂れる。

「綿貫くん」と呼ぶのをやめろと言ったはずだが、やめる気配がない。惚れた相手だろうと、絶対に従わないタイプか。


 問題は、催眠が解けたあとにどうなるかだ。もしも「綿貫くん」呼びのままだったら確実に不審がられるだろう。


「愛羅知りたいなー。綿貫くんと一緒に遊びたいし。ねぇねぇ」


「おれは遊びたくないけど」


「なーんでそんなひどいこと言うの~!? 愛羅、泣きそう~……」


「おまえってなにかにつけてケチとかつけてきそうだし」


「そんなことしないよ。じゃあ趣味とかはないの?」


「……サウナ」


「え? サウナ? あの蒸されるやつ?」


「そう。でも蒸されるだけじゃなくて、汗を流すことで美肌効果もあるし、その後の水風呂と外気浴で頭がスッキリしてストレス発散にもなる。イスに座って風に当たっていると頭がぼんやりして気持ちがいいんだ。代謝がよくなって冬日の冷え性改善にも効果的。寒い国ではサウナはよく使われていて、フィンランドでは車よりも普及しているんだ。なんと一家にひとつサウナがあるらしい。それぐらい国にサウナが浸透していて、日常的に使われているんだな」


「え、ちょちょちょちょっと待って? どうしたの突然。いきなり言葉の洪水をワッと浴びせないで」


「まず基礎知識として覚えてほしいことは、サウナ室に入っている最中に熱したサウナストーンに水をかけて蒸気を出すことをロウリュ。うちわで扇いで熱風を飛ばすことをアウフグースと云うんだけど、それをおこなう人は熱波師アウフグーサーと呼ばれていて――」


「分かった分かった! よ~く分かったから!」


「ロウリュはフィンランドの言葉なのに対して、アウフグースはドイツの言葉なんだ。このふたつの国を二大サウナ大国と呼んでいる人もいる。サウナ施設に行ったらぜひアロマロウリュを体験してみてほしい。沸き上がる蒸気と一緒にいい香りが部屋中に広がるんだ。体に染みついて一日ずっとアロマのにおいがするから、気分を変えたいときにもオススメだ。このアロマにもいろいろ種類があって――」


「ストップ! ストーップ!! 止まれ!!」


「んもごもごっむぐもごんむもごもごむぐもごもごもめごたまごもごんごもごもぐむまぐっごもむぐ」


「手で口を塞いでもまだ喋ってる!? どんな執念!?」

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