第6話 恋人の催眠の効果
「な……なぁ、愛羅……」
ペースを持っていかれてはダメだ。
こちらが有利なように動かなくては。
「なにか困っていることはないか? おれに手伝ってほしいこととか」
きょう一日は愛羅が解放してくれないだろう。
集中的に善行をするのはまた日を置かなくてはならない。
だから、愛羅を使って少数でも稼がなくては。
愛羅は抱き着いたまま首を傾けた。
「うーん……手伝えること……かぁ」
「頼み事でもいいぞ」
「あ、お昼、一緒に食べてほしいの! いい?」
「おぉ……それなら全然いいけど……」
それが善行になるかは分からないが、下手に断るのも怖い。
彼女はいま、本当の意味で恋人に対する態度をとっている。だが、たとえ恋人であってもどんな因縁をつけてくるかわかったものではない。
「じゃ昼になったら、ここに集合でいいか?」
「どうして? 教室で一緒に食べたらいいじゃん」
「誠人に見られたらどうすんの?」
「別にいいよ。まーくんは奴隷だから」
「は?」
愛羅は階段に腰を下ろすと、足を組んだ。
「顔は愛羅のタイプだし、かっこいいけどさぁ。ちょいちょいムカつくんだよね。でも愛羅の奴隷としてはこれ以上ないスペックだし。一応、付き合ってるってことにしてあげてるの。
んで、まーくんが趣味でやってるバンドの支援をしてあげる代わりに、愛羅の言うことはなんでも聞くっていう契約をしてるわけ」
だから、あんなことを言っていたのか。
こいつは鬼か。
いいや、鬼だ。
「まーくんにはゆっくりと愛羅の方が上だってこと教えてきたけど、たまに暴走するのが嫌になってきててさ。前に、無理やりキスしようとしてきて……」
「したのか?」
「ない。っていうか、一度も」
「え? 一度も……?」
「愛羅がしたくなかったから。それでね、まーくんに『愛羅に逆らわないでね』って教えたのにこれだもん。
言うこと聞けない犬は何度も殴らないと覚えないからさ。父親の形見だっていうギターを一本叩き壊しちゃった! アッハハハハ! 本気で泣き叫んでてマジで面白かったなぁ~!」
背筋に冷たいものが走った。
この女の狡猾さと、悪意の底知れなさ。
身勝手で、無邪気な悪魔だ。人を傷つけることに対する罪悪感を持っていない。いいや、むしろ楽しい見世物だと思っているのだ。
いままで自分に向けられていた悪意は、気に入らない相手にぶつけるためだけのものだと思っていた。性格の悪い人間なら誰でも持っているような、反吐が出るほどありきたりで、普遍的な要素。
しかし、彼女はそれよりももっとドス黒い悪意に満ちている。
「まーくん、付き合ってるからってたまに勘違いするんだよね。キモくない? アハハハハ!」
「……………………」
いくら心底憎い誠人の話だからといって、さすがにむかっ腹が立ってきた。他人の遺品を壊すなど、人道に
「……愛羅」
「なぁに? 綿貫くん」
恋する乙女、といった様子で微笑みかけてくる彼女に、隆吾はできるだけ優しく注意した。
「ギターに罪はないだろ」
「あ、注意するのそっちなんだ」
「それと、陰口を言うようなことはもうやめろ」
「うぅぅぅぅ……もうしません……」
すかさずアプリを確認した。
レベルは“3”に上がっていた。
手に入れたのは『態度』の『超愛してる』。
なんだこれは? 昔の小説にこんなタイトルがあったような……。
恋人よりも上位……と考えるのが自然だが、あくまで『態度』だ。付き合っている前提ではないが、愛してる態度をとる、ということだろうか。
愛羅は消沈している。
注意をして更生してくれるなら願ったり叶ったりだが、この女はそんな殊勝な人間ではない。
好きな相手の前だから媚びているだけで、内心では微塵も反省などしていないだろう。
だが、隆吾自身も愛羅にアプリで催眠をかけている加害者だ。
クズ度で言えば同じか、もしくはそれ以上。
人の心を操るなんて、道理に背いている。
決して許されない。
それでも、この力は使わせてもらう。
親友を陥れたことの報いを受けさせるために。
◆
隆吾の親友がどんな人間だったのか。
なぜ学校からいなくならなければならなかったのか。
それは二か月前。
五月の頃まで遡る。
中学時代からの親友である光輝は控えめな性格だったが、度胸のある男だった。道端で歩きタバコをしている人がいたら注意をしたし、列に割り込む人がいれば毅然と立ち向かった。
元来、人助けが好きなヤツなのだ。
隆吾はそんな彼を心から尊敬していた。
やや丸顔でポストンタイプのメガネをかけており、髪は長め。手足が細いが、それは痩せ気味というよりはスタイルが良かったといった方が正しい。
頭も良く、プログラミング言語もいくつか学んでいると語っていた。
入学してからは楽しかった。
どこの部活に入ろうとか、学食のメニューのどれが美味しいだとか、毎日が発見ばかりで笑いが絶えなかった。
ある日のことだ。
中休みに、愛羅が隣の席にいる背の小さい女子――
発端はくだらないことだった記憶がある。シャーペンの芯をくれなかったから、なんて言い合っているのを耳にした。
教室が騒然とするなか、愛羅は構わずに麻実を脅し続けた。
「なんで愛羅の言うこと聞いてくれないの? ねえ」
「だ、だって……わ、渡したら、あたしがノートに書けなくなるし……替えを、持ってきてないから、こ、これ一本しかない……ごめんなさい」
「いいじゃん。別に、あんたが書けなくても。それよりさ、さっさとちょうだいよ。授業始まってからじゃ遅いんだけど」
そう言って、愛羅は麻実の手を握ってニッコリと笑った。
「指折るよ?」
「や、やだっ……ごめんっ……やだっ……」
「――やめろ!」
光輝がその眼窩に炎のような
「なにしてんだ!」
「見過ごせないよ。おい! 宮野愛羅! その手を離せ!!」
これはどう見ても教師を呼ぶ案件だ。
このままだと大げんかが始まってしまいかねない。
隆吾は近くの席にいた男子に「先生呼んできてくれ」と頼むと、歩いていく光輝を追いかけた。
「関わるなって、相手は愛羅だぞ?」
「知ったことか。アイドルとCEOの親がなんだっていうんだ」
必死に制止しようとしたが、ことごとく無意味だった。
愛羅は心底嫌そうに顔をしかめると、大きくため息をついた。
「はぁぁぁ……ねえ、まーくん! こいつら愛羅に喧嘩売ってくる~」
「ったくよぉ」
気だるそうにイスから腰を上げた誠人が、光輝の前に立ちはだかった。
両者はギリギリ腕が届かないぐらいの距離を保って、睨み合う。
「クソメガネ。愛羅は頼み事してるだけなんだよ。人に頼むぐらい、俺やおまえだってするよなぁ? それとも、おまえはしたことねえのか?」
「論点をすり替えるな。中山さんは断ったのに、宮野愛羅が無理強いをして、あまつさえ暴力に訴えている。これは頼みとは言わない。脅しだ」
「俺はそうは思わねえ」
「本気で言っているのなら病院に行け。頭のな」
「本物の脅しはこういうのを言うんだ」
刹那、誠人が一気に間合いへと踏み込み、蹴りが光輝の横腹に叩き込まれた。
「……っ!?」
光輝はギリギリで腕と脚を使って防御をすると、すばやく距離をとった。いい反射神経だが、誠人の蹴りもすごい速さだ。暴力を振るうことを見越していなければ、もろに食らっていただろう。
しかし、こうなってしまったら黙ってはいられない。
隆吾も加勢すべく、ジャケットを脱いで光輝に並び立った。
「先に殴ってきたのはソッチだからな!!」
恐怖はある。
だが、立ち向かわなくてはなるまい。
友をひとりで戦わせるような薄情者に生まれた覚えはない。
背後でほかの女子が「やれー! タヌキー! 光輝ー!」と声援を送ってきた。
誠人が色をなして、空を掻きむしった。
「クソダヌキとクソメガネ……あぁぁぁぁぁウゼエなぁ!! マジで病院送りにしてやるよ根暗どもがッ!!」
「入院費払えるんだろうなテメェ!!」
「負ける気満々なうえにせこいな!?」
気づけば、クラスメイトたちは隆吾たちから円を作るように離れていた。被害が来ないように、最低限の荷物を持って遠巻きに眺めている。
廊下にも、通りがかった他のクラスの生徒が何事かと覗き込んでいた。
一触即発。
どちらが先に仕掛けるか、探りを入れあっている。
周りは動きを阻害する机とイスだらけだ。
下手に動けば、足を取られるだろう。
リーチの差はある。誠人のほうがわずかに身長が高い。
けれど、こちらには数の有利がある。距離のアドバンテージは数のアドバンテージには遠く及ばない。
片方に手を出せば、もう片方に詰められる寸法だ。
じりじりと間合いを詰めていると、
「三人とも、やめなさい!」
円華が間に割って入ってきた。
手を両陣営に向けながら、神妙な面持ちで交互に視線を送っている。
「喧嘩しちゃダメだよ! お願いだから、どっちも手を引いて!」
「あ……あぁ……」
まさか円華を挟んで殴り合いなどするわけにもいかず、隆吾と光輝はこぶしを下ろした。
まだ怒りは収まらないが、従うしかない。
誠人はまだ迷っている様子だったが、
「まーくん、もういいから」
愛羅がつまらなさそうに言うと、彼は渋々構えを解いた。
第三者を巻き込もうとするほど腐りきってはいないようだ。
周囲にいたクラスメイトたちは喧嘩が収まったことを確認してから、各々の座席に戻った。
愛羅がまた癇癪を起こさないように気を遣い、熊でも相手をしているかのごとく音を立てず座る。
表面的には、誠人をトップにした一部の集まりが教室を牛耳っているように見えるだろう。
実態は、愛羅を中心とした“お姫様とその他大勢”だ。
たったひとりの少女によって支配されている教室は、
抗っているのは、隆吾と光輝だけ。
本来ならば、とっくに潰れていてもおかしくない状況だ。
この教室は、円華というイレギュラーによってギリギリの均衡が保たれている。
彼女の一言が、争いをいつも静めているのだ。
それはほかの生徒たちにとっては福音かもしれない。
だが、結局はその場しのぎ。
愛羅を止めるにはまるで力が足りていない。
決定的ななにかが起こらなければ、愛羅は変わりはしないだろう。
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