第4話 逃走劇の結末

 隆吾は二階まで上がり、西側の階段を目指して走った。

 廊下に出ていた生徒たちが不思議そうな目でこちらを注目した。

 けれど、校内を疾走する生徒はさほど珍しくはない。彼らの興味はすぐに手近なものへと移った。

 彼らもまさか、こちらが死ぬ気で走っているとは考えまい。


 ふと、壁に貼ってあるポスターが目に入った。


『廊下を走ってはいけません』


 その文章とともに、走る子供とぶつかる子供の絵が、ちょっと上手いぐらいのクレヨンタッチで描かれている。お互いに頭からぶつかっており、その後の様子が容易に想像できた。


 まさか、この廊下を走っているのも罪に含まれやしないか?


 アプリを確認したがレベルは1のままだった。

 もし廊下を走ることが罪になっているとしたら、レベルはこれより下には落ちないということだ。


 西階段をさらに駆け上がり、四階にある一年生の教室を目指す。まだ愛羅はあそこにいるはずだ。

 だがその前にレベルを上げなくてはならない。


 催眠は『友達』ではダメだ。あのお姫様根性の愛羅が友達なんかの命令を聞くわけがない。『恋人』になって、やっと聞く耳を持つかどうか。


 注意できればいい。

 誰か、なにか悪さをしていないか。

 なんでもいい。

 ろくでもないことをしてる、ろくでもないヤツ。

 どこかにいてくれ。


「……いや、してるぞ!」


 教室を出る前に、国語の教科書が紛失していた。あれをやったのは愛羅以外にいない。ならば、彼女を見つければおのずと条件は揃う。


 犯人が美里だった場合はもう無視だ。そうなればゲームオーバーというだけの話。考慮したところで足が竦む要素にしかならない。

 不安が込み上げてくるが、自分を騙して乗り越える。


「おれはすごい! おれは賢い! おれは間違ってない!」


 当意即妙と呼べるほどの機転ではないが、これに賭ける。目先の問題は愛羅がどこにいるか、だ。

 頼む、教室にいてくれ。


 すでに体力はギリギリだった。足は鉛に変わり、胸の奥がズキズキとした痛みを訴えている。

 常に全力でダッシュしながら、階段を四階分も昇り降りしたのだ。運動部だろうと息が切れるだろう。


 隆吾がまじめに鍛えていたのは小学生の頃、柔道を習っていたときだけ。あとはずっと帰宅部だった。

 誠人との体力差は歴然だ。


 どれだけ大きく呼吸をしても、内臓が締め付けられるような感覚が和らがない。空気中に酸素なんかないんじゃないかという気になってくる。

 それでも必死に走力を絞り出す。かすのような体力をかき集め、足の撥条バネを必死に伸縮させる。


 悲鳴を叫ぶ満身に鞭を打つ。


 あと少し。


 目的の『一年A組』が見えてきたところで、


「ん?」


 ちょうど、愛羅が教室から出てきた。


 僥倖ぎょうこう

 もし神がいるのなら額突ぬかずきたくなるほどのベストタイミング。


 隆吾は肩を上下しながら、枯れた声で叫んだ。


「はぁはぁ……うぉ……うぉおおい! 愛羅!」


「げっ……」


 愛羅は見るからに嫌そうにしかめっ面を浮かべた。


「キッモ……まーくんじゃなくてタヌキが戻ってきたんですけど」


「おまっ……おまえぇ! はぁ……おれの教科書どっかにやったな!?」


 あと十数メートルといったところで、走りにブレーキをかける。

 善行ポイントが貯まったときに罰を受けたくはない。


 近づこうとすると、愛羅は嫌そうな顔でサッと後ろに下がった。


「なんなの? 捨てたら悪い? っていうか、そもそも愛羅に口ごたえしたおまえが悪いんじゃん」


「人の物を勝手に捨てるのは……よくないッ!!」


「キモッ。たかが教科書でしょ? くだらない」


「あれにはおれが授業中に頑張って落書きしたネコミミ太宰治があるんだ……!!」


「そこまでくだらないのは予想してなかった」


 さっそくアプリを確認してみた。

 まだ愛羅がなにか喚いているが、意識からシャットアウトした。


 もしも、罰によるレベルダウンが表示されないところで加算されていたら? そういう仕様だったら、たとえ善行をしても1のままだろう。

 その場合、愛羅に『恋人』の催眠をかけることができない。

 死が待っている。


 手が震える。

 心臓のドクンドクンという打音が耳にまで届く。

 愛羅の声すら聞こえないほどに、血液の流れる音が鼓膜を打つ。


 頼む。


『レベル2』


 上がっている。


「はぁっ……」


 安堵のため息とともに思わず脱力しかけたが、まだやるべきことが残っている。まだ勝利ではない。

 あとひとつ、乗り越えなくてはならないハードルがある。そればかりどうしようもないのだ。


「タヌキィィィィィィィィ!!」


 誠人が鬼のような形相で同じ階まで上がってきていた。

 すでに指呼の間合いにいる。

 急がなければ。


「愛羅!」


 隆吾はスマホの『態度』『恋人』をタップした。

 対象は目の前にいるクソ女だ。


「ッ!?」


 動きが止まる――ほんの一秒間。


 催眠がかかった愛羅はさっきまでの険悪さが消えて、無表情、それからわずかに口角を上げた。

 好きな相手を前にして、こんなぶっきらぼうな顔になるとは。態度だけにしているからなのか、それとも愛羅だからなのか。


 まあいい。

 催眠が効いたのなら、利用させてもらう。


 隆吾は悪行にならないてどの早歩きで愛羅の横を通り過ぎながら、耳元で「助けてほしい」と囁いた。

 これだけで意味は伝わるはずだ。


「……うん。いいよ」


 彼女がうなずいたのを確認して、達成感を覚えた。


「待て! テメェ待ちやがれ!!」


 待てと言われて待つヤツがいるか。

 隆吾は奥にある東階段の影に隠れると、ちらりと様子をうかがった。


 これでダメなら負けだ。

 クソ女、この状況をどうにかしてくれ。


「待って」


 愛羅が両手を広げて誠人を足止めして、呆れたように肩をすくめた。


「もういいって、まーくん。イスで殴られたけどケガ軽いじゃん。どこまで追いかける気?」


「あぁ!? そりゃ、あいつを殺すまでだろうがよ! どけよ!!」


「……“どけ”? それ、愛羅に言ったの?」


 冷たく突き刺さる槍のような声。

 当事者でないにも関わらずゾクッと寒気を覚えた。


 愛羅の顔はこちらからは確認できない。


 けれど、誠人の怒りで真っ赤だった顔がどんどん蒼褪あおざめるのが見えた。首にナイフを当てられているかのような、生殺与奪を握られた弱者の表情だ。上がっていた肩がゆるゆると下がっていく。


「あ……あぁ……」


 誠人の顔からだらだらと脂汗が流れ始めた。

 主に逆らった奴隷のように怯えてしまっている。


 愛羅の怖気がするほどの追及に対して、誠人は手と首をブンブンと大げさに振った。


「ちがっ違う! 違うんだ! そんなつもりじゃ……」


「じゃあ、なに? どういうつもりで言ったの? 愛羅に。ねぇ。どういうつもりだったの? ねぇ。答えて」


「ごめん! ほんとごめん! マジで、いまのは俺が悪かった!」


「本気で悪いと思ってるなら土下座してよ」


「どげっ……!?」


「愛羅に二度も言わせるの?」


 誠人は周りを見て、顔色を悪くした。


 各クラスの教室から、騒ぎを聞きつけた生徒たちが出てきている。あれだけ大声で怒鳴っていれば、こうもなるだろう。

 スマホを片手に、撮影チャンスを狙っている者もいた。


「ま、待ってくれ、みんなが見てる……」


 子犬みたいに小さくつぶやいた誠人に、愛羅はグッと詰め寄った。首を傾げているものの、瞳はジッとめつけている。


「だから? ねぇ? だ・か・ら? あのさぁ、みんなが見てるからさせてんだよ。じゃねえと罰にならねえだろ。やれよ。おい。なぁ。誰のおかげでバンドやれてると思ってんの? やれ」


 その花百合のように可愛らしい姿からは想像できないドスの利いた声に、やがて誠人は屈服した。


「わ……分かった……分かりました……」


「じゃあさっさと! ほら!」


「う……はい……」


 誠人は屈辱に顔を歪めながら、ゆっくりと腰を下ろしていく。

 愛羅を見上げて、許してくれないかと期待した眼差しを向けたが、言葉がなくとも彼女の顔が雄弁に物語っていたのだろう。諦めたようにうつむいた。


 さっきまで隆吾を殺そうと死に物狂いで追いかけきていた男が、いま床に頭をこすりつけている。

 奇妙な光景だった。


 周りでほかの生徒たちが、その公開処刑を遠巻きに眺めながらクスクスと笑っている。退屈してたところにやってきた見世物を鑑賞しているような、無邪気とすら感じる不気味な笑い声。


「生意気なことを言って、も、申し訳ありませんでした……」


 叩頭こうとうし、許しを請う誠人の無様な姿。


 我ながら嫌なヤツだとは思うが、スッキリと溜飲が下がって腹の底から「ざまあみろ」と快哉かいさいを叫びたい気分だった。


 どうだ。それがおれたちクラスメイトが味わった屈辱だ。

 同じ立場になれば、自分がどれだけ愚かしいことをしたか分かるだろう。

 声に出して勝ち誇りたかったが、それじゃあまるで三下だ。


 もっと性格が善ければ、きっと誠人に同情でもしただろう。

 けれど、今までされてきたことを思い返せば、そんな気にはまるでならない。


 愛羅は笑顔を浮かべて、いつもの猫なで声を発した。


「付き合ってるからって対等だと思ったのかな? きょう一日、愛羅に話しかけないでね。っていうか、近づかないで。どこに行っても探さないでほしいの。できるかな? っつーか、できなかったら二度とギター持てなくなるだけなんだけど」


「はい、はい分かりました……」


「声ちっさ。ほんとに分かってんの?」


「わ゛か゛り゛ま゛し゛た゛あ゛ッ゛!!」


 誠人はほとんど涙声だった。


 ひっくひっくとしゃくりあげながら、顔を隠そうとしているかのように床に突っ伏している。

 もはや恥も外聞もないといった様子だ。


「そっかぁ」


 と、愛羅はいつものキャンキャンとした高い猫なで声に戻った。


「まーくん、えらいぞー。いつも愛羅の言うこと、ちゃぁんと聞いてくれるもんね。だけど、きょうはちょっと反抗期だっただけなんだよねっ?」


 そして、アイドルのような輝きを放つ笑顔のまま誠人の頭に顔を近づけると、


「……そうなんだよね?」


 地の底から響くような低い声でつぶやいた。


 恐ろしい。心の潰し方が堂に入っている。こういう風にほかの人間も恫喝したことがあるのだろうか。

 隆吾のときはだいたい誠人が怒鳴る役だった。愛羅はその後ろで面白そうにゲラゲラ笑っているだけ。

 立場としては、騎士とお姫様。


 今の彼らはヤクザの親分と叱られている子分といった感じだ。

 一言の意見すら挟ませるつもりのない精神の圧迫。

 立場の違いはお互いを尊重するものでなく、支配するためのもの。


 それにしても、催眠の効果が『態度』だけで認識が上書きされないのは助かった。いまの言動を見るに、愛羅と誠人は付き合っているままだ。認識まで変わっていたらボロが出ていた。


 現状、誰が見ても愛羅を置いてけぼりにした誠人が怒りを買ったようにしか見えないはずだ。


 これなら誰にも不審がられないはずだ。

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