第3話 催眠の条件
「じゃあな!!」
隆吾は廊下へと脱兎のごとく駆けだした。
目的地は保健室だ。あそこならば一時的に避難ができるし、なにより催眠をかけている先生がいる。
だが、追いかけてくるであろう誠人を止めてくれるとは考えていない。
もともと我関せずといった態度をとった先生だ。催眠を解除次第、すすんで隆吾を差し出すだろう。
「待ちやがれ!!」
後ろから怒り狂った誠人の叫びが聞こえてきた。
「タヌキぶっ殺してやる!! ダッセエ技ぶつけやがってええええ!!」
「ダサイかぁ!? おれの命名!!」
振り返る余裕はない。
誠人の運動神経はこちらより上だろう。
隆吾もスポーツの経験はあるが、走りの分野ではない。
廊下に出た瞬間、フローリングの床をかかとで穿ち、すぐそばにある階段を飛ぶように降りる。踊り場では手すりを使ってインコースを走り、また
だが、まだ立ち止まる時ではない。
「逃げんじゃねえ!! 待ちやがれ!! 殺すぞ!!」
誠人の怒声が背を打ち、肩が
さらにもうひとつの階段を下りる。一階の廊下にたどり着くと、右手の廊下を全速力で突っ切った。
教職員室があるが、まだ授業が終わったばかりで人はあまりいない。トップスピードで走り抜けられる。
「タヌキィィィィィィィィィィィィィィィ!!」
声が近い。
もう一階まで追いついてきたのか。気を抜けば捕まる。
隆吾は最奥にある保健室の扉を乱暴に開くと、驚くユカ先生を一瞥して、鍵を閉めた。これであいつは入ってこれないはずだ。
「先生! 助けて!」
「どうしたの、タヌキくん? もしかして私を愛しに……!」
「――タヌキィィィィィィィ!! 開けろこのクズ野郎ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」
ドンドンドンドン、と扉が乱暴に叩かれた。
それは実体のない圧力となって隆吾の心臓を鷲掴みにした。
「な、なに!? どうしたの!?」
「お、おれが説明します。待ってください」
落ち着け。
いまやるべきは解除の方法と、記憶の有無だ。これを知らなければ、次のステップには行けない。
この状況を切り抜けるためにも必要だ。
震える手でスマホを操作して、アプリを起動する。
画面には、新たに『現在催眠している人』という分かりやすい項目が増えていた。そこをタップすると、柏木ユカという名前が出てきた。
なんで名前をこのアプリが知っているんだ、という疑問があったが、こんな魔法みたいなものに常識が通用するわけがない。
上部には『同時に催眠できる人数“1”』とあった。まだこちらのレベルではひとりしか催眠できないらしい。
いつ増加されるか知らないが、とりあえず有益な情報は手に入った。いまこれを知れたのは好都合だ。
ユカの名前をタップすると『解除』と『残り時間』が表示されていた。
「残りは……『23時間』……継続するのは一日だけか?」
「開けろ!! 開けろォォォォォ!!」
さっきよりも叩く勢いが強くなってきた。足で扉を蹴破ろうとしているようだ。
あの野郎、職員室が近くにあるんだぞ。
少しぐらいは躊躇するもんじゃあないのか!?
とにかく、解除だ。
どうやら解除は近くに相手がいれば可能で、催眠時と違って目を合わせる必要は無いらしい。
画面には『解除完了』と表示された。
インターバル――次に催眠が可能になるまでの時間は『六時間』と意外と少ないものだった。
連続でかけられないのは困るが、ヘルプの欄を参照すると、さらに細かなルールが書かれていた。
催眠をかけてから二十四時間がたって自動解除された場合、インターバルなしで催眠が可能。
なかなか不便な仕様だ。
ユカの見た目に変化はないが、内面の変化はこれから確かめる。
「先生」
訊ける質問はひとつだけだ。
あのバカはすぐにでもここに入ってくる。
「ここでおれが寝てるベッドに入ってきたこと、覚えてますか?」
催眠のせいで起こしたであろう、ふつうならやらない行動。
これしかない。
誠人に追い詰められているこの状況を打破する作戦を思いついている。そのためには、この質問の答えがとても重要なのだ。
もし彼女が催眠中の出来事を覚えていたら終わりだ。
おれの未来は闇に閉ざされてしまう。
どうか覚えていないと言ってくれ。
ユカはポカンと口を開けて、言った。
「え、えぇ。覚えてるけど」
足場が崩壊して、奈落へと落ちていくようなショックが襲った。
覚えている。
覚えているだって?
そんなまさか。
じゃあ、不審に思うはずだ。自分がなぜ生徒に抱き着いたのか、甘い言葉をささやいたのか。
緊張と疲労で呼吸が苦しい。
汗が河のように頬を伝う。
喉が締め上げられたように痛む。
「開けろクソタヌキ!!」
ミシッ、と扉がきしむ音がした。
振り返ると、木製のそれにわずかにヒビが走っているのが見えた。
野郎、破壊するつもりか!?
ないか!?
記憶を消す催眠は!?
あるはずだ。
どこかに。
……ない。
どこにもない!
じゃあ『命令』はどうだと試してみても反応なし。
なら『自由入力』でどうだ。
そう考えて『記憶の削除』を申請したが、
『レベルが足りません』
無慈悲なポップアップが表示されて、隆吾は敗北を悟った。
終わりだ。
すべて。
なにもかも。
ここから逃げなくては。
逃げたところで死ぬのは確定だが、それしか道はない。
校庭に通じている窓に駆け寄ると、
「ねぇ、タヌキくん」
ユカが不安そうな顔をしながら問いかけてきた。
「その、私がキミのベッドに一緒に入ったのがどうかしたの? 扉の外で誰かが暴れているのと関係あるの?」
「……なんだって?」
「いや、だからベッドに添い寝したのがどうかしたの……って」
変だ。
なんで生徒にあんな行為をしたのに、まるで「別におかしなところなんてありませんよ」って顔で話せるんだ?
いま考えられる答えはひとつ。
催眠中に起きたことは記憶される。
しかし、それによって起きた矛盾――本来の性格と催眠時における行動の不一致は無理やり許容されるのだ。
ユカは生徒に迫ったことを覚えていながら、その行動になんら疑問を抱いていない。
「タヌキィィィィィィィィィィ!!」
扉がもうじき破壊されそうだ。
ここは自分の推理を信じるしかない。
もしもこれが正しいなら、活路はある。
隆吾は窓から校庭に出た。
スクールシューズが土で汚れるが、構うものか。
目前に迫った
木々のあいだをくぐって、校舎の裏へと進む。
作戦はこうだ。
誠人は愛羅には頭が上がらない。
だから、彼女に『恋人』の催眠をかけることで、誠人にやめるよう命令させる。あのカスみたいな性格の女とはいえ、恋人がボコられそうになっているのを見れば、さすがに止めようとするだろう。
もしも催眠中の記憶を保持していて、それに気づくようでは間違いなく実行には移せなかった。
もちろん、誠人にかけることは考えた。
だが、いまの彼は激昂状態にある。
はたして、ただ態度を変えただけで許してくれるだろうか? 愛羅に催眠をかけるよりも失敗の危険性は高いだろう。
このアプリがどれだけの作用を与えるのか知らない。とはいえ、感情を完全に書き換えるわけではないはずだ。
それに催眠を解除したあとのことも不安だ。
ゆえに、愛羅の権力によって誠人を止めるしかないというわけだ。
愛羅を探しているあいだにアプリを起動していたら間に合わない。あらかじめ、スタート手前で待機させておくか。
そう思って操作していると、ふとおかしなことに気づいた。
「なっ……」
さっきまで『レベル2』だったはずが、
「なっ……!?」
どういうわけか『レベル1』になってしまっている。
おまけに『恋人』の項目も暗くなっていて、反応しなくなっていた。
「なにィィィ――――――――!?」
なんでレベルが下がっているんだ!?
全力疾走しつつ、アプリを触って必死に原因を探る。この現象を引き起こしたものを見つけなくてはならない。
いますぐに。
手振れのせいで画面が見にくいが、抑えている余裕はない。
ざっと確認してみたが、レベルが下がった旨を伝える通知などはなかった。つくづく不便なアプリだ。
そのとき、頭にふと浮かぶ言葉があった。
『善行ポイント』
その名のとおり、善行をすれば貯まるポイントなのだろう。これを集めればレベルが上がり、上位の催眠が使えると書いてあった。良いおこないには相応の報酬があるというわけだ。
なら、悪行をすればどうなるんだ?
ついさっき誠人をイスで殴りつけたが、あれは間違いなく悪行だろう。人生の破滅を回避するためだったとはいえ、まだなにもされていない状態で殴りかかることを正当防衛とは言わない。
隆吾は善行ポイントの説明欄へと飛んだ。
レベルアップには人助けなどをすればいいと記載してあるが、いま知りたいのはそんなことではない。
下へ下へとスクロールしていき、やっと目的の文章を見つけた。
『悪行をおこなった場合』
『故意かどうかに関わらず、人に危害を加える、物を盗む、騙す、など世間的に悪と見られる行為にはレベルダウンの罰が下されちゃうよ!
これは催眠中においても同様で、相手を催眠状態にした上でお金を盗んだり、危害を加えたりした場合も、重ねた罪に相応のレベルが下がるの!
ご注意くださ~い!
ちなみに、あるていどは見逃します!』
なんでこうフランクな文なんだ。
下手な詐欺メールだってもう少しまともな文章を書くぞ。
それはそれとして、理解はできた。
危害を加える行為か。
人を殴った行為はこの内容に該当するだろう。
ただし“あるていどは見逃す”などというフワフワと曖昧な文言に逃げているのが癪に障る。こういう書き方をされて、もしも両者の認識の違いで悪行が引っかかったりしたらたまったものではない。
さて、次の問題だ。
隆吾は昇降口から正面にある階段を駆け上がりながら――アプリを初めて起動したときにレベル2になっていたことを思い出した。
あれは、隆吾がどこかで善行をしたからレベルが上がったんだろう。
なら、その善行はいつおこなった? 朝のホームルームが始まる前に、自分はなにをしていた?
確か……あのとき……。
「おれの席に座った愛羅を注意していた……」
考えられるのはこれだけだ。
もしもアプリが登校している最中にダウンロードされていたとしても、隆吾はその間になにもしていない。歩いていただけだ。誰かを助けたり、注意したことはない。せいぜい青信号を守ったぐらい。
登校前にスマホを見て、異変がなかったことは確認している。アプリが入ったのは間違いなく朝だ。
「注意する……? そんなことだけでいいのか? ほんとに?」
確証はない。
注意なんて善行の内に入っておらず、ただアプリ側のサービスで最初からレベルが2だっただけかもしれない。
可能性としては五分五分だろう。
ダウンロード記念としてレベルを1だけ上げますなんてやっても誰もお得には思わないだろうが。
「どこだァァァァ!! タヌキィィィィィィ!!」
獲物を追い立てる
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