第5話

 彼は、僕は自由だと言った。僕の世界は終わってしまって、この世界には僕しかいなくて、何をしてもいいんだって。それでも僕は手を洗って、いただきますをして、鍵を閉めた。


 それはまだ僕がいた世界に縛られているという事かもしれない。


「さあ、ここだ」


 彼は両手を振って大声で僕らを呼ぶ。夜の静けさに彼の声が響いている。彼の立っている場所の横には小さな二階建ての家があった。さっきまで影も形も無かったけれど気が付くとそこにあった。


 僕らが彼に追いつくと、彼は当然のようにその家に入っていった。灯りは点いているが人の気配はない。玄関の扉を開けて彼は振り返る。


「寒いから早く入ろうよ」


 確かに夜の屋外は少し冷える。僕はその言葉に誘われて、お邪魔しますと小さく呟き家の門をくぐった。どうせ誰もいないのに僕はまた呟いていた。


 玄関には沢山の靴が脱ぎ散らかしてある。靴を脱いで廊下を進むとリビングに彼は立っていた。


「ここも誕生日だったのかな」


 彼はテーブルに置かれた様々な料理の残りと切り分けられたケーキを見て言った。一番大きなケーキの上には『お誕生日おめでとう』と書かれたチョコレートのプレートが乗っている。


 この部屋で大勢が誕生日を祝っていた光景が目に浮かぶ。僕の後ろにいるもう一人の僕もリビングに入ると、おもむろに席に着いた。


「食べちゃおうか」


 その人が一番大きなケーキの皿に手を伸ばすのを見て、僕は咄嗟に細い手首を掴んだ。いきなり手首を掴まれたその人は指先の力を弱めてしまい、ケーキの皿はテーブルの下へと落ちてしまった。


 皿は割れ、ケーキは散らばって僕のズボンの裾にクリームが付いた。こんなつもりじゃなかった。僕はただプレートの乗ったケーキを食べるのを止めようとしただけなのに。


「どうして?」


 その人は僕の目を見て問いかける。


「どうしてケーキを食べるのを止めたの」


 だってそれは誰かのケーキだ。


「この世界には僕らしかいないさ」


 それでもそのプレートの乗ったケーキだけは駄目な気がする。


「僕らが食べなきゃこのケーキに存在意味なんて無くなる」


「僕は自由なんだろ!」


 だから止めるのだって自由なはずだ。


「そうだね。僕たちは自由だ。食べるのも、止めるのも、床に捨てるのも自由」


 そんなつもりじゃない。リビングの中央に立っている彼が口を挟む。彼は僕のことを責めるのか。


「自由の結果がそれなんだ」


 彼は床に潰れたケーキを指差す。


「僕らはそれを見て何を考える?」


「潰れたケーキに意味なんて無い。最初からこうなるって決まっていたんだ」


「潰れたケーキは意思の形なんだ。君が選択したからこうなったに過ぎない」


 違う。どちらも僕の考えじゃない。


 二人の僕は僕じゃない。


「君たちは、誰?」


「「僕らは、君だよ」」

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